ルソー『エミール』のエッセンス|「自然人」の概念がもつ深すぎる意味と人間を紐解くその思想的転回
カントが没頭し トルストイが惑溺した ジャンジャックルソー。 ゲーテにさえ影響を与えた彼の 告白と教育の文学的哲学的思索は人類普遍の至宝です
ルソーの言葉で有名なのは
「自然に帰れ」
ですね
なんとなく大自然の中で暮らそう 都会から離れて
という雰囲気を感じるのですが実は違います
こういうとわかりやすいです
「社会人と自然人」
社会人とは私たちがよく使うニュアンスのままです
社会人1年生 社会人として恥ずかしくないように。
ルソーの時代のフランスでも社会人という概念はあったようで
ルソーはエミール冒頭で
社会人になるための教育ばかりなされることに憤りを感じているようなのです
そして
人間は社会人であるまえに 自然人として確立されなければならない
そのために自然人教育が必要である そしてそのためにあるのがエミールというわけです
では自然人とは何か?
社会的にどうふるまうか?
社会人としてどんな職業につくか?
国家や共同体のためにどんな役に立つか?
が社会人であるのに対して自然人はこうです
まず人間性として優れているか
たったひとりで無人島に流されても生き抜く知恵と体力がある
神を前にしてはずかしくないか
などなど
東洋風に言えば社会生活の前に論語や孟子などで心を磨くという感じです
こういう哲学的なある意味実存的なあり方を追求するのが
自然人に帰れであり
その実践紹介本がエミールなのです
ホメロスのイリアス|神々のざわめきが聞こえて来る叙事詩
久々の通読を記念して動画をアップ
2023年12月22日金曜日 文芸YouTuberムーさんのオンライン読書会『ホメロス物語』 に向けてのメモとしてアップしました ヨーロッパ文学のDNAとしてある意味キリスト教精神よりも入り込んでいるギリシャ人ホメロス。それは人類普遍のスーパー文学です
小林秀雄の ホメロスの心ばへとは?
日本神話もギリシャ神話も同じ
古の心ばへの通りに 受け止めることが大事だという
イリアスを読み始めた
#ホメロス の #イリアス はヨーロッパ文学のもっともすぐれた金字塔です #オデュッセイア も含めてこれほど面白く 深く 広い作品はないのではないか? そしてこれを読むとトルストイの戦争と平和が とてつもなく面白く感じられるのでした
2人のヘッセがいた!|ヘルマン・ヘッセの作家としての変容について
ヘルマンヘッセは有名な作家である
しかし富士山が、甲府からみる景色と静岡で見る景色、東京から見る景色などみな違うように、ヘッセという風景は様々だ。
こういうことである。
を読んだ人がいるとする。
②デーミアン、シッダールタ、荒野のおおかみ、ナルチスとゴルトムント、ガラス玉演技と晩年の詩を読んだ人がいるとする
①と②のヘッセはまったく違う作家です。郷愁を書いた人がデーミアンを書くようになるとは普通は思わない
戦争がヘッセを大化けさせた
これはもう第一次世界大戦のせいであり、ガラス玉演技などは第二次世界大戦がないとありえない。
ロシア文学の圧倒すべき迫力は、19世紀ロシア帝国の悲惨があってこそ。南米文学が20世紀末に花開いたのも、軍事政権下の鬱屈がそのエネルギー源だったでしょう。
ということでわたくしはヘルマンヘッセの初期から晩年に至るまでの全時代を通してのファンである。
もうひとつの考え方|詩人ヘッセと作家ヘッセ
詩人ヘッセと作家ヘッセという視点もあるだろう
個人的にはヘッセの詩は 昔の学生が誰にも見せない前提でノートに書いた詩のように感じる
見せるための詩というのは リルケやヴァレリーやランボーのようなものだ
ヘッセの詩はみんなに読んでもらいたいというのがゼロで あくまで自分のために書いているように感じる
そしてその詩に大いに共感するのである
また小説は トーマス・マンと比べると明らかに技量は落ちる
独特の詩人的感性で構成していく散文である。なのでブッデンブロークや魔の山のような小説のうねりのような感動はない。郷愁などの初期作品も荒野のおおかみ、シッダールタなどの戦後の作品も構成という点では詩人的感性の力技である
作家目線・書き手側の視点で見た世界文学のすごい作家たち
小説を10年、詩を40年書いてきました
高樹のぶ子さんが芥川賞を受賞した 光抱く友よ を掲載した文芸誌らんぷに
世界の中心で愛を叫ぶ の片山恭一さんも所属して文芸誌らんぷに
まさに加入して10年間せっせと書いていました。
で ぼくは小説現代新人賞予選突破の実績しかないんですが(笑)
一応書いてきた人間としての目線から世界文学を語ってみました
動画中に これは真似できるとか偉そうにしゃべっていますが
真似ができるだけで 決してそのレベルではありません
たとえば野球なんかでフォームを 真似ても同じプレイにならないのと同じ
ただ創作経験で 作品の構造や ここでこう書く! ときの作者の様子が 結構わかるようになる そんな話になっています
大きなところでは
ドストエフスキー的なものは書けてもトルストイ的なものは書けない
みたいなことをしゃべっております
村上春樹の読書体験~1985年から読み始めてほぼ全作品を複数回読みこんで来た読者です
最初に読んだ村上春樹は1973年のピンボール
ネズミという友人とぼくの話だ。
フローベルを読みながら夏中ビールを飲むだけの虚ろな若者のぼく。
そこに双子の女の子がやってきて奇妙な同棲生活がはじまる。
そしてネズミという何かを求める若者がぼくと袖すりあう程度に関係しながら
いろいろする。
この小説を24歳のぼくはとても面白いと思って読んだ。たぶん切れぎれにあちこち読んだ回数なら100回にはなる。
これは村上春樹の2作目だ。
デビュー作 風の歌を聴け
これが面白かったのでデビュー作の「風の歌をきけ」も読んだが全く同じ小説だった。
1作目2作目は喫茶店経営の仕事が終わり、夜書いたのでいつも書き始めるところから新たに物語がはじまった、みたいなことを本人がインタビューで答えていたが、その通り。
風の歌をきけと1973年のピンボールは2冊まとめてどこから読んでも同じ世界だと思う。なんの違和感もない。
ところがとても面白かった。あれは漂白の魂と若者の純粋さが実は前面に出ていたと思う。そしてそれが結局若者たちの共感を読んだのだ。結局村上春樹の後の全作品は、この2作に込められたものの拡大深化再生産であるのだと思う。
村上春樹を読んだきっかけ
なぜ村上春樹を読んだかというと、24歳の時のガールフレンドがぼくと待ち合わせの喫茶店で読んでいたのが村上春樹の「羊を巡る冒険」だったからだ。それが3作目。「面白いわよ」と言うのでまずは短いピンボールから読み始めたのだ。
そして 1973年のピンボールの後に 羊を巡る冒険を読むことになる。
その後の村上春樹読書
文学の文体についての考察|作品の良し悪しを決めるものとは?
文学YouTubeチャンネルに最近アップした動画のご案内です
文体についてあれこれ自分流に考えていきました
文学の楽しさの根底には文体がある
文体がつまらない小説などはどれほど面白くてもつまらない
それは翻訳を考えるとわかりやすいです
名作でも翻訳がいまいちなら全然いい作品に感じられなかったりします
そしてまた
森鴎外の青年などはそれと逆で
小説としてはどうやら中途半端なんだけど
文体の卓越性で読者を引き込みます
文体を考える
文体は作品に占める役割が大きい?
いや、作品とは文体のことかもしれない?
文体についてあれこれ考えます
森鴎外 堀辰雄 小林秀雄 太宰治 大江健三郎 ヘッセの翻訳を朗読して
その片鱗を味わいます。プラス北杜夫 の文章を幽霊の冒頭で少しだけ紹介しています