文学創作 小説 詩 ポエム エセーのためのカフェ
きもだめし
by 古荘 英雄
夏の太陽が、午後の海に向かって有らん限りの光の矢を射っていた。ゴムボートに寝そ
べって、ぼくは幼い夢に揺られていた。水平線の上に巨大な雲の固まりが浮かんでいた。
入道雲の、想像力を掻き立てるもこもことした出っぱりが、刻々と変化して行く様を眺め
るだけで、ぼくはギリシャ神話にさえ匹敵する世界を、内面に作り出すことが出来ていた。
そこは河口にたたずむ小さな村だった。穏やかなうねりの周囲で、人々は父祖の代から
引き継がれてきた生の循環を続けていた。すべてがそこにあった。それ以外に何も必要
ではなかった。それにもかかわらず、外部の諸要素はその村にも押し寄せ人々の心の地形
を変えつつあった。
その海はぼくの母が小学校に上がった時に、同級生の女の子の命を奪った。それ以来、
ずっと人々は警戒した。そして三十年は無事を守った。が、その年の前年、海は牙をむいた。時を越え、再び小学校一年生の女の子の命が奪われたのだ。人々は動転した。そして怒った。が、海は超然として人々の思い無視した。その年、またしても小学校一年生の男の子の命が奪われた。怒りの炎は凍りついた。そして、これでもう上がりだと人々はみずからを慰めた。さして危険とも思えない海で、そうそう溺れ死ぬというということは考えられなかったから。何かの間違いだったのであり、それは修正され得ると信じたかったのだ。
子供たちは、夏休みになると毎日のように海で遊んだ。ぼくはよく、二メートル近くの
水底に潜り、大きな石につかまって水圧が耳を圧するままにさせて楽しんだ。ほんのわずか水に同化するだけで、完全な無音の状態を体験出来た。また水中眼鏡越しに水面を見上げれば、文字どおり光が踊っていた。音の無い、光の乱舞する世界は、父祖の代から認知された幻惑の別世界だった。
その年に死んだ小学校一年生の男の子と、ぼくは喧嘩をしたことがあった。彼は保育園
に通っていた頃、園の敷地内から学校帰りのぼくに向かって罵声を浴びせたのだった。フェンスの向こうで、ぼくが絶対に手を出せないことを知った上での、悪賢いいたずらだった。ぼくは捨てぜりふで、二年以内に溺れ死ぬぞと脅してやった。少したじろいだが、それでもまだ何か悪態をついていた。ぼくは三回くらい続けて、溺れ死ぬぞと大声で叫びながらその場を離れた。そして、ぼくの呪いは図らずも成就してしまったのだった。
その子が海水浴場で、医師の応急処置を受けているのをぼくらは呆然と眺めた。からだ
に赤い毛布が巻き付けられ、友達が周りでわんわん泣いて、お母さんが生気を無くした顔
つきで、海のかなたを見やりながら立ちすくんでいた。大勢の人がその悲劇を取り巻いて、同情の囁きがあちこちで聞こえた。ぼくはいたたまれなくなって、家に帰り押し入れに篭もり、男の子の命が助かることを祈った。
死の知らせを聞き、その夜ふと目が覚めた時、枕元にその子が来ているという奇妙な実感があった。目を開けることが出来なかった。
それから一週間が過ぎていた。子供のエネルギーの暴走は凄まじく、ぼくはもう、表面
的にはその子の死を乗り越えていた。悲しい死への黙祷の時期が終わり、楽しい盆祭りが
やって来たのだった。
これから三日間、村を上げて一晩中盆踊りを行う。単調な踊りだからほとんど歩いてい
るのと変わりがない。それで、皆歩きながらおしゃべりをし、疲れては周辺に座り込み酒
やお茶を飲んだ。子供たちにも夜が解禁され、電灯をぶら下げたその広場で朝まで遊んで
いいことになっていた。初日は踊るだけ、二日目は喉自慢大会、三日目は仮装大会と、盆
踊りはいつの頃か完全に、村の祭りになっていた。過疎の村にとって、それは帰郷者を増やすための策で、大いに成果有りとされていた。もっとも、帰郷者たちは、父母が生きていたから帰って来ていたのであり、イベントのせいとは言い難かった。その証拠に、村を出た人達の親の世代が減るに連れ、帰郷者の数も減って行った。
子供たちにとっては、一年で一番楽しい時期だった。ただでさえ夏休みなのだ。四十日という、子供にとっては全体を掴みきることができないくらいの自由な時間。朝のラジオ体操や、昼の海水浴、虫取り、山登り、そして夜の盆踊りと、遊ぶのにも何の苦労も無い時代だった。
盆の時期になると毎年大勢の親戚がぼくの家に帰って来た。ぼくは祖父母の家で暮らし
ていた。父は船乗りで普段は家にいなかった。それでぼくらは、父の船がよく停泊する港の、隣の市にある母の実家に住んでいたのだ。ところで祖父母には十二人の子供がいた。盆にはほとんど皆帰って来た。しかもたいていは子供を連れて帰って来た。ぼくの家は林間学校のようになり、ぼくは自分の居場所を奪われるのだった。
盆には村の人口は倍近くになった。帰郷中の人々が家の前を通るたびに、母やおじたち
やおばたちが、その人の子供時代の美談や失敗談、家庭や先祖について解説をしてくれた。おかげで、子供心にも村の人間模様の全体像が見えてきたものだった。昨年、娘を故郷の海に奪われた一家も帰ってきていた。人々は彼らに同情し、今年死んだ男の子が、きっと遊び友達になってくれている、などと二つの死に意味付けをして、みずからを納得させていた。
その年は長い間遠い場所で暮らし、久々の帰郷を果たした人が二人いた。
一人は照れくさそうに村を歩く姿が目を引いた。その人が歩くたびに、ぼくら子供は二
十年前のきもだめしについて聞かされたものだった。
それは、村外れの天神様で行われたという。天神様の境内はなだらかな坂道に、そのま
ま張り付いたような階段を二百メートルほど登り、そこから急な階段を五十段ほど登った
奥深い山の中にあった。階段の両側は、鬱蒼と草木が茂っていて、なじみの世界に対する
壁になっていた。境内の周囲も高い木々で取り囲まれ、無数の枝が社を覆って、昼間でも
薄暗かった。社の隣には等身大の白い馬の像を入れた小屋があり、それは時々目が動くと
いうまことしやかな噂があった。その境内からさらに山中深く続く獣道があった。その道の行き着くところ、もう一つの社があり、天神様より古い、村の本来の神社があった。大晦日には、人々はここに集まる。そして、大晦日に親に連れられてくる子供たちは皆、このおどろおどろしい場所を気味悪がった。殊に、天神様の境内から神社までの五百メートルほどの道はまるで異界へのトンネルの様であり、もしここを一人で歩けと言われたら、気が狂ってしまうと思った。
ぼくの叔父の一人がそれに参加していた。叔父たちは、墓場から花を入れた竹筒を一本
くすねて、それを杭代わりに使い、神社に到達した者がまずそれを打ち付ける、続いて行
ったものがそれを抜き取って来る、というやり方で十人できもだめしを始めた。ところが
それは中断した。五番目に行った者が、適当な時間が過ぎても帰ってこなかったので、み
んなで見に行ったら、奥の神社の社の前で、着物の裾を竹筒で地面に打ち付けて倒れてい
た。頬を叩いて目を覚まさせるとやたら怖がっていた。みんな来たからもう大丈夫と励ま
したらようやく怯えが取れて来た。そして事の顛末を話し出した。杭を打ち込んだので戻ろうとしたら誰かが裾を引っ張った。振り払おうといくら努力しても、相手は物凄い力で握っていて離さない。もうこれは怨霊の類に違いないと思い、恐怖は極限にまで達し気を失った。叔父たちが自分で打ち込んだ着物の裾のことを教えるとその人は恥ずかしそうに下を向いた。
その時、陽気に笑っていれば愉快な笑い話になっていたのだが、気まずい雰囲気をつくってしまい、恥ずかしい思い出になってしまった。そして成長し、村を離れたその人は、お盆に堂々と帰郷できるようになるまで、その心の中に長い時間を要したのだった。
叔父はぼくに言ったものだ。大失敗をしたり滑稽な役割を演じた時は、自分で最初に笑
わなければならない。人に笑われると汚名は取れなくなる。自分で笑ってしまえば次の日
から誰も笑わなくなる。
もう一人は目立たぬように気を配りながら歩いていた。その人はかつて兄を殺した。そして釈放後も村には帰れず、世間を転々とした。だが兄の死んだ年と同じ二十年の歳月が流れたその年、兄の墓参りがしたくて帰って来た。ぼくはそう聞かされていた。
二十年前の殺人事件についてぼくら子供の知るところは少なかった。抑制の効いた良識で子供たちには漏れて来なかったのだ。そして、そのために一人一人が、それぞれ聞きかじった断片的情報を組み合わせて、一つのストーリーを作り上げていた。子供の言葉で表現仕切れないこともあったが、おおむね次のような出来事だった。
戦争が終わった直後、三人の若者が一緒に暮らしていた。満州から命からがら戻ってき
た人達だったと言う。若い双子の兄弟ときれいな娘だった。兄弟と女の父親は南の海で戦
死した。それぞれの母親は、満州からの帰国の途中死んだ。女の親戚は空襲や混乱で全滅
していた。三人は、兄弟の祖父母の家に腰を落ち着けた。ほどなく祖父母も死んだ。その
とき三人とも十九歳だった。兄が女を妻にした。
食料の確保が難しい時代だった。兄は妻のからだで食料を得る術を覚え、それを繰り返
した。妻は、寄る辺ない自分を引き取ってくれた兄弟に感謝していたので、甘んじて受け
入れた。それまであまりにも多くのものを失ってきたので、今さら貞操を失うことにさし
たる抵抗感もなかった。しかし弟は違った。
弟もその女が好きだった。
満州以来辛酸を舐めあって来た。生死の境を共に越えてきたのだ。たまたま、兄が兄という理由だけで先にプロポーズしたのであって、自分は譲ったのだ。女もよく似た兄弟のどちらを選んでもよかったのだ。弟はそう考えるようになった。共同生活はセックスを除けば、女の愛情は二人に均等に振り分けられていたので、弟は女も本当は自分を好きなのだと思うようになった。狭い家のことでもあり、二人の寝床をよく覗いた。女の性の場の振る舞いと声が目と耳に鮮明に焼き付き残った。弟は女を知らなかったので、若い血は暴走の寸前だった。そして、自分だけが女を抱けないことに強い不合理を感じるようになった。
ある日、からだを売るようになったのだからおれにもさせてくれと頼んだら、夫と、食料の持ち主に限ると言って断られた。その言葉を聞いた時、煮えたぎる血が堰を切って溢れ出た。押さえ切れなくなって、力で組み敷き無理矢理貫いた。その日の内に兄の知るところとなり、夜呼び出された。人の妻に何をするかと言われ、自分の妻に何をさせているのかと言い返し、それで得た米をおまえも食ってる、おまえもあいつのからだを食い物にしているのだと言われ、興奮さめやらぬからだはまたも制御を失って、おもいっきり顔をぶん殴った。兄は倒れ、後ろ頭を強く打って死んだ。
その死んだ場所があの天神様の奥の神社の境内で、後ろ頭を打ちつけたのが、あそこの
左側の狛犬の石像だ、というのが子供たちの共通の見解だった。あの境内には、だから殺
された兄の霊が出るのだということになっていた。
海中から水面を眺めるのが好きだった。その年、ぼくは村での最後の夏を過ごしていた。
父の船がよく停泊する港の町に、我が家は引っ越すことになったのだった。そこは都会であり、父が時折帰ってくるのに便利で、半日だけの停泊の時でもこれからは家族に会える
し、何よりぼくと姉の教育に良いとされた。もっとも、ぼくは学校の勉強などどこでやっ
ても同じだと思っていたし、父祖の代から続くこの山や海の霊力から離れたところには行
きたくなかった。長い休みには帰郷すればいいのだと言われて、じゃあ夏の海中の瞑想は
続けられるのだと少しほっとした。しかし、ここの住人でなくなることにはもう一つの不
安があった。
子供たちは大人を真似て、大人以上に残酷なものだ。それは排他性についても言えるこ
とだ。仮にぼくが今仲間であっても、やがて確実によそ者扱いされるようになる。典型的なこの村の子供であるぼくが、ちょっとよそに行ったからといってのけ者になってしまうのだ。それは割り切ることの出来ないことだった。
ぼくの、まだ自立しきっていない精神はどっぷりと村という巨大な霊に浸っていた。まず最初に、やさしく繊細な、植物や昆虫や風や光の織り成す絵本があった。そして、海の音が耳を撫で、村外れの墓場が日々の陽光を受けては煌いていた。葬式は村民総出で行われた。人々は今誰が死の間際にいるか実に良く知っており、子供たちでさえその年の死者の名をすべて言えた。共同の行事には、一つ一つ微細な特徴が盛り込まれており、生まれながらにそこに住む者と、後から来たものをはっきりと区分けする壁となっていた。
ぼくは物心ついた時からそこに住む者だった。そして当たり前すぎて意識したことさ無
かった。いよいよ別れの時となって、自分が手放すものの何であったかがよくわかるよう
になったのだ。
従兄弟たちとの騒々しい晩御飯を取りながら、テレビを見ていた。ぼくの従兄弟はざっ
と二十人ほどいた。ぼくの母は十二人兄弟の八番目だった。一番上と一番下で二十二歳離
れていた。従兄弟同士についても、親たちの年齢の幅と同じような広がりを持っていた。
大まかに分けると、三つの年齢層に別れていた。第一群団は大人の集まりだった。この人
達は、ぼくの母より後に生まれた自らの叔父や叔母と同じ世代だったから、ぼくにとっては従兄弟なのか叔父・叔母なのか、今一つ区別がつかなかった。第二群団は高校から大学にかけての人達で、人数も少なく、ぼくにとっては大人同様だった。ぼくから見れば彼らはみなおじやおばのような人達だった。第三群団はぼくら小学校以下の子供たちだった。そしてその筆頭がぼくだった。
もっともぼくより下の連中からみれば、さらにその下に階層があり、乳幼児群団という
ものが存在していたかもしれない。ぼくはその年齢の従兄弟たちはおおらかに無視してい
たのだ。それにはもっともな理由もあって、第一群団の従兄弟たちがすでに乳幼児の親と
なっており、小学生のぼくから見れば、どれが従兄弟でどれがはとこか、さっぱりわから
なかったのだ。それは彼らの親が叔父・叔母と混ざる以上に混ざりきっており、血の混沌であり、判別に何の意味もなく思えた。
というわけで、実感として存在する従兄弟は小学校グループだけだったのである。
戦争のような食事から気持ちを逃がすために、テレビニュースを見ていたら飛行機が衝
突しそうになったと言っている。ついこの間も飛行機同士が衝突した。大勢の人が死んだ。
その頃のぼくにとって、死とは一人一人の死であって、一度に数百人が死ぬという概念を
どうしても認識出来なかった。死は村民総出で見送る葬式で象徴されていた。棺を背負っ
た親族に続いて大勢の友人が列を作る。無関係な者たちもその後に列を作る。そして子供
たちは列の廻りを走りまわる。太鼓を叩きながら、紙ふぶきを撒きながら、目出度い行進
の様に歩を進める。死とはそういうものだった。
沖縄について本土復帰のための法案がどうしたこうしたと言っている。沖縄。ここでも
かつて大勢の人が死んだと言う。しかも悲惨な犬死にをしたと。死んでしまえば、本人に
とっては役に立つかどうかわかりようがない。死ぬ時の気持ちとして、どうだったかが
問題なのだ。多分、ぼくの廻りの大人たちは無意味な死だったと思い込んでいる。そして
ぼくは判断する材料を何も持っていなかったので、本当のことはわからないと考えていた。
ただぼくの過ごしている平和な世界から眺めれば、かわいそうな出来事だと単純に処理し
ていた。
さて、盆には村中の死者が帰ってくる。村では死は楽しい出来事だった。肉親がどれほ
ど嘆き悲しもうが、共同体にとっては新たな墓場の住人登録は、引越し程度の出来事だっ
た。もう千年もどこそこのだれだれが死んだ、墓はあそこだという囁きが続いているのだ。
今更一人、二人増えてもそれが何だろうか。非業の死にだけは同情が注がれはしたが、そ
れは例外的なものだった。それでもって、死そのものへの共同体としての認識が変わるこ
とはなかった。
盆踊りが始まると、広場は人で一杯になった。広場の中心にやぐらがあり、やぐらの下
に太鼓が設置され、やぐらを中心に円を描いて踊りが行われた。そして子供たちは、踊り
の輪の外側で遊ぶのだった。子供たちは、自由だったのだ。共同体の内側である輪の中は
息が詰まるというものだ。外へ外へ向かうのが、生き物そのものの本性かもしれない。子供とは本質的な有り様を示すものなのだ。
一年に一度夜を徹して遊ぶのだから、おのずと普段とは違うルールのものが考え出され
た。しかもそれが長い年月、子供の世界で引き継がれていったので、盆の遊びとして洗練
されて行き、定着し、大人たちもかつて経験したことがあることから伝統芸能のようなも
のにまでなった。
一番頻繁に行われたのが探偵ごっこ。これは十二、三人の仲間を二つに分けて、一方を
探偵団、もう一方を泥棒群に設定する。探偵団が泥棒群を、鬼ごっこの要領でつかまえる
のだが、複数対複数でやると鬼ごっことはまるで違う様相の遊びになるのだった。全員捕
まるまで一時間はかかっていたように思う。複数ということと、逃げる範囲が村中だとい
うことが原因だった。夜陰に紛れて広場からずっと離れた空き家の軒下、といった所に息を潜めて隠れていれば、そうそう見つけられるものではない。
が、それでも結局は見つけてしまうのだった。捕まった泥棒はその場で探偵に変わる。
子供のみならず、大人たちも夜を徹して祭りを楽しむ。そして、村中で帰郷者と久々の
四方山話が行われる。だから村中それなりに人の往来があった。探偵団はその人たちに、
だれそれを見なかったかと聞きまくるのであった。そうすると、だんだんと、追いつめる
ことが出来た。最後の一人くらいになると実に巧妙に隠れていたが、それでも残りの全員
で聞き込みの包囲網を作って行くと、見つかってしまう。どうしても見つからないときは、
犯人が退屈になって広場に戻ってくるのでそこで逮捕されてしまうのだった。
泥棒の方は今現在の探偵の数と、泥棒のうち誰が探偵に変わったかわからず、スリルが
あった。突然後ろから声をかけられ、逃げようとすると両脇からさっと二、三人が自分の
前に立ちふさがった時の、驚きと失望感といったらなかった。
長い時間つかまらないと自分が最後の一人かもしれないと思えてくる。そうすると、誇
りとつまらなさのごっちゃになった気分が込み上げてくる。誇りについて言えば、最後ま
で残ったという単純な喜びだ。つまらなさは、自分だけが逃げる側だという孤立感から来
た。そして、全員に捜されているという特別な地位はどきどきさせもしたし、恐い思いを
もさせた。
最後の一人になるまで見つからないためには、真っ暗な人気ないところに隠れなければ
ならない。一種、きもだめし的な要素もあった。最後の一人が自分から姿を現すのは、退屈という理由の他に、暗闇の恐怖に耐えられないということも大きかった。
一夏に一回はきもめしをやった。
盆踊りの広場から遠からぬところで、寺の周りを一周するとか、海岸線を海水浴場まで行って帰るとか、昔の防空壕跡の洞穴に行くとか、その時のメンバーと気分によってパターンは様々だった。ところで、当時小学生の間で中々切り出せないきもだめしがあった。
それはかつてぼくの叔父たちがやった、天神様の奥の神社へのものだった。伝説になっ
た昔のプロジッェクトは、今年、その時の失敗者の帰郷によって子供たちを動揺させた。子供たちは一世代前の連中がやれなかったことを、自分たちが成功させなければという、奇妙な義務感を持った。そして、本心はやりたくはなかったから、きもだめしの話題がでないように、気を付けながら遊んだ。
その日、ぼくは盆祭りが始まったにもかかわらず、例年ほど面白くないことを訝しく思
っていた。今年はこの村の一員としての最後の盆だった。去年までのおぼろげな記憶をも
とに小学校四年生のぼくは、はっきりした意識でしっかりした期待のもとで盆を始めたの
に、期待外れだった。去年まで広々としていたはずの広場も、何だか狭く感じた。
ぼくは仲間に言った。例のきもだめしをやってみないかと。少しざわめいた。だが、臆病者と思われたくないから、誰も正面きって反対しなかった。たいていこういうときは後になって、あんなことを言ってから、と陰口をたたくものだ。考えてみれば、子供の世界では例のきもだめしの実行を提案してはいけない、という不文律ができていたのだった。何故ならそれが提案された場合、反対したものは本番で失敗したのと同様に、臆病者の烙印をはっきりと押されてしまうからだ。したがって、言い出しっぺ以外誰も望みもしないのに、それは実行されてしまうことになる。
引越しの決まっているぼくは、以後の人間関係のしがらみを考えなくてよく、思い付き
で自由に意見が言えたのだった。
いきなりあの幽界のような暗闇に入っていくのは皆気が引けた。そこで、海岸線を歩い
てみようということになった。二年続けて子供が死んだ海水浴場を通って、ぼくらの小学
校まで二十分くらいある。その道はよくがけ崩れが起きて、通行禁止になった。だからぼ
くらの通学路ではなかった。通学路は峠を越えて、山の方から繋がる道だった。海側から
学校に行き、そこから峠越えをして村へ帰ってくると、山側からの入り口に例の天神様の入り口があるのだった。
ぼくらはその道を五十分くらいかけて歩いた。盆踊りの喧燥に包まれた闇ではなく、静
寂の中の闇にどっぷりと漬かった。ぼくに限って言えば、この行軍の間に、本番に備えて
恐怖から逃れる術を発見したと思った。それは星々の世界に没頭することだった。どんな
夜でも晴れてさえいれば星は出ている。月だってたいていはある。その、星宿の世界に浸
っていれば、地を覆う暗闇の恐怖を越えることができる、とぼくは考えたのだった。
だから他の子が気晴らしにべらべらとしゃべりまくっているのをよそに、ぼくの心は一
人天駆けっていた。
おしゃべりがやんだと思ったら、天神様の入り口だった。階段を伝って境内からの妖気
が降りてきているような気配があった。子供たちの心は凍りついた。しばし沈黙。
一番年上の女の子が、絶妙な提案をした。
「ペアでやろう」
全員賛成。強力な磁石のような提案だった。ペアはきもだめしとして認知されていた。学校のキャンプなどでは長い距離をペアでやっていた。それは今まで村のきもだめしには適用されなかったが、両者のやり方を合体させて、面子のたつ落とし所があったというわけだ。
ところがさらに問題があった。ぼくらは七人だったのだ。ぼくは一組だけ三人にすれば
いいと言った。ところが皆は、それでは肝だめしにならない、三人はさすがにルールに収
まらない、誰かが一人でやるしかないと言う。そして、どうもぼくが天空をさまよってい
た間に話が出来ていたようで、言いだしっぺが一人でやれよ、という意見が出たとたんに、
ぼく以外の全員は我が身かわいさに賛成したのだった。ここでそれにぼくが反対するとい
うことは、ゲームをおりて家に帰るということだった。そしてそれは、竹筒で着物を打ち
付けて気絶した人同様、ぼくの村での地位を生涯に渡って貶めるものである気がした。
ぼくは深刻な顔付きで了承した。
順番はじゃんけんで決められた。ぼくは最後になった。
一番年上の女の子が、ルールも提案した。最初の組が懐中電灯を奥の神社の境内に座っている狛犬の石像に置いてくる。次の組がそれを取ってくる。これを繰り返すことによって、本当に行ったかどうかを確かめよう。そしてそういうことになった。
一組目は、懐中電灯の持ち主の一番年上の女の子と、彼女といつもつるんでいる女の子
のペア。他の三組の肝だめしの実際については、行きと帰りの場面しか見ないわけだが、
その様子だけで、あらかた想像はついた。幼年時代と晩年だけ覗けば、どんな人生だった
か想像できそうな気がするのと同じだ。
一組目は淡々と出向き、淡々と戻ってきた。子供らしからぬふてぶてしい落ち着きの前
には、恐怖も馬鹿らしくて手を出さないような感じがした。彼女は一番年上であるということの見栄と、自分より怖がっているはずのペアを、ぐいぐい引っ張って歩かなければという義務感で、平常心を保っていたのかもしれない。いずれにしても、彼女はぼくとは全く違った心の地形を持っていた。かしずくようにつるんでいた女の子は、友達のほうが恐くて、闇の恐怖を感じなかったのかもしれない。あるいは、精神的に友達を頼り切ることで、自分の心の安定を得ていたのかもしれない。
二組目は、気の弱い男の子二人のペアだった。普通に出発したが、戻ってきた時は、震
えながらやっと足を前に出して、まるで遭難した登山家が凍傷にかかりながらも何とかベ
ースキャンプにたどり着いた、といった体だった。
三組目は、しゃきしゃきした男の子とおとなし目の女の子のペアで、階段を駆け登って
行った。派手な出発であり、同時にいろんな意味でバランスの悪さを感じさせる不安に満
ちた出発だった。ずっと走る続けたら、七、八分の距離だった。嫌なことは早く終わるに
限るという考えから取られた手段だったと思う。愚かな方法だった。女の子が最後まで男
の子ペースで走れるわけもなく、男の子は、女の子を取り残すか、自分も走るのを止める
か、どちらかを選ばなければならなくなる。もし、走るのを止めたら、それはスピードで
振り払っていた恐怖を、一斉に引き込むことになる。最悪のシナリオだった。一方、女の
子を放って一人で帰り着いても、現実には女の子に一人で戻ってくる力はなく、誰かが迎
えにいかねばならず、その時点で肝だめしが失敗に終わってしまう。どっちに転んでも汚
名を残すやり方だった。
ところが、彼らの帰還はその中間の状態で成功した。男の子は走っては止まり、止まっ
ては走り、結局断続的にではあるが走り続けることに成功した。女の子は、自分のペース
で走り続けた。二人は最後は手をつないで鳥居の下を走ってくぐった。皆簡単に拍手した
女の子は泣いていた。
いよいよぼくの番になった。皆がきちんとやりあげた以上、この肝だめしの成否はぼく
一人にかかっていた。一人でやるというハンデはあっても、失敗した時は失敗の事実だけ
が残り、その原因は誰も覚えてはいない。ぼくは猛烈なプレシャーの中出発した。
まず鳥居を抜けて天神様へ向かう石段を登る。鳥居は異界への入り口だった。なだらか
な坂道に張り付いたような階段が続き、ゆっくりと深みに入って行く。途中、それがほぼ
直角に曲がる。真夜中の時間に一人で歩く者にとっては、そこから一気に恐くなる。肝だ
めしは実質的にはここから始まるのだった。振り返ってももう闇しかない。
ぼくはぞくぞくして、駆け上ろうとしたがぎりぎりのところでやめた。先は長い。最後
まで全力疾走ができる距離ではない。走ってて途中でやめたら、そこら中の恐怖心を吸い
込んでしまいそうでまずい。理性で足を動かした。恐怖の核のようなものが心に入り込ん
だら、それは雪だるま式に増えて行ってパニックを作り出す。精神は何とか踏みとどまり
ながら、歩を進めていくねばならない。それに、全行程を走り切って短い時間で帰り着い
たら、それはそれで恐くて走った臆病者というレッテルがつくことになる。
なだらかな階段が終わると、急な階段が続く。それは坂道をカムフラージュしたもので
はなく、最初から階段として作られたものだった。その、苔のべったりと張り付いている
階段を登りきると、天神様の境内だった。
ぼくはずっと、懐中電灯に照らされて見えるものだけに、心を集中させていた。階段を
進む間は、視界は狭く、両脇に鬱蒼と茂る草木が壁を作っていたので、気も散らなかった。
丸い光の内側だけ見て、恐怖を何とか手なずけていた。ところが、である。天神様の境内
に着いたとたん、視界は奇妙な広がりを見せたのである。闇の奥行きが広がったという感
じだった。思わず懐中電灯をあちこちに向けた。そして、足元に光りを戻した時、かえっ
て廻りの闇を意識してしまうことになり、恐怖心が倍増した。
やがて社と、その横にある白馬の像を入れた小屋が、薄ぼんやりと視界に入って来た。
その上の方には、四方から木々の枝が縦横に伸びて来ており、天然の屋根の様相を為して
いた。実際、昼間でさえ暗いし、雨が降っても濡れないくらいに密集していた。
白馬の像の小屋の中には、昔は本物の馬が入っていたらしい。それなりの伝説を持つ馬
の系統だったという。何か村の困難を妖力で解決したらしい。それは子供にとっては薄気味の悪い話だった。今でも時々白馬の霊が像に乗り移って、真夜中にはいななくこともあると、まことしやかに言われていた。また、人が通るたびに目がぎょろりと動くというのは、目撃者も多く疑う子供はいなかった。
ここまでは肝だめしをしたことがあった。ここが、これまでのゴールだった。今日、こ
こはスタート地点に等しい場所だった。
ぼくは小屋の前を通って、奥の神社に続く獣道へ出た。馬の目は、動いたと思う。恐く
てよく見なかったがからだで感じた。この獣道からが、子供にとっては自分たちの世界の上位に位置するものの、始まりを意味した。
闇には忌むべきものが潜んでいる。見えないということが、警戒を起こさせるのだろう
か。そして、完全な闇よりも月明かりが作る薄暗さの方が不気味だった。天神様の境内は、
月光の粒子が点在していたが、獣道からは遮るものとてなく、月は天空を支配していた。
けいきづけに大声を出してみた。海に小石を投げ込むようなものだった。闇の深さとい
うのは感覚の作る錯覚だから無限の広がりを持つ。挑んでもせん無いことだ。
歌を歌ってみた。できるだけ俗っぽい歌を。俗っぽさは日常生活の象徴であり、習慣の
城こそが、恐怖や不安を隠すのだ。この当時のぼくにとっては、景気付けの歌とはヒーロードラマの主題歌だった。ぼくの子供の頃には正義の味方が雨後の竹の子のように生まれた。
そこはかとなく元気が出て、ヒーローたちを友として月夜の道を進んだ。やがて、狛犬の像の守る、奥の神社の社がおどろおどろしく視界に浮んで来た。
折り返し点についたことで、緊張が和らいだ。が、それは逆効果だった。そこまでの緊
張感と歌が、心に粘着質の膜を作って恐怖を防いでいたのに、気が緩んだ刹那に元の木阿弥になってしまった。そもそもこの折り返し点までのことしか考えていなかった。帰り道のことなど露ほども頭になかった。
失敗した、と思って全身が金縛り状態になってしまった。深呼吸、楽しい思い出、歌、
大声、全部やってみたがどれも効果がない。とにかく懐中電灯を捜さないとと思い出し、
パニックになりながらその辺をうろついた。懐中電灯は狛犬の像に置くことになっていた。
ない。焦ってるから見つからないのだと、気を強く持ってとにかく捜した。ない。
このまま走って帰ってしまえば、今、この場を切り抜けられても、生涯村に帰るたびに
肩身の狭い思いをする。捜すしかない。
その時、どこからともなく海で溺れ死んだ男の子の声が聞こえた。
「弱虫、弱虫、ここまで来てみろ」
保育園の園庭から、ぼくに悪態を吐いた時の、彼の方の捨てぜりふだった。ぼくの捨てぜ
りふが成就して、彼が死んでしまったように、彼の捨てぜりふも成就して、ぼくはどこに
も行けずに恐怖の中で地団太を踏むだけの人生を送るのだろうか?
彼のことが頭の中に渦巻き浮かび上がってくる。一人で死んだ。五人家族の彼は、毎日にぎやかな食卓を囲んで、末っ子として甘えて楽しく遊んでもらっていただろう。今は一人で墓の中だ。前の年に死んだ女の子も五人家族の末っ子だった。彼女と同じ場所で、今年も同い年の男の子が死んだ。二人が友達になって、親のいない寂しさを紛らしてくれたらと、皆が願った。小さな子供が親に置き去りにされて、こういう暗闇で一人泣き叫びながら親を捜して走り回り、力尽きて凍え死んだというニュースがあった。きもだめしどころの恐怖ではない。
非業の死を遂げたかわいそうな子供たち。
彼らの悲しみの振動に揺られて、ぼくの心は落ち着いた。そして冷静になって懐中電灯
を捜した。ない。
これは前の組がいたずらして隠したのかもしれない。いや、しかし前の組と言えば、女
の子が泣きながら、走る男の子にやっと追いついていたペアだ、そんなことをする余裕は
なかったろう。じゃあ考えられることは、余裕がないからきちんとした場所に置かなかっ
たということ。そうだとしたら、こっちとしたら隠されたのと同じことだ。もう一つ最悪
のシナリオは、置き忘れて実はそのまま持ち帰っているということ。彼らが電気のついて
いない懐中電灯を余分に一つ持っていたかいなかったかなど、気にも留めずにぼくは出発
していた。
置き忘れたから、といって届けに来てくれるわけも無かった。きもだめしは失敗になる。
もし、間違って持ち帰ってたとしたら、彼らはそのことを生涯の秘密にするだろう。生涯
に渡って、村の笑い者になるからだ。でも、持ち帰ったという前提で、ぼくが手ぶらで帰ったらどうだろう。そうなった後で、もし本当にちゃんと置いて来てたとしたら終わりだ。そして実際に持ち帰ってたら、ぼくが見つけ出すことはないのだ。このあやふやな事態を解決する方法は二つ。見つけること。そしてもし見つからない時も、一時間くらいは捜してみること。そしたら、勇気が無いためにいんちきしたとは思われない。たとえ、社にいかなくても、暗闇に一人で一時間いたということが評価されるのだ。
ぼくはそこら中を捜した。大勢のかわいそうな子供たちの霊と共に捜した。ない。とう
とうお堂の中を除いて、周囲は全部見た。後は、森の奥深く放り投げたか、持ち帰ったか
だ。ぼくはさすがにお堂を開けるのは逡巡した。見てくれも不気味だった。闇の深さが極
限まで深まると言った感じがした。でも、後でお堂は開けたのかと聞かれるのはわかりき
っていた。ぼくは座り込んで心を整えた。そしてもう一度だけ、最初に戻って狛犬の二つ
の像を調べた。ない。
なぜないのだ、とぼくは狛犬に向かって怒鳴った。そして、顔つきだけはいかついが、
おまえらなんぞ役立たずだ、とわめきながら顔を睨んでやったら、なんと狛犬が懐中電灯
を加えていた。
今まで思っていたすべてのことががらくたになった。それにしても口の中に入れるとは
思わなかった。普通背中に置くか、足元に置くぞばか野郎と怒鳴った。口の中に穴が空い
ていたのだ。それで懐中電灯が差し込めるようになっていたのだった。いつから空いてい
るのだろうか。ぼくは知らなかった。
懐中電灯が見つかって、恐怖がまた襲ってきた。帰り道の恐怖をまた忘れていたのだ。
でも恐怖にもかなり慣れて来て、極限まで行ったから、帰り道は少しは余裕があるな、と
思った。その時、ぼくの心に声が響いた。このきもだめしはお堂を覗かなければ完成しな
い。
そうだ、村で一番恐いきもだめしのためにここまで来たのに、その過程で一番恐いことをはしょったら片手落ちだ。最高のきもだめしをやったことにはならない。おりしも月が分厚い雲に隠れ、真っ暗闇になった。
ぼくは無理してお堂を開けようとした。鍵がかかっていた。安心した。そして帰途に着
いた。鍵がかかっていたのだから、誰からもとやかく言われることはない。そもそも他の
連中は、御堂を開けようとなどと考えもしなかっただろう。自分自身の気持ちについても、
鍵がかかっていたのだから諦めがつく。先々悔恨として残る要素は全くない。さて帰ろう
と思ったとき、そう言えば二十年前の殺人事件はこの境内で起こったのだと思い出した。
思い出さなくてもいいことが頭の中を一杯にしてしまった。左側の狛犬の台座の角で頭
を打って死んだという。とすると、この部分だろうか、と見やれば、血の跡のような汚れ
がある。まさにこの角のこの個所だろうか。お盆には霊がここに戻ってくるのだろうか。
だとすれば、今、彼の霊はここにいるのだろうか。ここにいてぼくを見ているのだろうか。
確か今日が事件からちょうど二十年後、つまり二十年前のちょうど今日、死者になったのだ。不幸な人生だった。戦争で両親が死んでしまい、慣れ親しんだ土地から出て行かざるを得ず、祖国に帰ってやり直しかけた時、弟に殺された。化けて出てもおかしくない状況だ。ぼくは外見には幸せ過ぎるから、彼が妬んで出て来るかもしれない。弟にしても、兄と同じ少年時代を過ごし、挙げ句の果てに兄弟殺しで刑務所行き。草葉の陰で両親も嘆いていることだろう。その怒りを向ける相手がわかりにくいから、両親もぼくに対して化けて出るかもしれない。でもぼくは思い出した。村を歩く弟の目は、優しく、ぼくら子供ににっこり微笑んでくれた。村の人達も、二十年前に別に被害にあったものがいたわけでなく、身内の中の不幸事として認識していたので、概ね同情的だった。その人は、女に会いに来たのだという噂だった。女は、兄弟がいなくなったあとも、からだで食料を稼ぎ、やがてその中の一人と結婚して、今や平凡に幸福だった。女は会うまい、と大人たちは考えており、ぼくはかわいそうだと思っていた。
ぼくのきもだめしは第二幕に入った。凍り付くような恐怖だった。生きていると言うこ
とは、次々に異なる解釈を起こしって、しかも懲りないと言うことか。暗闇のスクリーン
を克服したと思う都度に新たな想念が入って来て、それまでの成果が台無しになる。
ゆっくりと歩いた。心がぴーんと張り詰めていた。際どいリズムだった。少しでも転調
があれば、何かが崩れてしまって、自分がどうなるか分からない感じがした。これこそが
典型的なきもだめしの精神状態だと思った。ゆっくりと歩を進め、足元をしっかりと見て、周りに気を配りながら無視をして、先々の道を警戒し、色々なことを考え、一人で誇らかにやり抜く。
それでもやはり慣れない。もちろん慣れたらきもだめしではなくなってしまうが、慣れ
たほうが楽は楽だ。どのくらい時間が経てば慣れるのだろうか。暗闇の恐怖に。死の無念
さに。捨てられて死に行くさみしさに。親しい人の死に。それともこの世には慣れだけで
は克服できないことがあって、祈るしかないのだろうか。そういったことはぼくにとっては道の領域だったが、ぼくはそういうものを確かに認識していた。
月が再び出現する。懐中電灯の光の輪に注意を集中していたのに、また視界が広がった。リズムの転調が起こった。幼いぼくに月光の攻撃をかわすことはできず、広がった視界のせいで恐怖がざわっと音をたてて襲ってきた。ぼくは月に救いを求めた。月こそ、夜の中明るさそのもの。月光の照らす薄暗い世界ではなく、天空に浮かぶ月そのものは明るく、くっきりとした存在だ。月を見て、月に呼吸を合わせた。そしてあそこまで 37万kmだと声に出して言ってみた。そして光は秒速30万kmと怒鳴った。少し落ち着いた。自然科学の事実は、心を落ち付かすのだと気づいた。お経代わりにまくしたてた。月から地球に光が届くのは1.2秒後。今見ているあの月は1.2秒前の月であって、この瞬間の月ではない。20光年先の星に立てば、ちょうど今殺人事件が映っている。そこではそれが現在に織り込まれる。ここでは、殺した人さえ、刑期を終えて故郷に戻ってきているのに。その星にたてば、海で死んだあの子達は生まれてさえいない。幸せに走り回っていた頃の光さえ、宇宙空間の一定の場には満ち溢れているのだ。その光が通るところでは、それが現在なのだ。
ところで、光は1秒で地球を7周半すると言うから、地球の7周半は 30万kmとい
うことになる。地球の一周は30万kmを7.5で割って4万km。円周が4万kmの円
の直径はそれを3.14で割って、13000km弱。
だから地球を13センチくらいのボールに見立てれば、3.7mくらいのところに月が
在る事になる。
心の落ち着く科学的事実だ。
ぼくはアイザック・ニュートンの伝記を七、八回は読んでおり、天文や物理の話が好き
だった。光の計算で、月光によるリズムの転調から心を救うことができた。
調子に乗ってぼくはさらに思いを巡らした。ニュートンの後にも偉人の伝記をたくさん
を眺めるのは、最高の覗きだと思う。再読となると、何もかも知り尽くして眺めるのだか
ら、これはもう神様のようなものだ。こういう本は船乗りの父がたまの休みの土産に買っ
てきてくれた。ぼくの知らない大きな町の大きな本屋で買って来るのだと、妙に感動して
いた。それははるかな世界に対する憧憬の念でもあったのだろう。
これらの思考群に守られて、天神様の境内までたどり着いた。ここまでは通常のきもだ
めしで何度も来たことがある。もう大丈夫だ、と思っ瞬間、奥の神社から突飛な恐怖や不
安感を引きずって来ていることに気づいた。そしてまたしても、安堵したということその
ものが、恐怖への引き金を引いた。
境内を通り過ぎながら、きもだめし用のもう一つの懐中電灯にもスイッチを入れた。す
ると白馬が目に飛び込んできた。そしてしっかりと目が合ってしまった。目ははっきりと
動いた。そして首が上下に震えたのを見逃さなかった。ぼくは忍び足で馬小屋の前を通っ
た。馬に気づかれたらやばいことになりそうだった。
白馬がいななくか、小屋を蹴破って出てきたら、ぼくは異界に閉じ込められてしまうと
思った。歩を早めることは出来なかった。ゆっくりと歩いてそのスピードに閉じ込められ
て、抜け出す術はなかった。とにかく石段のところまで、この異界との接点である境内か
ら脱出するのだ。恐怖と緊張は我慢できる限界に来ていた。
そして石段にたどり着き、ぼくは走った。と同時に恐怖がはっきりと姿を現しからだ中
を駆け巡った。こうなったら、足が凍り付く前に皆のところまで戻らなければ。一段一段
を飛び降りるかのように駆けた。この階段は現世と異界の中立地帯。両方からの風が吹く。
早くなじみの風の世界に。たどり着かないととり返しのつかないことになる。
ぼくは走る。もしこけたら終わりだ。失敗したら終わりだ。でも、全力で走らなければ
ならない。鳥居が見えてきた。鳥居に扉がついて、その扉が閉まろうとしている。待って
くれ。ぼくは心の中で叫ぶ。閉まったら、終わりだ。不幸な死や、運命がぼくに取り憑い
てしまう。閉まる。やばい。助けてくれ。急げ。
ぼくは鳥居を越えた。皆は鳥居の下にいたのだが、全速力のぼくは皆の場所を越えて二
十メートルくらい走り過ぎてしまった。
「恐かったでしょう」
「恐かったのは最後だけさ。終わりと思ったらちょっとだけ恐くなったんだ」
「二人でもやっとだったのに、一人なんてすごいなあ」
失敗してたらけなしただろうが、成功したからヒーローになった。中間はない。
ぼくはほっとしていた。充実感はなかった。もう二度とやりたくなかった。懐中電灯が
中々見つからなかったことは言わなかった。大人になったら話そうと思った。