【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

YouTubeチャンネル『世界の名作文学を5分で語る』のブログ版です。世界と日本の名作紹介と様々な文学批評 そして自作の詩と小説の発表の場です

堀辰雄『風立ちぬ』の深読み解説|動画付き(わが祖母に捧ぐ)

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みなさんこんにちわ 古荘です

今回は堀辰雄の名作風立ちぬ について

お話していきます

ジブリが同名の映画を出したこともあって相当有名なタイトルになりましたね

 

実は私は過去にも風立ちぬについて話しました

今回は久々に通読したのでそれを記念しての動画となります

 

それでは風立ちぬについて 見て行きましょう



風立ちぬ と 海の墓地

 海の墓地の写真

 

1. 序曲  序     美しい高原  

  この美しすぎる高原で風立ちぬ と呟く

  それはヴァレリーの海の墓地の一節

  海の墓地に対比させてこれは「高原の墓地」だ

 

物語の全体

 

2. 序曲 春 風立ちぬ 冬 死のかげの谷と5つの大見出しとなっている

 

    序曲で美しい時を過ごした女性

    高原で一緒に過ごした絵を描く女性と婚約している

    彼女は結核である

           

そして

   「春」     

     節子の家  婚約 病気

      転地    春 サナトリウムへ 八ヶ岳

次にサナトリウム生活の忘れられに場面が散文詩としてそれぞれシンボリックに描かれている あまりにも悲しく美しい  

 

   風立ちぬ

     夏まで サナトリウムでの二人の精神生活 

   「冬」

    手記で   秋と冬を書く 死への道

   「死のかげの谷」

     死後の手記 去年手記の切れた日取りあたりから1年後手記を開始

           死後 ひとりで生きる主人公

 

3.どんな構成の小説なのか?

  2の物語をこんな書き方で書いている

  散文詩 序曲と風立ちぬは小説の文章というより場面場面が散文詩である 

      美しすぎる

  手記1  もう散文詩は作れない あまりにも生々しく手記でしか書けない

  手記2  ここでも手記でしか書けない

 

 

4.執筆の事情 実話

  矢野綾子という婚約者との実話がベース 美術学校を出た女性

  1933年 22歳 に出会い(美しい村に描写)1935年24歳に結核で死去。

  36~37年風立ちぬ執筆 38年出版

  アンネフランクの日記やヴィクター・フランクルの夜と霧の中

  などは文学的才能がなくても事実を書くだけで読むものの心を震わせる

  風立ちぬはまさにそうしたもの。ところが書いたのが天才作家堀辰雄である

  稀有な作品となったのである

 

堀辰雄も1953年結核で死去。

結核が治るようになったのは・・・

  先ず,1955(昭和30)年にほぼ確立 したストマイ,ヒドラジッド(以下ヒドラ),パス の3剤併用で多くの結核患者が死なないで済むよう になり,1975(昭和50)年のリファンピシン,ピラ ジナミドを含む短期化学療法の開発で結核は本当に 治るようになったと言われます。

 

5.風立ちぬ は何が描かれているのか?

 どんなことが表現されたのか?

 まずタイトルのヴァレリーの海の墓地の示す死と永遠は当然

 死ではなく小説だからもっと生々しい

  私見

  死が決まっているものの 覚悟 哀れ 

  それにつきそい見守る私 そして生き残る自分は二人の存在意義を模索するが

  死にゆく彼女には死しかない

  出征兵士がよく読んだという 死にゆくものと生き残るものの小説だからだ

  生きられるだけ生きましょうね

や そんなに長く生きられたらいいでしょうね

  などは 身につまされたことでしょう

  

ノルウェイの森

一方最近3度目の通読をしましたがあれは死ぬかどうかわからない直子と絶対死なない渡辺君の曖昧な

  ドラマ。

  ところで

  私の祖母はに比べれば節子はまだいい。

  移民の妻としてペルーへ。結核。夫の死。

  財産の処分 3人の子供を日本へ返す リマの駅で永久の別れ。

  そして風立ちぬの節子の最後の日々をアンデスの山中のサナトリウムでひとりで。

  節子よりもきつく 父たちは私よりもきつい悲劇を生きた 死んだ

 でもやがて子供たちは日本で成長しその子供が生まれそのまた子供が生まれた

 ペルーの死の床でそんな、自分がいない未来を夢にみただろうか。

 

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村上春樹「ノルウェイの森」の世界を徹底解釈するとネガティブになった話

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⓪大衆には色とりどりの花を|その中に識者にだけわかる芸術をいれるのだ トーマス・マン ゲーテとの対話より

 

花で読まれているのではないか?

 

村上春樹の世界は短編小説なんだよ

長編にすると齟齬が生まれるのだ

 

キズキと直子とぼくは集合的無意識でつながっている

そしてぼくが緑と近づくほどにその世界が混乱し 幻聴が起こり 最後の一線を越えてぼくと緑の絆が出来上がった時 直子は自殺した

冒頭井戸でみんなつながる

このモチーフはカフカでも騎士団長でもネジ巻鳥でも繰り返される

誰かの無意識が誰かに影響を与える

 

②長編から来る印象というのが残るかというとそれは確かに残るでも 随所に村上春樹本人が顔を出すから感情移入できない

この文体で書けるのはピンボールまで、羊で限界だったのではないか

堀辰雄の文体でカラマーゾフが駆けないように

チャンドラーやフィッツジェラルド風の会話がわざとらしすぎて腹が立ってくる

いかにもチャンドラーのやりそうな会話を キャラの薄いぼくが使うから

皮肉とエゴを感じる

それを突き抜けても良い話だったけど 未処理でしょう

 

またディテールが展開しすぎて楽しい短編にはなるけど長編として統合がいまいちか

不要なディテールがたくさんあるように思う 永沢さんとハツミさん、突撃隊なんかなんのために登場したのか?突撃隊はまあ 蛍という短編で元々いたからあれだけど突撃隊の必然は完全に消えている

 

それに的確にデティールが処理されてないので いったい何の話だったかわからなくなりそう。

 

レイコさんのレズビアンの少女の話ってなんだ?

そもそもレイコさんってなんだ?最後の年上女性とセックスしたいから登場するのか?

カフカでも50代の佐伯さんとカフカ君がセックスする





③ところでなぜミッシェルではなくてノルウェイの森なんだろうか

なんとなくビートルズで森の雰囲気があればいいのか

 

ぼくの世代なら ステアウェイトゥヘヴン か ホテルカリフォルニアか。

 

④キャラ

女は全員同一人物 レイコさんと緑と直子とハツミさん レズビアンの少女にさえにどんな違いがあるのか

男も全員同一人物 キズキ 永沢 ぼくは同じキャラ

全員がぼくの妄想

女性は村上春樹の理想的に都合のいいセリフをしゃべってるだけ

小谷野敦の批評

 

みんななんでもしそうなキャラだからみんな制限がないからみんな同じになる

ぼくの全セリフを永沢さんが言っても不思議ではない

レイコさんの全セリフをハツミさんが言っても不思議ではない

逆もまた。

表情のないマネキンのような登場人物たち

この世界を稼働させる作者村上春樹のエネルギーだけが 人間くささを出している

⑤どの作品でも女性とすぐ寝る

セックスして射精するのは村上作品では都合よく精神的儀式です

ぜひそんな世界で生きたいものだ(笑)

しかも

相手は必ず美人で賢くやさしく人の心のよくわかる女性

そしてどの作品でも ぼく に男性的魅力は感じないのだがなぜ寝れるかというと

男も女も村上春樹だからだ

 

まるで実験室のモルモットの観察のように女と寝る

 

あるいは同時に2人好きになって何が悪いのか?そもそもそれが自然であり

制限は受けないということ

一度に好きになるのは1人だけ、というのは結婚制度を存続させるための共同幻想

まして男は今目の前にいる女を抱きたいしちょっとかわいくて気が合えば好きになるし

そんな中で最高の女は3~4人はいるものさ

 

だから好きになろうとセックスしようと直子は直子でとても大切に思っているのだから

誠実ですと 小説中に叫んでいる

⑥若者だけを頂点とするヒエラルキー

娘二人を自殺で失くした直子の両親は葬式で世間体しか気にしないとんでもない人たちとしている

僕の同世代しか人間ではない かくも偏狭に世界を観れば絶望しかなくて

かくも他世代を無視して世界を見れば 行き詰まり 共感はなく うつろになるだろう

さらに

若者の死は美しく重大事件として設定されるが緑の父の死などは 池に住む亀が死んだように語られる 汚いもの どうでもいいものとして処理される 

 

それに直子の父の弟のことで子孫に害がでているように書かれているが

そのまま。直子まで死んだら父は弟のことを思うだろう もっと強く。

こういうのを未処理というと本人は

無意識化の物語を言葉で考えてはいけないみたいに言うから深い井戸に石を投げるようなものだ



⑦コロナの時みたいな精神衛星の潔癖症

一日中手を洗っている

 

⑧堕落しない 一切の堕落をせずに生きようとしている

坂口安吾堕落論で行けば 堕落をよしとせずそのまま死ぬのである

特攻隊の兵士は神聖だが帰還すれば闇屋になる

戦争未亡人は聖なる女性だが 戦争が終われば再婚して別の男の子供を生む

でも

だからといってそれを嘆いてはいけない 生きるとはそういうものだ

人間の本性に逆らう偶像を作って人々を操っていたのだ

堕落して本性として生きよう

 

村上春樹のぼくは 堕落を拒否して不自然な人間として永遠の戦地にいるのだ

しかも

 

あくまで体制側にいるぼく

ちゃんと学校にいき授業に出る どうでもいいことだけどというが

どうでもいいことはちゃんとやるのが村上春樹に主人公

きっと安保闘争に賛成しながら活動には参加せず授業に出たのだろうと思う

昔の日本には勝ち組・負け組はなかった 

自分のルートをコースを歩けば全員が引き分けだった

オフコースした人だけが負けたりする

高校も商業も工業も大学も この学校のこの成績だとこういう会社

というルートが出来上がっていて結婚相手もその範囲内

人生は共同体の中で営まれていたのが戦後バブルまでの日本だった

実はよかったのはバブルではなくその直前までの秩序だった

 

で 安保闘争とはその破壊の祝祭でもあった まあ一揆です

政治的には不合理な活動です だから復権しない

 

キズキの死も直子の姉の死も直子の死も 必然、災害のようにあきらめるしかない

決して悲しんでいるようには見えない ショックで旅行に言ったとは書いてるけどひとつもショックを受けてない 結局レイコさんとセックスして癒されるという意味不明な。





⑨書評

 

柄谷行人は、村上の作風を保田與重郎などに連なる「ロマンティック・アイロニー」であるとし、そこに描かれる「風景」は人の意思に従属する「人工的なもの」だと述べた

 

世界なんかない

すべては村上春樹の内面空間

 

上野千鶴子は、鼎談集『男流文学論』(小倉千加子富岡多恵子共著、筑摩書房、1992年1月)において『ノルウェイの森』を論評し、次のように述べている。「はっきり言って、ほんと、下手だもの、この小説。ディーテールには短篇小説的な面白さがときどきあるわけよ。だけど全体としてそれをこういうふうに九百枚に伸ばせるような力量が何もない。

 

この世界になぜレイコさんや永沢さんやハツミさんが登場するのかは謎だ

面白いけど レイコさんのレズビアンレイプのような話ってなんだ?

 

富岡多恵子は、上記鼎談集において近松門左衛門の「情をこめる」という言葉を引用し、『ノルウェイの森』について「ことばに情がこもってない」と評する。それは「情をこめるようなことば遣いを現代というのがさせない」からかもしれないと述べている

 

とにかく堕落しないために正面から真の言葉で語りはしない

見たいものだけを見る その範囲内で沸き起こる感情にだけ関心をもつぼく

 

中島梓は、『ねじまき鳥クロニクル』について、「面白い」と認めつつも「骨のストーリーだけにしてみるとこれはほとんどどうしようもない三流のレディースコミックみたいなものである。」と述べている

 

ノルウェイの森も骨のストーリーだけみると

高校時代の自殺した親友の彼女が病んで自殺するまでの間

ぼくは学校生活を楽しみながらちょこっと見舞いに行ったという話になるか

 

小谷野敦は、『ノルウェイの森』の書評で、「巷間あたかも春樹作品の主題であるかのように言われている『喪失』だの『孤独』だの、そんなことはどうでもいいのだ。(中略) 美人ばかり、あるいは主人公の好みの女ばかり出てきて、しかもそれが簡単に主人公と『寝て』くれて、かつ二十代の間に『何人かの女の子と寝た』なぞと言うやつに、どうして感情移入できるか」と述べている

 

その意味ではぼくは豪傑だ

そしてそんなことない セックスなんかしたくもない 勉強もしたくもない

といいながらやることはやって楽しくもないとうそぶく最低の人間だ

 

蓮實重彦は、「『村上春樹の小説は、結婚詐欺の小説である』ということであります。最新作を読んでいなくてもそのくらいはわかる」と述べている

 

小説世界では女も村上春樹そのものじゃないか

 

渡辺みえこは、『ノルウェイの森』に登場するレズビアンの少女について、その描き方が差別的であると論じている

 

それを言えばぼくが認めない人間はサル扱いです

緑の父、直子の両親 施設のおじさんなど みんな影が薄く程度の低い大人として述べられている

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【文学的故郷とは何か?】ヘッセ『世界文学をどう読むか』から|ドイツ文学の純朴な精神と朗らかな生の歩みを味わう

あなたは 文学的故郷を持っていますか?

ヘルマン・ヘッセ著「世界文学をどう読むか」

ヘルマン・ヘッセ著「世界文学をどう読むか」という100ページにも満たない小冊子がある。冒頭からいきなり素晴らしい一文で始まるのだが作家を目指す人にはぜひおすすめの随筆である。

その中にこんなくだりがある。

「自分はあらゆる本を読みインドやロシアやフランスの詩や小説も読むが、精神的な故郷は18世紀の南ドイツの文学である」
ヘッセの精神的故郷である18世紀の南ドイツ文学、南ドイツ音楽とはどんなものか

それは少し時代の変動はあるもののおおむねメーリケやジャン・パウルなどの世界である。そしてモーツァルトやバッハの世界でもあるようだ。(オーストリアは南ドイツ)

ヘッセは晩年次のような詩を記しています
ヘルダーリン頌歌』やメーリケの小説『画家ノルテンを再読して』モーツァルトのオペラ『再びフィガロの結婚の入場券をもって』
精神的故郷の詩人や音楽家への感謝と賛歌の詩を書いたのです

私の文学的故郷

さて私自身の文学的故郷はというとやはりある。

ヘッセの郷愁、春の嵐、詩集

anisaku.hatenablog.com

カロッサの幼い頃、青春変転、美しき惑いの年 詩集

anisaku.hatenablog.com

シュティフターの 晩夏 石さまざま

anisaku.hatenablog.com

ケラーの 緑のハインリヒ

スイスの作家ケラーと「緑のハインリヒ」 - 【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

 
ヘッセが18世紀の南ドイツとしたものを
私は19世紀から20世紀前半のドイツとなっているのである。

これが私の文学的故郷である。

ドストエフスキーアンドレジード、カミユにカフカトーマス・マンヘミングウェイなども好きだが故郷というとこうなる。

ゲーテは入らない。ヘッセも荒野のオオカミや、ガラス玉演技などは入らない。

尊敬する作品と、愛好する作品と、故郷となる作品は違うのである。

4人のドイツ人の記載の作品こそが本来の私であって、あとは人生の紆余曲折を経て読み込んで行って感動したのである。もともとは南ドイツとオーストリアとスイスのドイツ語の作家の翻訳が私の精神を形成したのである。

 

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語源で考える「古典」と「clssic」の本当の意味|ホメロスとダンテと荀子

音楽でも文学でも classicの翻訳が古典である

クラシック音楽はクラシックミュージック

クラシック文学は古典文学となる

なので19世紀のフローベルやバルザックトルストイを古典文学というと

近代文学だ、古典と言えるのはシェイクスピアとか源氏物語とかギリシャローマや古代中国だと言う意見も出て来る

これは翻訳が悪いのである

もともと日本にはこんにち言われる古典文学の概念はなく 古典といういかにもな語句を与えてしまった そこから齟齬が生まれたのである

クラシックの語源とは?

古代ローマで 国家の危機に際してローマ市民は2通りの貢献をしたのだとか。

ひとつはみずから兵士になって戦うこと。

もうひとつは財をはたいて艦隊を寄付すること。

もちろん命をささげる行為は崇高なのだけど 軍事的にみれば

1人が一人の兵士を寄付するよりも 一人が数隻の艦隊を寄付するほうがすごい

この寄付された艦隊をクラシスと呼ぶ

そして寄付した人のことをクラシススと言います

そうです

クラシックの語源とは国家の危機に際して艦隊を寄付する人のことなのです

転じて 人生の危機に素晴らしい文学や芸術を運んでくれるものをクラシックと呼ぶようになった だからクラシックとは古典ではなく最高という意味もありますね

クラシコ・イタリア WBCワールド・ベースボール・クラシック

なんかもそうです

なのでクラシック文学というのは古い本のことではなくて

優れていれば現代文学でもクラシックなのです

荀子の言葉 

東洋でも荀子の言葉がこの概念を示しています

夫(そ)れ学は通のために非ざるなり。窮して苦しまず、憂えて意(こころ)衰えざるが為なり。禍福終始を知って惑わざるが為なり」とあり、本当の学問とは、立身出世や就職などのために(通になるため)ではなく、「窮して苦しまず、憂えて意(こころ)衰えず、禍福終始を知って惑わざるがためなり」と説いています。

人生の危機に際してクラシスとなって助けてくれるものこそ学問だと述べているわけですね

 

世界の名作文学から古典、クラシックとはなにか? を深く考えてみました #ダンテ神曲講義 と #厳選classicチャンネル を参考にしました

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今道友信著「ダンテ神曲講義」の序、「ホメロスと序」に書かれた古典の意義と意味に触発されて、なぜ私は古典文学を読むのか?を考えてみました

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ヘミングウェイの キリマンジャロの雪

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今回ご紹介するのは ヘミングウェイの キリマンジャロの雪 です

ヘミングウェイの短編キリマンジャロの雪は 武器よさらば や 日はまた昇る によく似たシーンも登場します 映画にもなったこの名作短編は想像を喚起し人生について考えさせてくれます

武器よさらば 日はまた昇る 老人と海 誰がために鐘は鳴る などの代表作が

ことごとく映画化されたように キリマンジャロの雪 も映画になっています

映画も見たことがあるのですが映画の記憶はほとんどありません

今回は新潮文庫の文庫本で読みましたが翻訳はいまひとつではないか?

ちょっと女性の会話部分のセリフが 古めかしくてぎりぎり何とか読めた感じです

別に世界文学全集のヘミングウェイの巻にも入っていたのを読後に発見しましたが、こちらはしっくり来るものだったので あー失敗したって感じです

まあそちらの翻訳でも読めばいいのですが YouTubeに動画をアップしたら いったん僕の中では終わってしまうのでまた別の機会にということになります

ちなみにそのよさげな翻訳は 佐伯彰一さんです

 

 

 

 

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リルケの「ドゥイノの悲歌」の全体像が頭に入らないという話

ドゥイノの悲歌はリルケの代表的な詩集?です

第一の悲歌から第10の悲歌まで10の長詩で構成されています

さてこれほど長い詩であるにもかかわらず

あちこちでリルケ的な ハっとするような表現が(翻訳されていてもリルケ的とわかる)散りばめられています。

それは部分的な詩句のこともあります。一行の中の語彙でもって なるほどリルケの言い回しはすごいと思うものもあるし この4行この10行がすごいというのもあります

そういう箇所は昔から好きでした

しかし 実のところ・・・

全体を通して ひとつの感性が統合され きらめく言葉の星々が

ひとつの星座をつくって世界を構築している

その姿を ぼくはドゥイノの悲歌に感じることができません

1~10の悲歌全体というだけでなく ひとつの悲歌でも

その全体が見えにくい リルケは常に細部への精緻な凝視をするから

なにかこう 細部への没頭のせいで 

 

その様々なミクロへの印象が全体のマクロ的印象を相殺しているように感じるのです

というか この悲歌全体はパッチワークのようにその都度 

一度自分が決めた構成の中に 後付けで言葉を入れて行ってるようにさえ思える 

だから星については詳しくわかるのだけどその星達が構成する星座がどんな形かは

もしかしたら リルケ本人にもわからなくなっている 

そんな個人的印象をもつわけです

これは翻訳のせいかもしれないし 私とリルケの気質の違いのせいかもしれません

ランボーの地獄の季節やイリュミナションから感じる統一感や体系をドゥイノの悲歌から感じられないのです 星座と星座が夜空を躍動して 大熊星座が実態として空を駆けまわるのがランボーの詩だとしたらドゥイノの悲歌は望遠鏡で精緻に星を観察して その星が構成する星座には関心がないというような・・・・

ランボーは躍動しリルケは果てし無く閉じていく花びら 開花せず内側に開いていく

そんな雰囲気を感じるのです

 

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【文学雑感】リルケとカフカの作品には凋落する「黄昏の帝国」の歌が流れる|19世紀末のハプスブルク帝国に住んでると人は絶望する

リルケを読んでいると その作品世界の向こうにいつもこんなことを感じます

マルテもドゥイノも黄昏のオーストリアハンガリー帝国の

雰囲気の影響を受けているように思えるということです

実はカフカの城や審判にも同様の印象があり もしもカフカの小説舞台がロンドンやパリならあんな風にはならないのではないか?などと思ったりします

オーストリア皇帝はナポレオンが神聖ローマ帝国を解体するまでは

公式には神聖ローマ帝国の皇帝でした

で解体されたのでオーストリア皇帝となりこれが没落の第一歩 それまでは

962年から続くドイツ国民の帝国と呼ばれたドイツ第一帝国の主催者、ドイツの代表者だったのです(ビスマルクが宰相をしたのが第二帝国 なのでナチス第三帝国と呼ばれます)

神聖ローマ帝国の冠がなくなっても

ナポレオン戦争当時はヨーロッパ最大の大国と言っても過言ではなく

それがしかし対ナポレオン戦争終結へ向けて 重要な役割を果たせなかった

ナポレオンを倒したのはロシアとイギリスとプロシャであるという感じです

 しかしウィーン会議ではメッテルニヒが会議は踊るとも言われたように

平和条約の場を仕切って少し失地回復しましたがそのメッテルニヒが失脚したのが

1848年三月革命です

そしてここから後は 1866年の普墺戦争の敗北 イタリア独立戦争(1859年あたり)も北イタリアの領土は守ったものの最終的には事実上の敗北を喫したようなものです

長く分裂していた豊かなゾーンがイタリア王国ドイツ帝国の統一により勃興した結果

オーストリアの力は相対的に激減しますし産業革命にも乗り遅れさらに皇帝の後継者たちが立て続けに死んでいくなど凋落の一途をたどります

リルケが生れたのはまさにこんな時代だったのです

なんとなく厭世気分 なんとなく内面に向かわざるを得ないのは南北朝の中国で南朝漢人たちが清談に講じるしかなかったことと相通ずるかもしれません

その後は第一次世界大戦オーストリアハンガリー帝国は瓦解しハンガリーチェコボスニアヘルツェゴビナもみな別の国になってしまいました

リルケの生れたのは

1875年12月4日 1926年12月29日

まさに黄昏ていく帝国で生れ育ち 帝国崩壊後に死去します

 

カフカ 1883年7月3日 - 1924年6月3日

リルケと同じ流れです

 

 ホフマンスタール1874年2月1日 - 1929年7月15日

アルトゥル・シュニッツラー(Arthur Schnitzler, 1862年5月15日 - 1931年10月21日)



シュティフターは生誕1805年10月23日 発表1875年 没年1868年1月28日

 

帝国の最後の輝きの段階の時代を生きる

 

モーツァルト 生まれ: 1756年1月27日, 死去: 1791年12月5日

ハイドン 1732年3月31日 - 1809年5月31日

リスト 1811年10月22日 - 1886年7月31日

グリルパルツァー(Franz Grillparzer, 1791年1月15日 - 1872年1月21日)は、オーストリアの劇作家

クロプシュトック(Friedrich Gottlieb Klopstock, 1724年7月2日 - 1803年3月14日)

 

オーストリアにエネルギーがあったのは18世紀までのような気がするのです

 

このオーストリアハンガリーの黄昏と崩壊の雰囲気がリルケという個人にもカフカという個人にもぼくはなんとなくですが強く感じるのです

そしてリルケの詩はこの帝国の黄昏と崩壊の雰囲気と無縁ではいられなかっただろうと思います

ユングのいう集合的無意識とまでは行かなくても共同幻想のように

オーストリアの人々は隣にできたプロシアドイツ帝国の活気に 妬みや敗北感を感じるだろうしイタリアに対してももはや影響力をふるうことなどできません

みんな我々の国の栄華は終わったと思いながら日々を過ごしている そんな社会の風潮をうけたのでしょう 

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