【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

YouTubeチャンネル『世界の名作文学を5分で語る』のブログ版です。世界と日本の名作紹介と様々な文学批評 そして自作の詩と小説の発表の場です

1987年7月7日のスケジュール  第一話

 

 

 

創作 詩と小説 文学随筆とエセー

 

船橋から千葉の奥の方へ三十分も電車に乗れば、北習志野駅へ到着する。この辺りの通勤時間としては平均的であるが、ものすごく遠く感じてしまう。

 

駅を出ると線路に平行して長い直線の道があり、それは駅の構内の一部のように見えるが、歩き通すには五分はかかり、何となくまだるっこしい道だった。朝などは、せっかく駅に着いたと感じても、ホームにはまだ六、七分はかかる。

 

その道を抜けて、大通りを左に曲がった時、小雨がぱらついて来た。私はこんな時、あわてて走ったりしない。結局のところ二、三分も雨の中にいれば歩いても走ってもどのみち濡れるのであり、覚悟さえできれば雨もまた風流である。

 

 

悠然と歩きながら、送別会の案内状を思い出した。

それは本社にいる柏木から社内便で届いた。生命保険会社の支社では三時に店口のシャッターを下ろす、これで来店の接客がなくなるので少し気分がほっとした時だった。

 

事務所の脇に控えめな扉があって、六畳ほどのコンクリートに囲まれた牢屋のような空間につながる。そこにテーブルと椅子を置き、食器棚と冷蔵庫があって、三時の御茶を飲んだり、女の子達は手製の弁当をお昼に食べたりする。

 

私は椅子に腰掛けて、先に休憩していた女の子たちによっぽど話そうかと思った。

 

戸北という馬鹿な奴がいて・・・新人研修が終わって泣く泣く福岡支社に配属になり、向こうで遊びで女を作って、しばらく東京の彼女と二股かけていたが、ふとしたことでばれてしまって、福岡の彼女の父親が会社の重要顧客であったことから、大騒ぎとなり一時は会社を辞めることになったが、社内政治の狭間でうまい具合にニューヨークに転勤になった・・・

 

出来事全体は滑稽で悲惨。福岡の女の子は自殺未遂して会社を辞めた。

 

われわれが見送る戸北という奴は、いつでもどこでも女がいて女に甘えないとだめな男だった。その癖、すぐに会社の批判や人の悪口や、斜に構えた時評など連発する。それも自信のなさの裏返しか、妙に威張りくさった態度を取っていて、私にはどうしても好きになれないタイプだった。ところが、とてもやさしい一面があり、それが気の弱さをうまい按配に表に出せる技術とあいまって、女にはもてた。それが私にはなおのこと気に入らないわけなのだが、とにかくあんな奴は、結婚して一人女をキープすれば心が落ち着いて伸び伸びするのかもしれないが、まあ、もともとあんな奴が、転勤する会社に入るのが失敗だったんだと思ったりした。県庁にでも勤め、引越しもせず、結婚して酒とタバコとセックスで過ごしていればお似合いだ。

 

言葉はいくらでもあふれて来るが皆飲み込んだ。昔から、何か糸のようなものが時々頭の中にイメージとして浮かんでくる。それが切れないように行動して来た。そういうけじめのようなものが私をずっと支えてきたのだ。

 

ニューヨークに転勤する奴がいるんだとだけ教えた。話は盛り上がらなかった。

 

だんだん雨脚が強くなってきたが、ペースは変えず右に曲がる。

 

私のアパートが見えてくる。街灯に照らされた二階建てのコーポだ。上司が、私に何一つ尋ねるでもなく、どうせ新人が一、二年暮らすだけだといういい加減な思いで決めた部屋。衣食住という、人間生活の三大要素の中の「住」を、おおらかにも、会社の予算だけを考えて決めるというやりかたに、私は強い反感を覚えたがあっさり妥協もした。しょせん仮の生活、仮住まいもまた当然という割り切りが働いたのだ。

 

そして半年が経ち、自分が選んだか他人が選んだかなどどうでもよくなった頃、結構住み心地もよくなって来た。

 

 

部屋にたどり着く。ドアをあけて、新聞受けを開けると郵便物がたくさん押し込まれていた。

 

靴を脱ぐ前に儀式を行なう。無事に帰ってきたことを、感謝するのだ。それは何に対してだろうかと自分でも思うが、しかし何者かに向かってたしかに私は感謝するのである。そして何事もうまくいったと独り言を言い、部屋に上がる。

 

玄関からいきなりキッチンだった。四畳半くらいの広さで共用廊下に面して大きめのキッチン台があった。ガステーブルは組み込まれていなかったので、引越しの時に自分で二口のグリルつきを買った。わたしは休日は自炊するし、平日の朝もハムエッグを作り、トーストに挟んで食べる。飲み物はコーヒーかミルクティーを作る。

 

キッチンの、玄関と反対方向に風呂とトイレがあった。

 

風呂はシャワーがなく、タイル張りで、年月の汚れがしみ込んでもう取れなくなっている部分もかなりあった。浴槽も同様で、その横にドンと設置されているバランス釜にいたっては、引越し当時、連結部分から火が噴出し、修理はしたものの、ガス漏れをこれ以上防ぐことは不可能で、大家は丸ごと交換はしないと言っているから、騙し騙し使うようにと不動産会社に言われた。その件についても、私はあっさり妥協した。しょせん仮の住まいだから出るまで我慢すればいいし、争い事が泥沼のようになるのは嫌だった。

 

雨に濡れた頭と顔をとりあえずタオルで拭いて、風呂に湯を貯める。

 

キッチンからふすまをあけると三畳の和室があり押入れがある。その向こうに、ふすまをあけるとさらにもう一部屋六畳の和室がある。両方の部屋に、薄いグリーンのカーペットを敷き詰め、三畳の部屋には先輩からもらった大きな箪笥を置いた。六畳の和室には、ソファーベッド、机、本棚、カラーボックスを三つ並べてステレオとテレビを置いている。

 

私に張り付いている様々な役割から、自分自身だけが残る時間だった。部屋に戻れば自分との関係しか存在しない。文字通り、自分だけの城のはずだった。

 

玄関のポストに入っていたものを机に置く。机には向かわず、机の脇に並べたソファーに深々ともたれかかって、一つ一つ眺めていく。

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