子供のころ、秋になると缶蹴りをよくした。だいたい、地域の小学生が学年を越えて10人くらい集まると村のお寺の境内で缶蹴りがはじまった。
ルールは簡単。小さい丸を書いてそこに適当なカンを置く。
夏は暑いし蚊もいるからしない。冬はじっと隠れていると寒いのでしない、春は進級して間がないのでしない。秋に向いた遊びだった。
カンを置いたらじゃんけんをして負けたものが鬼になる。子供たちは寺の裏側に散開して隠れる。鬼は寺を一周して隠れた人間を見つけると名前を呼ぶ。そうすると呼ばれたものは囚われの身となりカンのそばに描いた大きな丸の中に入る。
何周かするうちに全員捕まったら鬼の勝ち。でも、鬼が一周している間に隙をついてカンをけられたら、人質が解放となっていちからやり直しになる。だから鬼はカンをけられないように、注意しながら寺の裏側に向かわなければならなかった。そこに鬼と隠れたものとの間に知恵比べが始まる。
ある鬼は、寺の裏側に行ったと見せかけてそこらへんに隠れてカンをけりに来るのを待つ。すると勇敢にも鬼の隙をついて出てきたものは名前を呼ばれて人質になるのだった。
逆にあるものは寺の屋根に上って鬼の動向を裏側の仲間に知らせたりした。
知恵の応酬は過激となりついに隠れたものたちは究極の技にたどりつく。全員が一斉にカンをめざしてでてくるのだ。9人の名前を一気に言うことは難しく鬼はカンをけられる。
あるとき鬼になったものが知恵を発揮して究極の鬼側の技を開発した。
ちょっと物事を皮肉めいて考える子が提案した。鬼が捕まえて丸の中に入れられた者は、将棋みたいに鬼の持ち札になって鬼と一緒に隠れた者を探して捕まえることができるようにしよう。
これは受け入れられて、ますます過激な知恵比べが始まった。だがこれは一人がかんを見張ってれば残りはいくらでも自由に探しにいけたから鬼が有利になったことはまちがいない。一気に全員がかんを目指しても、そこに3人もいれば、なんとか名前を言えるのだった。
これで鬼側が優勢になったことで、それまで寺の裏手の木の裏に隠れる程度だった隠れ方が過激になった。寺の裏は墓場の始まるところなのだが、墓場の奥深く、墓の後ろなどに隠れるようになったのだった。
ある秋の夕暮れ時、もうあたりが見えなくなるころ合いに小学6年生だった私は、寺から500メートルも離れた大きな墓の裏のやぶの中に隠れていた。缶蹴りももう終わりかけていた。暗くなったらみんな家に帰るのだ。私はついにつかまらないまま、缶蹴りを終えることができそうだった。新ルールのもと、鬼につかまらなかったはじめての人間になりそうだった。秋の日暮れは物寂しく墓に入っているのがどの家の誰か、あるいは何代前の人か、私たち子どもは知っていた。いつまでも私は見つからず墓場は霊の世界に入っていくのだった。
こうして低学年で缶蹴りをはじめて大きくなればみな、新たな方法を思いつき高度に遊びを発展させていった気になっていたのだが、実はこれはすべての世代で起こってきたことだった。私が中学になり缶蹴りを卒業したら、次の学年のものたちがまた新たに発見する方法とルールは私たちの時代と同じものなのだ。
まだ人々が村落共同体で、習慣も仕事も生の在り方も死も、すべて前の世代から引き継いでいた時代のことだ。