【ブログ版】世界の名作文学を甲論乙駁|名作の紹介と批評と創作

YouTubeチャンネル『世界の名作文学を甲論乙駁』のブログ版です。世界と日本の名作紹介と様々な文学批評 そして自作の詩と小説の発表の場です

著書紹介コーナー||詩と短編とメンタルコーチ技法

短編小説集

30代半ばから40代前半にかけて 年に2本ペースで短編小説(原稿用紙40~80枚ほど)を書いて来ました。その中から抜粋したものです。

文芸誌の新人賞一次予選通過したものや 地元福岡の新聞で紹介批評された作品をチョイスしています。

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詩集

17歳のときに 福岡の文芸誌『パルナシウスの会』に加入し 

以来 30年近く年に4本のペースで詩を発表してきました。

全部で約150編ほどになりますが、その中から 20編をチョイスしました。

詩集『晩夏』

 

瞑想とイメージを使った自己啓発本|ビジネスネームにて

 文学著作とは別に ライフワークである 自己変容 のための探求の本です。

文学の創作体験がベースにあります。

 土壌となるメソッドは 

①自律訓練法

②イメージストリーミング

③ユング派のイメージセラピー

④ヨガのチャクラ瞑想

⑤1990年代に流行ったSSI社の科学的瞑想法と自己啓発

潜在意識サラピー|ISATメソッド完全解説版

 

 

文学修行を詳しく描いた記事

【私の文学修行】kindle無料出版で自分の文章を本にする方法|文芸誌らんぷと詩誌パルナシウスの会





堤防|詩

 堤防

その堤防は海への道であった
そしてまた風の通る道であった
それは外海と
港の守る内海の領域との間に
見事なほどの一線を引いていた
しかしそれは物理的には違いはなく
魂に立ち込める雲の作る境界であった
堤防の上の空間に光が
時によるとオーロラのように
たゆたいながら現れては消える像を見た
だが在り方としてはそれは海への道であり
それはすなわち物理的な海への道であった
子供たちはその当時
夕暮れ時に堤防の突端に行き
何をするでもなく海風に吹かれながら
語り合ったものだ
次の葬式の予定について
その頃はすべての死者は村民総出で見送った
その年の死者の名を誰もが言えた時代だった
 
作者より
この詩は故郷である大分県臼杵の海辺の集落のことを書いています
村には長い堤防があって まっすぐに海の方へのびていました
その堤防の外側と内側で波の強さはまるで違っていて 台風が来るときには
近隣の漁村から船があらかじめ避難しにくるほどの鉄壁の堤防でした。
そして田舎の村の子供にとってその堤防は 世界の海と村の中の世界を分ける境界の役割も心理的に果たしていました
そんなようなことを詩にしてみました

はてなブログ note Wordプレス などなどブログ遍歴

ぼくはブログマニアだった

体験したブログと利用したアカウント数、は以下。

現在も使っているのは赤表示。

①goo  1

②Googleブロガー  1

③Yahoo!ブログ  1

④ライブドア 2

⑤FC2を1つ  2

⑥はてな 1

⑦note 1

⑧ワードプレス うち2つ 3

⑨アメブロ  2

 

正直言うと Wordプレスでやりたかったのだけど 難しいので

それまでいろいろなもので試したって感じです

で アドセンス登録できないものとは縁を切っていったのですね

やがてワードプレスができるようになり

そうすると デザイン性 自在性 が圧倒的で

他のブログを使うのが馬鹿らしくなりました

しかし

そこから先祖返りして はてなブログ、noteはアクティブに使っています

なぜか?

はてなやnoteはそこに入るといろんなブログがあり

しかも アメブロなどのような短文ではなく

2000字以上くらいの本格的な読み物が目白押しです

ぼくは日曜作家のようなこともやっていたので

文章をちゃんと書く人はそれだけで信用しています

なのでnoteとはてなは 時々出入りするなじみのカフェのようなところです。

FC2も基本同じだけど なんとなくはてなとnoteとは違う雰囲気を感じますね

でも 趣味の古代史記事を600くらいアップしているので

これはもう動かさないようにしてます

ワードプレスがいまひとつ空いているから 映してもいいけど

趣味のブログをワードプレスに移すと 今後の運営お煩雑になるので

Wordプレスは 仕事でのみ使います。

noteなどは一切の編集なしでほんとにノートのように書くだけだから

実は少しはてなより 面白くないですね

やっぱり画像とかあったほうがいいし、枠で囲むとか 文字の色が変わったり網掛けで来たりって 必要じゃないかなと思います

まあでも一時期と違ってYouTubeもあって

ぼくも3本のYouTubeを運営しているので主力の活動は動画ですが

でも自分のやったことの記録保存は やはり文章がいいですね

それに 詩を書いたり小説を書いたりは 動画じゃやれないし。

 

【私の創作ノート】小説のための文章デッサン|小学校の時、缶蹴りという遊びをお寺の境内と墓場でやった思い出

缶蹴り 

子供のころ、秋になると缶蹴りをよくした。だいたい、地域の小学生が学年を越えて10人くらい集まると村のお寺の境内で缶蹴りがはじまった。

 缶蹴りのルール

ルールは簡単。小さい丸を書いてそこに適当なカンを置く。

缶蹴りの風景

 夏は暑いし蚊もいるからしない。冬はじっと隠れていると寒いのでしない、春は進級して間がないのでしない。秋に向いた遊びだった。

 カンを置いたらじゃんけんをして負けたものが鬼になる。

 子供たちは寺の裏側に散開して隠れる。鬼は寺を一周して隠れた人間を見つけると名前を呼ぶ。そうすると呼ばれたものは囚われの身となりカンのそばに描いた大きな丸の中に入る。

 何周かするうちに全員捕まったら鬼の勝ち。でも、鬼が一周している間に隙をついてカンをけられたら、人質が解放となっていちからやり直しになる。だから鬼はカンをけられないように、注意しながら寺の裏側に向かわなければならなかった。そこに鬼と隠れたものとの間に知恵比べが始まる。

 ある鬼は、寺の裏側に行ったと見せかけてそこらへんに隠れてカンをけりに来るのを待つ。すると勇敢にも鬼の隙をついて出てきたものは名前を呼ばれて人質になるのだった。

 逆にあるものは寺の屋根に上って鬼の動向を裏側の仲間に知らせたりした。

 知恵の応酬は過激となりついに隠れたものたちは究極の技にたどりつく。全員が一斉にカンをめざしてでてくるのだ。9人の名前を一気に言うことは難しく鬼はカンをけられる。

 

 

 

究極の鬼技 

 あるとき鬼になったものが知恵を発揮して究極の鬼側の技を開発した。

 ちょっと物事を皮肉めいて考える子が提案した。鬼が捕まえて丸の中に入れられた者は、将棋みたいに鬼の持ち札になって鬼と一緒に隠れた者を探して捕まえることができるようにしよう。

 これは受け入れられて、ますます過激な知恵比べが始まった。だがこれは一人がかんを見張ってれば残りはいくらでも自由に探しにいけたから鬼が有利になったことはまちがいない。一気に全員がかんを目指しても、そこに3人もいれば、なんとか名前を言えるのだった。

 これで鬼側が優勢になったことで、それまで寺の裏手の木の裏に隠れる程度だった隠れ方が過激になった。寺の裏は墓場の始まるところなのだが、墓場の奥深く、墓の後ろなどに隠れるようになったのだった。

 ある秋の夕暮れ時、もうあたりが見えなくなるころ合いに小学6年生だった私は、寺から500メートルも離れた大きな墓の裏のやぶの中に隠れていた。缶蹴りももう終わりかけていた。暗くなったらみんな家に帰るのだ。私はついにつかまらないまま、缶蹴りを終えることができそうだった。新ルールのもと、鬼につかまらなかったはじめての人間になりそうだった。秋の日暮れは物寂しく墓に入っているのがどの家の誰か、あるいは何代前の人か、私たち子どもは知っていた。いつまでも私は見つからず墓場は霊の世界に入っていくのだった。

 

 

 



 

 

 こうして低学年で缶蹴りをはじめて大きくなればみな、新たな方法を思いつき高度に遊びを発展させていった気になっていたのだが、実はこれはすべての世代で起こってきたことだった。私が中学になり缶蹴りを卒業したら、次の学年のものたちがまた新たに発見する方法とルールは私たちの時代と同じものなのだ。

 まだ人々が村落共同体で、習慣も仕事も生の在り方も死も、すべて前の世代から引き継いでいた時代のことだ。

 

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詩人・谷川俊太郎を悼んで:言葉の深淵と「クラシクス」の記憶

 

先日、日本が誇る巨星、詩人の谷川俊太郎さんが逝去されました。私のYouTubeチャンネル『甲論乙駁』でも、彼の残した足跡を振り返る動画を作成しましたが、本日はその内容を改めて私のブログ読者の皆様へお伝えしたいと思います。

言葉の「艦隊」としての谷川俊太郎

私は古典や名作文学を「人生の危機に駆けつける艦隊(クラシクス)」と呼んでいますが、谷川さんの詩もまた、私にとって、そして多くの日本人にとって、魂が難破しかけた時に真っ先に現れる強靭な言葉の群れでした。

谷川さんの言葉は、一見すると平易で、子供でも読めるような優しさに満ちています。しかし、その深淵を覗き込めば、宇宙的な広がりと、逃れようのない人間の孤独、そしてそれを超える圧倒的な肯定感が響いています。

私自身の詩作と、並走した記憶

私自身、17歳から40歳までという人生の多感な時期を、詩の世界に身を置いて過ごしました。「パルシウスの会」という詩の雑誌で、言葉を研ぎ澄ませる日々。その傍らには、常に谷川俊太郎という存在がありました。

私が詩を書き始めた頃、谷川さんはすでに大家でありながら、常に「今」を生きる現役の詩人であり続けました。彼の詩に触れることは、自分の内側にある名もなき感情に名前を与えられるような体験でした。かつて文芸誌「らんぷ」で小説を書き、芥川賞作家の高樹のぶ子さんや片山恭一さんと場を共にした際も、その表現の根底にあったのは、若き日に谷川さんの詩から学んだ「言葉を信じる力」だったように思います。

動画で語った「所見」:日常と宇宙の接続

今回の動画では、彼の詩が持つ「二面性」について深く考察しました。 谷川さんは、台所の蛇口から滴る水滴のような極めて日常的な風景から、数億光年彼方の星々の瞬きまでを、一足飛びに接続してしまう魔術師でした。

多くの詩人が、自分の内面や苦悩という「重力」に縛られがちな中で、谷川さんの詩にはどこか「透明な軽やかさ」があります。それは現実を直視していないからではなく、悲劇も絶望もすべて飲み込んだ上での、神話的な「朗らかさ」なのです。これは、私が提唱する「クラシクスな音楽」の定義——運命を肯定し、毅然とした姿勢で微笑んでいること——と、見事なまでに共鳴しています。

忘れられない思い出の一節

動画の中では、特定の詩篇についても触れました。例えば「二十億光年の孤独」。あの詩を読んだ時、私たちは自分が一人であることの寂しさではなく、宇宙という広大な空間の中で「万物と繋がっている」という奇妙な安堵感を覚えます。

また、晩年の彼が示した、死に対する淡々とした、しかし豊かなまなざし。彼は死を「虚無」ではなく、大きな宇宙の循環へと戻っていくプロセスとして捉えていたのではないでしょうか。彼の言葉が、古びることなく「現在進行形」で響き続ける理由は、そこにあります。

結びに:次世代へ引き継ぐ「言葉の灯」

私が運営するYouTubeチャンネル『甲論乙駁』は、8300人の方々に支えられていますが、今回の谷川さんに関する動画には、かつてないほどの共感の声をいただきました。それは、いかに多くの人々が、彼の言葉によって人生の危機を救われ、励まされてきたかの証左でもあります。

谷川俊太郎という「艦隊」は、彼が肉体を離れた後も、私たちの心の海を航行し続けます。 私自身、40歳で詩の筆を置き、その後小説へと転向し、現在はこうしてYouTubeやブログで文学を語っていますが、私の表現の根底にある「魂のワーク」は、すべてあの日読んだ谷川さんの詩の一行から始まっているのです。

 

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【徹底解説】『ガラス玉演戯』序章:精神の最高峰をゆく「魂のワーク」

1. 存在しないがゆえに実在する「バーチャル・システム」

ガラス玉演戯、およびそれを守護する教団「カスタリーエン」は、物理的な実体としては存在しません。しかし、アルベルツス2世が述べるように、「存在しないものを、あたかも存在するものとして扱う」ことで、それは強固な現実となり、世界に影響を及ぼし始めます 。これは単なる空想ではなく、神や潜在意識に近い、精神の深奥に根ざした「バーチャル・システム」なのです

 

私たちがこの物語、特に主人公ヨーゼフ・クネヒトの伝記を記録するのは、リルケの描く薔薇の一輪が「薔薇という存在のすべて」を示すように、一人の普遍的な人間を描くことで、人類の精神全体を把握しようとする試みに他なりません

 

 

2. 「フェユトン時代」の混沌と、音楽・数学への回帰

演戯が誕生する前夜、世界は「フェユトン時代」と呼ばれる精神の暗黒期にありました 。1920年代から続く、ジャズ的、雑誌的、新聞テレビ的な情報の洪水が人々を支配し、真実よりも刹那的な興味が優先される時代です

 

この精神的な「洪水」に対し、孤立した小さな集団は瞑想や音楽史の研究へと沈潜していきました 。特にバッハの原稿発見や、瞑想を通して異文化の本質を魔術的に認識する「東方巡礼者」たちの活動が、後の演戯の土台となります 。彼らは世俗の営みから離れ、最高の芸術を熟成させていきました 。その中心にあったのは、文学や哲学ではなく、純粋な精神の結実である「数学」と「音楽」だったのです

 

3. ガラス玉演戯の構造と「公分母」の発見

演戯の原型はパイプオルガンのような楽器でした 。当初は、計算尺のような10本の棒に何十本もの線を通し、そこにガラス玉を並べて音符を表現する、演奏の実習装置に過ぎませんでした 。しかし、その「鍵盤」を引くことで生まれる数学的な配列の美しさと音楽的な響きは、瞬く間に他の学問領域へと伝播していきます

 

決定的な瞬間は、「バーゼルの道化師」ルゾルによる「公式語」と「象形語」の発明でした 。彼は音楽の公式と天文学の公式を、数学という「公分母」によって結びつけました 。これにより、天文学、音楽、数学、さらには造形美術や聖書の言葉に至るまで、あらゆる文明の要素を一つの演戯の中で「対位法」的に組み合わせることが可能となったのです

 

4. 瞑想による次元の深化:3次元から4次元へ

演戯を単なる知的遊戯から、深い霊的な体験へと昇華させたのは、東方巡礼者たちの「瞑想」でした 。彼らは空間的な秩序(3次元)に、瞑想による時間的な想起(時間軸)を加え、演戯を「4次元」の儀式へと進化させました

 

バッハのフーガの主題、ライプニッツの公式、ウパニシャッドの一文、さらには老子や中島みゆきの歌といった古今東西のあらゆる「最高のもの」が、演戯のモチーフとなります 。それは言語の壁を超えた「世界語」であり、一切の内的統一の究極の姿、すなわち「神」や「タオ」への到達を目指す試みなのです

 

5. 結論:クラシクスな音楽としての人生

ガラス玉演戯の真髄は、「音楽すること」そのものにあります 。ヨーロッパ文化の結晶であるクラシック音楽は、人間の悲劇を知り、運命を肯定し、勇敢であると同時に、永遠の朗らかさと「神の笑い」を鳴り響かせます

 

生成から存在へ、可能性から実在へ。あらゆる学問と芸術を横断し、自らを律し続けるこの「演戯」こそが、真の意味での「人生」であり、人間が到達しうる最も毅然とした姿勢なのです

阿刀田高『源氏物語を知っていますか』|実はほのぼの笑える新たな源氏物語観のはじまり

 今回は、私が作成した動画「【絶対おすすめ】涙と笑いの源氏物語 ガイドブック|阿刀田高『源氏物語を知っていますか』」の内容を、ブログ読者の皆様に向けて改めて文章でご紹介します。


「艦隊」としてのガイドブックとの出会い

 私は常々、古典(クラシック)とは「人生の危機に駆けつける艦隊」であると考えています。しかし、日本が世界に誇る至宝『源氏物語』を前にして、私自身、60歳を過ぎるまでその真価を十分に味わえていなかったという気恥ずかしい思いがありました。大河ドラマ『光る君へ』が放映されていた年に、あの年のあの機会に、改めてこの巨編と向き合おうと決意したのです。

 そこで私が「最初の一歩」として、あるいは「生涯の伴走者」として絶対におすすめしたいのが、阿刀田高さんの**『源氏物語を知っていますか』**です。

「笑い」が教えてくれる源氏物語の真実

 『源氏物語』といえば、本居宣長が提唱した「もののあはれ」という言葉に象徴されるように、どこか静謐で真面目な、高尚な文学というイメージが強いかもしれません。しかし、阿刀田さんのこのガイドブックを読んで、私は目から鱗が落ちる思いがしました。そこには、現代の私たちが読んでも思わずゲラゲラと笑ってしまうような、「人間臭いおかしみ」が溢れていたのです。

 例えば、六条御息所が嫉妬のあまり生霊となって正妻の葵の上を呪う場面。阿刀田さんはその複雑な心境を「辛い、憎い、苦しい、でも好き!」と現代風に読み解いてくれます。

 また、光源氏が生霊となった御息所に対し、「(生霊になった方は体調を崩すというから)あなた、この間生霊になりませんでしたか?」と聞きたいけれど聞けない……といった、滑稽とも言えるやり取りのニュアンスが、阿刀田さんの筆致によって鮮やかに浮かび上がります。

読者は「一条天皇一人」だった?

 高橋源一郎さんは、かつて『源氏物語』の読者は「一条天皇ただ一人だった」という説を述べていました。 

 毎晩、中宮のサロンで紫式部が書いた物語が朗読され、天皇や女房たちがそれを聴く。そこでは涙を流す場面もあれば、ロマンチックな場面もあり、そして何より「明日はどうなるの?」とワクワクさせるような、エンターテインメントとしての「笑い」が重要だったはずなのです。

 阿刀田さんの本は、徹底的に物語を「対象化」し、時にはパロディ的な視点さえ交えながら、当時の人々が感じていたであろう「生の熱量」を現代の私たちに届けてくれます。

小説を「笑い」ながら読む愉悦

 かつて私は、大学生の頃にトーマス・マンの『魔の山』を読んで、「どこに笑う要素があるんだ?」と困惑したことがありました。しかし、人生経験を積んだ40代で読み返した時、その滑稽さに気づき、ゲラゲラと笑いながら読み進めることができたのです。

 『源氏物語』も同じです。阿刀田さんのガイドブックという羅針盤を手に入れることで、美しい文章の奥底に潜む「人間のおかしみ」が見えてきます。この本を読んだ後に瀬戸内寂聴さんの現代語訳などに触れると、「あ、ここはあの場面だ!」「本当はこんなことを考えていたんだな」と、物語が立体的に動き出します。

最後に

 もしあなたが、これまで『源氏物語』を「難解な古典」として遠ざけていたなら、ぜひ一度この艦隊(ガイドブック)を呼び寄せてみてください。それは、あなたの人生の危機を救うだけでなく、最高の知的な娯楽を提供してくれるはずです。

私のYouTubeチャンネル『甲論乙駁』では、これからもこうした「救いとしての文学」を、独自の視点で熱く語っていきます。皆様の文学ライフが、より豊かで楽しいものになることを願って。


紹介動画: 【絶対おすすめ】涙と笑いの源氏物語 ガイドブック|阿刀田高『源氏物語を知っていますか』

 

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