そして右側には海が広がる。一年を通じて、その青は山の変化する様々な色合いを際立たせつつ、時には鉛色にうねり、時には寒気の中一面に水蒸気が上がったりもした。わたしはこの海が好きだった。この海は世界のどこかを航海中の父と、直接つながっていた。海に向かって話しかければ、それは父への言葉となるのだった。
その日、海は真っ青だった。
「今日はおじいちゃんの時計のためにすまんかったなあ」
ゆっくりとしたスピードの中で前から祖父の声が聞こえた。風を切りながら走る自転車の後ろからわたしは大声で返事した。
「ごめん。一杯巻くものだと思ったんだ」
「いいよ、わかってる。お母さんはお母さんで、おじいちゃんから昔、まだお母さんが子どもの頃に教わった話を覚えてて、時計が大事なものだと思ってるから怒ったんだよ。おじいちゃんのために叱ってるからなにも言えなかったけど、おじいちゃんはあの時計が壊れてしまってもそれはそれでいいと思ってるんだ」
祖父の声はぼそぼそだったにもかかわらず、自転車の前と後ろでもよく聞こえた。わたしも今度は大声を出さなかった。
「壊れるとは思わなかった。ぼくだってびっくりしたんだよ」
ちょっとべそをかきそうになってわたしが言うと
「わかってる。大事な時計だからネジも巻きたかったんだってことも知ってる」
「ありがとう」
それからしばらくは無言で走り、二人は海と山の風景の一部になった。
やがて大きなカーブを過ぎると海のかなたに四国が見えた。海岸には使われなくなって放置されたままの朽ちた古い灯台があり、河口の中ほどの建固な赤い灯台が、今はその役目を果たしているのだった。
「達也、おじいちゃんが昔船に乗って荷物を運んでいたことは知ってるな」
「うん」
海風は心地よかった。涙が乾いた後の頬を優しく撫でていた。
「あの赤い灯台はおじいちゃんの寄付でできたんだよ。それまではそこにある古い灯台を使っていた」
「うん。知ってる」
祖父はあの時茶目っ気たっぷりの顔をしていたと思う。何十年も家族に秘密にしていたことをわたしに教えようとしていたのだ。
「おじいちゃんは若い頃貧乏だった」
「うん、知ってる」
祖父はおおらかに笑った。自転車はゆっくりと走っていた。大人達はそれぞれの持ち場で働いていた。しかし、ここにはただ、海と山に囲まれた陽光の中、何の約束もなく、すっぽりと空いた時間がゆるやかに流れているだけだった。
祖父は自転車を止めて赤い灯台を見た。
「こんなに近くで見るのは久しぶりだな。もうあの赤灯台自体、年月がたって古くなった」
感慨深そうに言った。
「今日はあの時計がどうしておじいちゃんにとって特別に大事なのか、おまえに話してやろう。おまえのお母さんがおまえくらいの時に話したことだ。お母さんはその話をよく覚えているんだよ」
道には自動車というものは走っていなかった。舗装されていないあぜ道が海と山を区切っていた。沖合いに船が三隻停留していた。
「おじいちゃんがおばあちゃんを好きになった頃、おばあちゃんの家はお金持ちでね、昔はおじいちゃんのように食べるのがやっとの若者はそういう家の女の人とはなかなか一緒になれなかった。だから駆け落ちと行って、親に黙って二人でどこかに逃げて行って結婚する人たちも多かった。でもおじいちゃんは逃げるのは嫌だったから、ある日おばあちゃんのお父さんに結婚したいから娘さんを下さいって、頼みに行ったんだ」
これは初めて聞く話で六歳のわたしにも面白そうな話だった。