ヘルマンヘッセは有名な作家である
しかし富士山が、甲府からみる景色と静岡で見る景色、東京から見る景色などみな違うように、ヘッセという風景は様々だ。
こういうことである。
を読んだ人がいるとする。
②デーミアン、シッダールタ、荒野のおおかみ、ナルチスとゴルトムント、ガラス玉演技と晩年の詩を読んだ人がいるとする
①と②のヘッセはまったく違う作家です。郷愁を書いた人がデーミアンを書くようになるとは普通は思わない
戦争がヘッセを大化けさせた
これはもう第一次世界大戦のせいであり、ガラス玉演技などは第二次世界大戦がないとありえない。
ロシア文学の圧倒すべき迫力は、19世紀ロシア帝国の悲惨があってこそ。南米文学が20世紀末に花開いたのも、軍事政権下の鬱屈がそのエネルギー源だったでしょう。
ということでわたくしはヘルマンヘッセの初期から晩年に至るまでの全時代を通してのファンである。
もうひとつの考え方|詩人ヘッセと作家ヘッセ
詩人ヘッセと作家ヘッセという視点もあるだろう
個人的にはヘッセの詩は 昔の学生が誰にも見せない前提でノートに書いた詩のように感じる
見せるための詩というのは リルケやヴァレリーやランボーのようなものだ
ヘッセの詩はみんなに読んでもらいたいというのがゼロで あくまで自分のために書いているように感じる
そしてその詩に大いに共感するのである
また小説は トーマス・マンと比べると明らかに技量は落ちる
独特の詩人的感性で構成していく散文である。なのでブッデンブロークや魔の山のような小説のうねりのような感動はない。郷愁などの初期作品も荒野のおおかみ、シッダールタなどの戦後の作品も構成という点では詩人的感性の力技である