【ブログ版】世界の名作文学を甲論乙駁|名作の紹介と批評と創作

YouTubeチャンネル『世界の名作文学を甲論乙駁』のブログ版です。世界と日本の名作紹介と様々な文学批評 そして自作の詩と小説の発表の場です

著書紹介コーナー||詩と短編とメンタルコーチ技法

短編小説集

30代半ばから40代前半にかけて 年に2本ペースで短編小説(原稿用紙40~80枚ほど)を書いて来ました。その中から抜粋したものです。

文芸誌の新人賞一次予選通過したものや 地元福岡の新聞で紹介批評された作品をチョイスしています。

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詩集

17歳のときに 福岡の文芸誌『パルナシウスの会』に加入し 

以来 30年近く年に4本のペースで詩を発表してきました。

全部で約150編ほどになりますが、その中から 20編をチョイスしました。

詩集『晩夏』

 

瞑想とイメージを使った自己啓発本|ビジネスネームにて

 文学著作とは別に ライフワークである 自己変容 のための探求の本です。

文学の創作体験がベースにあります。

 土壌となるメソッドは 

①自律訓練法

②イメージストリーミング

③ユング派のイメージセラピー

④ヨガのチャクラ瞑想

⑤1990年代に流行ったSSI社の科学的瞑想法と自己啓発

潜在意識サラピー|ISATメソッド完全解説版

 

 

文学修行を詳しく描いた記事

【私の文学修行】kindle無料出版で自分の文章を本にする方法|文芸誌らんぷと詩誌パルナシウスの会





【リルケを超訳】AIの翻訳から自分好みの『ドゥイノの悲歌』第一の悲歌を創った

【ドゥイノの悲歌 第一の悲歌】

 

古荘によるAI訳の翻案訳『ドゥイノの悲歌』第一の悲歌

どんなに ぼくが 力の限り叫んでも

はるか高みの 天使たちには届かない

もし 何かの拍子に

天使の1人が ぼくに気づいて

ぼくを抱きしめてくれたとしても

ぼくは その腕の中で

焼き尽くされてしまうだろう

 

なぜなら 美は 怖るべきものの

始めに ほかならないのだから

ぼくらが美に 嘆賞の声を上げるのは

たとえ美が ぼくらを 滅ぼしたとしても

そのことを美が

何とも思わぬからなのだ

 

だからこそ その落差故に

 ぼくらはあまりに深く 孤独なのだ

(天使がぼくらを突き放しているとしか感じられないから

無視しているとしか思えないから)

 

だからこそ 天使という存在は恐ろしい

ぼくらは

自らの中の

ほとばしり出ようとする

すべてのものを 飲み込みつつ

なお 暗闇にむせび泣いてしまう

 

ぼくらは 誰を頼れるのだろうか?

天使ではない  人間ではない

 

まして動物であるはずがない

ぼくらが 世界を説き明かそうとしながら

そこに それほどには

根を下ろしていないことを

彼ら動物は 見抜いている

そして軽蔑を込めて

顔をそむけている

 

故に ぼくらに残されたものは ───

毎日 なにげなく見ているような

丘の上の一本の樹

毎日歩く あの道

犬のようにまとわりついて離れない

何かの癖

こうした ものだけが

ぼくらにつきしたがってくる

 

そして  ───

「夜」というものがある

世界空間の香りを漂わせて

風がぼくらを灰にしていく夜 ── 

そんな夜

人々を 切なく待ち望ませる ── 

そんな夜

そして ゆっくりと人々に幻滅をもたらし

人の心の中に立ちふさがる 

あの夜が 

 

「あの夜」こそは 誰もが忘れられないものとなる

だが恋人たちは

それを  軽く飛びこえていく

互いの運命を隠しながら

 

あなたはまだ 気づかないのだろうか

あなたが抱きしめた そのむなしさを

息づく空間に投げ返せ

そして投げ返されたむなしさの分だけ

広がったこの大気の中を鳥たちは

心をこめて 羽ばたくだろう



霧は あなたを誘った

星々は あなたを求めた

過去の思い出が あなたに抱きついた

奏でられた弦の音が あなたに身をゆだねた

それは皆 あなたへの 委託に他ならなかった

なのに あなたは 未だ その委託を

仕遂げていない



あなたは むしろ期待に気を紛らわされて

すべてを彷徨(さまよ)わした

それは見るもの 聞くものすべてが

新しい恋人の到来を伝えている様子に

気を紛らわしたり

あなたが 憧れというものに堪えられるなら

あふれる 愛に生きた女たちのことを

歌ってほしい

 

彼女たちの愛は

人の心を打ちさびる

まだ 忘れられようとしている

捨てられてなお 愛を反いた女たち

彼女たちの愛は 毀れぬもの

満たされたものばかり

はるかに「愛する者」へと昇華したのだ

讃えても讃えきれない 彼女たちへの

歌を 誇らかに歌おう

 ここまでです

 

【AIによるドイツ語原典からの生真面目な直訳(ベース素材)】

※他者の翻訳権を一切侵害しない、完全パブリックドメイン由来の「骨組み」です。手塚訳に縛られない新しい表現のヒントとしてお使いください。

私が叫んだとしても、

天使の階級のなかから、一体誰が私を聴いてくれるだろうか? 

そして仮に、そのうちの一人が突然私を胸に抱きしめたとしても:

私は彼のより強い実在(Dasein)によって消滅してしまうだろう。 

なぜなら、美とは、

私たちがかろうじて耐えうる恐怖の始まりにすぎないのだから。 

そして私たちがこれほどまでに美を賛美するのは、

美が私たちを破滅させることを平然と拒絶している(見下している)からだ。

 どの天使もみな恐ろしい。

だから私は自分をこらえ、暗いむせび泣きの誘いの声を飲み込む。

 ああ、私たちは一体誰を必要とすることができようか? 

天使でもなく、人間でもない。

 そして目ざとい(機転の利く)動物たちはすでに気づいている、 

私たちが、この解釈された世界(意味づけされた世界)のなかに、

あまり確からしく(馴染んで)暮らしていないということに。 

私たちには、おそらく、

斜面にあるどこかの一本の樹が残されているだけであり、

それを私たちは毎日見直すことになる。 

私たちには昨日の道が残され、 

そして、私たちのところを気に入って、

そのまま留まり去ろうとしなかった、

ある習慣の、馴染みきった忠実さが残されている。

おお、そして夜よ、夜よ、

宇宙に満ちた風が私たちの顔を削る(なめつくす)とき

 ─── 誰にその夜が残らないだろうか。

切望され、優しく幻滅させ、個々の心にとって

辛うじて(避けるすべなく)立ちふさがる、あの夜が。 

夜は恋人たちにとって、より軽やかだろうか? 

ああ、彼らはただ互いに、

自分たちの運命(ロト)を覆い隠し合っているにすぎない。 

あなたはまだそれを知らないのか? 

あなたの腕からその虚空を、

私たちが呼吸する空間へと投げ出すのだ。 

もしかしたら鳥たちが、その拡張された大気を、

より深い(心からの)飛翔をもって感じるかもしれない。



そう、春はあなたを必要としていたのだ。

いくつかの星は、あなたがそれらを感じることを、

あなたに期待していた。 

過去のなかに一筋の波がせり上がってきた、

あるいは、 あなたが、開かれた窓のそばを通り過ぎたとき、

一挺のヴァイオリンが身をゆだねて(音を奏でて)いた。

 それらはすべて「委託(使命)」であった。 

しかし、あなたはそれを成し遂げたか?

 あなたはいつも、まだ期待によって心が散り散りになっていなかったか、

まるで、すべてがあなたに一人の恋人の到来を告げているかのように? 

(あなたはどこに彼女をかくまうつもりなのか、大いなる見知らぬ思想たちが、あなたのところで絶えず出入りし、しばしば夜通し留まるというのに。)

 しかし、もし憧れるのなら、恋人たちを歌うのだ。

 彼らの名高い感情は、まだ十分に不滅のものとはなっていない。

 あなたがほとんど嫉妬するほどの、あの見捨てられた女たち、

あなたは彼女たちを、

満たされた女たちよりもずっと愛に満ちていると見出したのだ。 

決して届くことのない賛美を、何度も新しく始めるのだ。 

 ここまでです



想うがいい:英雄は自己を維持する、没落(破滅)でさえ彼にとっては、存在する( sein )ための口実にすぎなかった。それが彼の最後の誕生なのだ。 しかし恋人たちを、疲れ果てた自然は、再び己のなかへと引き戻す、まるで、これを成し遂げるための力が二度とは存在しないかのように。 あなたはガースパラ・スタンパのことを、十分に深く想っただろうか? 恋人を失ったどこかの少女が、この恋人の高められた手本によって、「私も彼女のようになれたなら」と感じるほどに。

これら最古の苦痛が、ついに私たちにとっても、より実り豊かなものとなるべきではないのだろうか? 私たちが愛しながら、恋人から自己を解放し、震えながらそれに耐える(克服する)べき時が来たのではないだろうか: 矢が弦に耐え、飛び出す瞬間に凝縮されて(あつめられて)、それ自身以上のものになるように。なぜなら、留まる場所(居場所)はどこにもないのだから。

声よ、声よ。聴くのだ、わが心よ、かつて聖者たちだけが聴いたように:巨大な呼び声が彼らを地面から立ち上がらせた。 しかし彼らは、あり得ない(不可能な)人々よ、そのままひざまずき続け、それ(呼び声)に頓着しなかった: 彼らはそのようにして聴いていた(ひたすら耳となっていた)のだ。あなたが神の声を耐えられるなどということではない、到底及ばない。 しかし、そのかすかな息吹(風のそよぎ)を聴くのだ、沈黙から紡ぎ出される、途切れることのない知らせを。 今、あの若くして死んだ者たちから、あなたへと、かすかなざわめきが届いている。 あなたがどこへ入っていこうとも、ローマやナポリの教会において、彼らの静かな運命があなたに語りかけてこなかっただろうか? あるいは、碑文が厳かに(気高く)あなたに課せられなかっただろうか、先日のサンタ・マリア・フォルモーサのあの銘板のように。 彼らは私に何を求めているのか? 私は、彼らの霊の純粋な動きを時に少しだけ妨げている、不義(不条理)の見かけを、そっと取り除かねばならないのだ。

確かに、もはや地球に住まないということは奇妙なことだ、 ようやく覚えた習慣をもはや行わないということは。 薔薇や、その他の特別に約束に満ちたものたちに、人間の未来という意味を与えないということは。 無限に不安な(いたわる)手のなかにあった自分自身という存在が、もはやないということは。 And 自分自身の名前さえも、壊れたおもちゃのように置き去りにしてしまうということは。 奇妙なことだ、願いをそれ以上願い続けないということは。奇妙なことだ、 互いに関係し合っていたすべてのものが、空間のなかにこれほど緩やかに、ひらひらと漂っているのを見るということは。 And 死んでいるということは、骨の折れる仕事であり、多くの遅れを取り戻さねばならない、人がようやく少しずつ、永遠を感じるようになるまでは。 ─── しかし、生きている人間たちはみな、区別をしすぎるという過ちを犯す。 天使たちは(人々が言うには)自分が生きている人間の間を歩いているのか、死んだ人間の間を歩いているのか、しばしば分からないという。 永遠の流れは、両方の領域を通じて、すべての世代を常に己とともに押し流し、両方の領域において彼らの声をかき消してしまうのだ。

結局のところ、彼らはもはや私たちを必要としていないのだ、早くに去っていった者(早世した者)たちは。 人は地上のものから優しく離乳していく、母親の乳房から穏やかに成長して離れるように。 しかし私たちは、これほど大きな秘密を必要とし、悲しみからこれほどしばしば至福の進歩が湧き出る私たちは ───:彼らなしで存在しうるだろうか? かつてリノスへの哀悼の歌のなかで、大胆な最初の音楽が、乾いた硬直を貫き通したという伝説は、無駄なものだろうか。 ほぼ神のような青年が、突然永遠に去ってしまった、その驚愕した空間のなかで、初めて「虚空」が、今私たちを魅了し、慰め、助けてくれる、あの振動(響き)を始めたのだという伝説は。



リルケによるドイツ語原典(パブリックドメイン)

https://www.babelmatrix.org/works/de/Rilke,_Rainer_Maria-1875/Duineser_Elegien_-_Die_Erste_Elegie/en/32639-The_first_elegy

 

※完全なオリジナルの原典テキストです。

英語だとちなみに冒頭は

Who, if I cried, would hear me, of the angelic orders? 

 

Wer, wenn ich schriee, hörte mich denn aus der Engel Ordnungen? 

und gesetzt selbst, es nähme einer mich plötzlich ans Herz: 

ich verginge von seinem stärkeren Dasein. 

Denn das Schöne ist nichts als des Schrecklichen Anfang, 

den wir noch grade ertragen, 

und wir bewundern es so, 

weil es gelassen verschmäht, uns zu zerstören. 

Ein jeder Engel ist schrecklich. 

Und so verhalt ich mich denn und verschlucke den Lockruf dunkelen Schluchzens. 

Ach, wen vermögen wir denn zu brauchen? Engel nicht, Menschen nicht, und die findigen Tiere merken es schon, daß wir nicht sehr verläßlich zu Haus sind in der gedeuteten Welt. Es bleibt uns vielleicht irgend ein Baum an dem Abhang, daß wir ihn täglich wiedersähen; es bleibt uns die Straße von gestern und das verzogene Treusein einer Gewohnheit, der es bei uns gefiel, und so blieb sie und ging nicht. O und die Nacht, die Nacht, wenn der Wind voller Weltraum uns am Angesicht zehrt —, wem bliebe sie nicht, die ersehnte, sanft enttäuschende, welche dem einzelnen Herzen mühsam bevorsteht. Ist sie den Liebenden leichter? Ach, sie verdecken sich nur miteinander ihr Los. Weißt du’s noch nicht? Wirf aus den Armen die Leere zu den Räumen hinzu, die wir atmen; vielleicht daß die Vögel die erweiterte Luft fühlen mit innigerm Flug.

Ja, die Frühlinge brauchten dich wohl. Es muteten manche Sterne dir zu, daß du sie spürtest. Es hob sich eine Woge heran im Vergangenen, oder da du vorüberkamst am geöffneten Fenster, gab eine Geige sich hin. Das alles war Auftrag. Aber bewältigtest du’s? Warst du nicht immer noch von Erwartung zerstreut, als kündigte alles eine Geliebte dir an? (Wo willst du sie bergen, da doch die großen fremden Gedanken bei dir aus und ein gehn und öfters bleiben bei Nacht.) Sehnt es dich aber, so singe die Liebenden; lange noch nicht unsterblich genug ist ihr berühmtes Gefühl. Jene, du neidest sie fast, Verlassenen, die du so viel liebender fandst als die Gestillten. Beginn immer von neuem die nie zu erreichende Preisung; denk: es erhält sich der Held, selbst der Untergang war ihm nur ein Vorwand, zu sein: seine letzte Geburt. Aber die Liebenden nimmt die erschöpfte Natur in sich zurück, als wären nicht zweimal die Kräfte, dieses zu leisten. Hast du der Gaspara Stampa denn genügend gedacht, daß irgend ein Mädchen, dem der Geliebte entging, am gesteigerten Beispiel dieser Liebenden feels: daß ich würde wie sie? Sollen nicht endlich uns diese ältesten Schmerzen fruchtbarer werden? Ist es nicht Zeit, daß wir liebend uns vom Geliebten befrein und es bebend bestehn: wie der Pfeil die Sehne besteht, um gesammelt im Absprung mehr zu sein als er selbst. Denn Bleiben ist nirgends.

Stimmen, Stimmen. Höre, mein Herz, wie sonst nur Heilige hörten: daß sie der riesige Ruf aufhob vom Boden; sie aber knieten, Unmögliche, weiter und achtetens nicht: So waren sie hörend. Nicht, daß du Gottes ertrügest die Stimme, bei weitem. Aber das Wehende höre, die ununterbrochene Nachricht, die aus Stille sich bildet. Es rauscht jetzt von jenen jungen Toten zu dir. Wo immer du eintratst, redete nicht in Kirchen zu Rom und Neapel ruhig ihr Schicksal dich an? Oder es trug eine Inschrift sich erhaben dir auf, wie neulich die Tafel in Santa Maria Formosa. Was sie mir wollen? leise soll ich des Unrechts Anschein abtun, der ihrer Geister reine Bewegung manchmal ein wenig behindert.

Freilich ist es seltsam, die Erde nicht mehr zu bewohnen, kaum erlernte Gebräuche nicht mehr zu üben, Rosen, und andern eigens versprechenden Dingen nicht die Bedeutung menschlicher Zukunft zu geben; das, was man war in unendlich ängstlichen Händen, nicht mehr zu sein, und selbst den eigenen Namen weglassen wie ein zerbrochenes Spielzeug. Seltsam, die Wünsche nicht weiterzuwünschen. Seltsam, alles, was sich bezog, so lose im Raume flattern zu sehen. Und das Totsein ist mühsam und voller Nachholn, daß man allmählich ein wenig Ewigkeit spürt. — Aber Lebendige machen alle den Fehler, daß sie zu stark unterscheiden. Engel (sagt man) wüßten oft nicht, ob sie unter Lebenden gehn oder Toten. Die ewige Strömung reißt durch beide Bereiche alle Alter immer mit sich und übertönt sie in beiden.

Schließlich brauchen sie uns nicht mehr, die Früheentrückten, man entwöhnt sich des Irdischen sanft, wie man den Brüsten milde der Mutter entwächst. Aber wir, die so große Geheimnisse brauchen, denen aus Trauer so oft seliger Fortschritt entspringt —: könnten wir sein ohne sie? Ist die Sage umsonst, daß einst in der Klage um Linos wagende erste Musik dürre Erstarrung durchdrang; daß erst im erschrockenen Raum, dem ein beinah göttlicher Jüngling plötzlich für immer enttrat, das Leere in jene Schwingung geriet, die uns jetzt hinreißt und tröstet und hilft.

【傑作解説】ヘルマン・ヘッセの最高峰『ガラス玉演戯』を読み解く|文化の統合という究極の演戯がここに!

皆さんは、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』や『デミアン』を読んだ後、彼がその生涯の最後にたどり着いた「究極の到達点」をご存知でしょうか?

今回は、全ヘッセファン、そして「知性の極致に触れてみたい」というすべての方に絶対に観てほしい、素晴らしいYouTube動画をご紹介します。

www.youtube.com

 

■ 新潮文庫『ガラス玉演戯』は絶版です

ぼくは大学2年の夏に買って今でももっていますが ヘッセの作品集のようになってる

新潮文庫では今 ガラス玉演戯 は絶版です

ヘッセ全集の15巻に新訳であります

その他にもハードカバーで高橋健二訳がありますね

新潮文庫も高橋健二訳です

■ 『ガラス玉演戯』とは、どんな物語なのか?

 

1946年にヘッセがノーベル文学賞を受賞する決定打となった本作の舞台は、戦争や俗世の混乱から隔絶された、未来の精神的ユートピア「カスターリエン」。

そこで行われているのが、タイトルにもなっている「ガラス玉演戯」です。 これは、音楽、数学、天文学、哲学、言語学など、人類のあらゆる学問と芸術の成果を、まるで一本の壮大な楽曲のように組み合わせ、応用し、響き合わせる「究極の精神のゲーム」。そのゲームの最高峰の達人であり、指導者(マギステル・ルディ)となった男、ヨーゼフ・クネヒトの生涯を描いたヘッセの遺作です。

■ 20分過ぎから語られる、クネヒトの「覚醒」とヘッセの遺言

特にブログの読者の皆さんに観てほしいのが、動画の20分を過ぎたあたりからのパートです。

ここでは、物語の単なる設定解説を超えて、主人公クネヒトが美しく完璧な「カスターリエン」という知性の殻を破り、なぜあえて泥臭い「現実世界」へと飛び出していったのか、その思想の本質が熱量たっぷりに語られます。

動画の語り手は、ヘッセが晩年に至った境地を、現代の私たちの生き方へと鮮やかに結びつけてくれます。

  • 洗練された教養や精神の世界に閉じこもるだけでは、人間は本当に生きているとは言えないのではないか?

  • 私たちが「ガラス玉演戯」のように人生の様々な経験や知性を組み合わせた先にある、本当の使命とは何か?

完璧な調和の中にいたクネヒトが迎える劇的な結末と、彼が残した「精神の覚醒」のバトン。古い翻訳のぎこちなさの裏に隠されていたヘッセの本質的なメッセージが、鳥肌が立つような語り口で現代の言葉へと修復されていくシーンは必見です。

■ 今を生きる私たちの「受け皿」になる、人生の一冊

ヘッセの『ガラス玉演戯』は、上下巻に及ぶ大作であり、一見すると難解に思えるかもしれません。しかし、この動画の20分過ぎからの解説を聴けば、この作品が現代の私たちの「実存的な孤独」や「生きる意味」に100%フィットする、最高の人間ドラマであることがハッキリと理解できます。

精神の深掘りを始めたい方、そしてヘッセが命を削って残した「知性の冒険」を追体験したい方は、ぜひこの動画の熱量に触れてみてください。あなたの読書ライフの景色が、明日からガラリと変わるはずです。

 

 

堤防|詩

 堤防

その堤防は海への道であった
そしてまた風の通る道であった
それは外海と
港の守る内海の領域との間に
見事なほどの一線を引いていた
しかしそれは物理的には違いはなく
魂に立ち込める雲の作る境界であった
堤防の上の空間に光が
時によるとオーロラのように
たゆたいながら現れては消える像を見た
だが在り方としてはそれは海への道であり
それはすなわち物理的な海への道であった
子供たちはその当時
夕暮れ時に堤防の突端に行き
何をするでもなく海風に吹かれながら
語り合ったものだ
次の葬式の予定について
その頃はすべての死者は村民総出で見送った
その年の死者の名を誰もが言えた時代だった
 
作者より
この詩は故郷である大分県臼杵の海辺の集落のことを書いています
村には長い堤防があって まっすぐに海の方へのびていました
その堤防の外側と内側で波の強さはまるで違っていて 台風が来るときには
近隣の漁村から船があらかじめ避難しにくるほどの鉄壁の堤防でした。
そして田舎の村の子供にとってその堤防は 世界の海と村の中の世界を分ける境界の役割も心理的に果たしていました
そんなようなことを詩にしてみました

はてなブログ note Wordプレス などなどブログ遍歴

ぼくはブログマニアだった

体験したブログと利用したアカウント数、は以下。

現在も使っているのは赤表示。

①goo  1

②Googleブロガー  1

③Yahoo!ブログ  1

④ライブドア 2

⑤FC2を1つ  2

⑥はてな 1

⑦note 1

⑧ワードプレス うち2つ 3

⑨アメブロ  2

 

正直言うと Wordプレスでやりたかったのだけど 難しいので

それまでいろいろなもので試したって感じです

で アドセンス登録できないものとは縁を切っていったのですね

やがてワードプレスができるようになり

そうすると デザイン性 自在性 が圧倒的で

他のブログを使うのが馬鹿らしくなりました

しかし

そこから先祖返りして はてなブログ、noteはアクティブに使っています

なぜか?

はてなやnoteはそこに入るといろんなブログがあり

しかも アメブロなどのような短文ではなく

2000字以上くらいの本格的な読み物が目白押しです

ぼくは日曜作家のようなこともやっていたので

文章をちゃんと書く人はそれだけで信用しています

なのでnoteとはてなは 時々出入りするなじみのカフェのようなところです。

FC2も基本同じだけど なんとなくはてなとnoteとは違う雰囲気を感じますね

でも 趣味の古代史記事を600くらいアップしているので

これはもう動かさないようにしてます

ワードプレスがいまひとつ空いているから 映してもいいけど

趣味のブログをワードプレスに移すと 今後の運営お煩雑になるので

Wordプレスは 仕事でのみ使います。

noteなどは一切の編集なしでほんとにノートのように書くだけだから

実は少しはてなより 面白くないですね

やっぱり画像とかあったほうがいいし、枠で囲むとか 文字の色が変わったり網掛けで来たりって 必要じゃないかなと思います

まあでも一時期と違ってYouTubeもあって

ぼくも3本のYouTubeを運営しているので主力の活動は動画ですが

でも自分のやったことの記録保存は やはり文章がいいですね

それに 詩を書いたり小説を書いたりは 動画じゃやれないし。

 

【私の創作ノート】小説のための文章デッサン|小学校の時、缶蹴りという遊びをお寺の境内と墓場でやった思い出

缶蹴り 

子供のころ、秋になると缶蹴りをよくした。だいたい、地域の小学生が学年を越えて10人くらい集まると村のお寺の境内で缶蹴りがはじまった。

 缶蹴りのルール

ルールは簡単。小さい丸を書いてそこに適当なカンを置く。

缶蹴りの風景

 夏は暑いし蚊もいるからしない。冬はじっと隠れていると寒いのでしない、春は進級して間がないのでしない。秋に向いた遊びだった。

 カンを置いたらじゃんけんをして負けたものが鬼になる。

 子供たちは寺の裏側に散開して隠れる。鬼は寺を一周して隠れた人間を見つけると名前を呼ぶ。そうすると呼ばれたものは囚われの身となりカンのそばに描いた大きな丸の中に入る。

 何周かするうちに全員捕まったら鬼の勝ち。でも、鬼が一周している間に隙をついてカンをけられたら、人質が解放となっていちからやり直しになる。だから鬼はカンをけられないように、注意しながら寺の裏側に向かわなければならなかった。そこに鬼と隠れたものとの間に知恵比べが始まる。

 ある鬼は、寺の裏側に行ったと見せかけてそこらへんに隠れてカンをけりに来るのを待つ。すると勇敢にも鬼の隙をついて出てきたものは名前を呼ばれて人質になるのだった。

 逆にあるものは寺の屋根に上って鬼の動向を裏側の仲間に知らせたりした。

 知恵の応酬は過激となりついに隠れたものたちは究極の技にたどりつく。全員が一斉にカンをめざしてでてくるのだ。9人の名前を一気に言うことは難しく鬼はカンをけられる。

 

 

 

究極の鬼技 

 あるとき鬼になったものが知恵を発揮して究極の鬼側の技を開発した。

 ちょっと物事を皮肉めいて考える子が提案した。鬼が捕まえて丸の中に入れられた者は、将棋みたいに鬼の持ち札になって鬼と一緒に隠れた者を探して捕まえることができるようにしよう。

 これは受け入れられて、ますます過激な知恵比べが始まった。だがこれは一人がかんを見張ってれば残りはいくらでも自由に探しにいけたから鬼が有利になったことはまちがいない。一気に全員がかんを目指しても、そこに3人もいれば、なんとか名前を言えるのだった。

 これで鬼側が優勢になったことで、それまで寺の裏手の木の裏に隠れる程度だった隠れ方が過激になった。寺の裏は墓場の始まるところなのだが、墓場の奥深く、墓の後ろなどに隠れるようになったのだった。

 ある秋の夕暮れ時、もうあたりが見えなくなるころ合いに小学6年生だった私は、寺から500メートルも離れた大きな墓の裏のやぶの中に隠れていた。缶蹴りももう終わりかけていた。暗くなったらみんな家に帰るのだ。私はついにつかまらないまま、缶蹴りを終えることができそうだった。新ルールのもと、鬼につかまらなかったはじめての人間になりそうだった。秋の日暮れは物寂しく墓に入っているのがどの家の誰か、あるいは何代前の人か、私たち子どもは知っていた。いつまでも私は見つからず墓場は霊の世界に入っていくのだった。

 

 

 



 

 

 こうして低学年で缶蹴りをはじめて大きくなればみな、新たな方法を思いつき高度に遊びを発展させていった気になっていたのだが、実はこれはすべての世代で起こってきたことだった。私が中学になり缶蹴りを卒業したら、次の学年のものたちがまた新たに発見する方法とルールは私たちの時代と同じものなのだ。

 まだ人々が村落共同体で、習慣も仕事も生の在り方も死も、すべて前の世代から引き継いでいた時代のことだ。

 

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詩人・谷川俊太郎を悼んで:言葉の深淵と「クラシクス」の記憶

 

先日、日本が誇る巨星、詩人の谷川俊太郎さんが逝去されました。私のYouTubeチャンネル『甲論乙駁』でも、彼の残した足跡を振り返る動画を作成しましたが、本日はその内容を改めて私のブログ読者の皆様へお伝えしたいと思います。

言葉の「艦隊」としての谷川俊太郎

私は古典や名作文学を「人生の危機に駆けつける艦隊(クラシクス)」と呼んでいますが、谷川さんの詩もまた、私にとって、そして多くの日本人にとって、魂が難破しかけた時に真っ先に現れる強靭な言葉の群れでした。

谷川さんの言葉は、一見すると平易で、子供でも読めるような優しさに満ちています。しかし、その深淵を覗き込めば、宇宙的な広がりと、逃れようのない人間の孤独、そしてそれを超える圧倒的な肯定感が響いています。

私自身の詩作と、並走した記憶

私自身、17歳から40歳までという人生の多感な時期を、詩の世界に身を置いて過ごしました。「パルシウスの会」という詩の雑誌で、言葉を研ぎ澄ませる日々。その傍らには、常に谷川俊太郎という存在がありました。

私が詩を書き始めた頃、谷川さんはすでに大家でありながら、常に「今」を生きる現役の詩人であり続けました。彼の詩に触れることは、自分の内側にある名もなき感情に名前を与えられるような体験でした。かつて文芸誌「らんぷ」で小説を書き、芥川賞作家の高樹のぶ子さんや片山恭一さんと場を共にした際も、その表現の根底にあったのは、若き日に谷川さんの詩から学んだ「言葉を信じる力」だったように思います。

動画で語った「所見」:日常と宇宙の接続

今回の動画では、彼の詩が持つ「二面性」について深く考察しました。 谷川さんは、台所の蛇口から滴る水滴のような極めて日常的な風景から、数億光年彼方の星々の瞬きまでを、一足飛びに接続してしまう魔術師でした。

多くの詩人が、自分の内面や苦悩という「重力」に縛られがちな中で、谷川さんの詩にはどこか「透明な軽やかさ」があります。それは現実を直視していないからではなく、悲劇も絶望もすべて飲み込んだ上での、神話的な「朗らかさ」なのです。これは、私が提唱する「クラシクスな音楽」の定義——運命を肯定し、毅然とした姿勢で微笑んでいること——と、見事なまでに共鳴しています。

忘れられない思い出の一節

動画の中では、特定の詩篇についても触れました。例えば「二十億光年の孤独」。あの詩を読んだ時、私たちは自分が一人であることの寂しさではなく、宇宙という広大な空間の中で「万物と繋がっている」という奇妙な安堵感を覚えます。

また、晩年の彼が示した、死に対する淡々とした、しかし豊かなまなざし。彼は死を「虚無」ではなく、大きな宇宙の循環へと戻っていくプロセスとして捉えていたのではないでしょうか。彼の言葉が、古びることなく「現在進行形」で響き続ける理由は、そこにあります。

結びに:次世代へ引き継ぐ「言葉の灯」

私が運営するYouTubeチャンネル『甲論乙駁』は、8300人の方々に支えられていますが、今回の谷川さんに関する動画には、かつてないほどの共感の声をいただきました。それは、いかに多くの人々が、彼の言葉によって人生の危機を救われ、励まされてきたかの証左でもあります。

谷川俊太郎という「艦隊」は、彼が肉体を離れた後も、私たちの心の海を航行し続けます。 私自身、40歳で詩の筆を置き、その後小説へと転向し、現在はこうしてYouTubeやブログで文学を語っていますが、私の表現の根底にある「魂のワーク」は、すべてあの日読んだ谷川さんの詩の一行から始まっているのです。

 

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