ドゥイノの悲歌はリルケの代表的な詩集?です
第一の悲歌から第10の悲歌まで10の長詩で構成されています
さてこれほど長い詩であるにもかかわらず
あちこちでリルケ的な ハっとするような表現が(翻訳されていてもリルケ的とわかる)散りばめられています。
それは部分的な詩句のこともあります。一行の中の語彙でもって なるほどリルケの言い回しはすごいと思うものもあるし この4行この10行がすごいというのもあります
そういう箇所は昔から好きでした
しかし 実のところ・・・
全体を通して ひとつの感性が統合され きらめく言葉の星々が
ひとつの星座をつくって世界を構築している
その姿を ぼくはドゥイノの悲歌に感じることができません
1~10の悲歌全体というだけでなく ひとつの悲歌でも
その全体が見えにくい リルケは常に細部への精緻な凝視をするから
なにかこう 細部への没頭のせいで
その様々なミクロへの印象が全体のマクロ的印象を相殺しているように感じるのです
というか この悲歌全体はパッチワークのようにその都度
一度自分が決めた構成の中に 後付けで言葉を入れて行ってるようにさえ思える
だから星については詳しくわかるのだけどその星達が構成する星座がどんな形かは
もしかしたら リルケ本人にもわからなくなっている
そんな個人的印象をもつわけです
これは翻訳のせいかもしれないし 私とリルケの気質の違いのせいかもしれません
ランボーの地獄の季節やイリュミナションから感じる統一感や体系をドゥイノの悲歌から感じられないのです 星座と星座が夜空を躍動して 大熊星座が実態として空を駆けまわるのがランボーの詩だとしたらドゥイノの悲歌は望遠鏡で精緻に星を観察して その星が構成する星座には関心がないというような・・・・
ランボーは躍動しリルケは果てし無く閉じていく花びら 開花せず内側に開いていく
そんな雰囲気を感じるのです