【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

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連載小説「あの夏の向こうに」第12話  by古荘 英雄 -

   あの兄弟は、山が好きで二人で夏山、冬山問わず登っていた、西野はまた思い出す。長くて二泊三日で帰って来るような軽いものが多かった。学生のころは兄の方は、本格的にあちこち登ったらしいが、卒業してからは、素人の弟を連れて、気晴らし程度の散歩代わりといった風だった。

 

   あの年の夏、西野は玲子とのことを宮津に話した。そして、それからしばらく落ち込んでいた宮津を、兄の信一が山に連れて行った。そして頂上で、あるパーティーに写真を撮って欲しいとと頼まれて、ファインダーを覗きながらゆっくりと後ろに下がって行って、最後に足を踏み外して三十メートル下に落ちて死んだ。滑稽で、あっけない死だった。悔やんでも悔やみきれない死だった。西野には、後ずさりながら突然踏みしめる地面がないと感じた時の、宮津の絶望感が、その光景とともに鮮明に体感できたのである。

 

 あんなくだらない事故で死ぬような奴じゃなかった、といつも西野はやりきれない思いをした。玲子とのことがなければ、もっと精神状態がしゃんとしていて、注意力もあっただろう、そもそもあの年の夏には山に登らなかっただろう・・・・・・・自分たちが殺したようなものだ。   

 

   西野はあれ以来憂鬱だった。親友を失った悲しさに加えて、あそこで宮津が死んだために、玲子との時間が止まってしまったのだった。宮津が生きていれば今ごろ克服されていたであろう問題が、死んだがために凍ってしまってずっと残りつづけることになってしまった。

 

「大丈夫?」

 

  麻美は西野を気遣った。

 

「うん、ありがとう、昔なじみとしてわがまま言うけど、しばらく店の中にいてくれ。ただちょっと離れててくれ」

 

 

 

 

 

 

 麻美と柏木は再びプラトン全集の脇に座った。そして、二杯目のカクテルの残りを、ちょっとづつちょっとづつ飲んで行った。

 

宮津さんって人が生きてさえいればね。死んじゃったから、生き残った人たちの時間を、一緒に止めちゃったのよね。宮津さんが生きていて、立ち直って別の女の人と結婚でもしたらただの思い出なのにね」

 

「おれが西野と親しいのを知ってて、どうして今まで話さなかったんだ?」

 

「そうね、どうしてだろう?」

 

  麻美は少し悲しげな目で、それでも自分自身も驚いているような風でもあり続けた。

 

「話さないでおこうと決めてたわけじゃないのよ。なんとなく、あなたには関係ないと思ってたのかな」

 

「期限付きの仲だと、大事なことは伝えないか?」

 

「お姉さんのことだからね。わたしはわたしよ。同情はしてるし、妹として心も痛めてるけど、自分にとって大切なことではないわ。そうじゃなきゃ、お姉さんと宮津さんが住むはずだった家に行って、あなたに抱かれたりしないわ。場所は選んでたと思う。それに第一・・・・・・あなた、わたしに本気だったことってないでしょう」

 

  そのことはきっぱりと言った。

 

 

 

 

 次の土曜日に柏木は会社に出た。会社に入る時は、たとえ休日でもスーツだった。そのことに特に違和感はない。私服の方が、むしろ落ち着かなかった。それに明日が引越しだった。これがこの支部との別れでもあったから、正装すべきだと思っていた。そしてさらにこの後、玲子に手紙を届けるという役割があった。これに対しては厳粛な気持ちで望むことになる。

 

  エレベーターで五階に登り、鍵を開ける。中に入れば大きな部屋でそこから湾が一望できる。空の青と海の青が遠くで一つに溶ける。真下には、大通りが海岸線に沿って延びている。

 

 

  ちょうど今、港に船が帰って来るのが見える。骨折した老漁師の船だった。三年の間、漁師たちや漁協関係者ともいろんな付き合いをして来た。どの船が誰のものか、だいたい頭に入るまでにはなった。あの老漁師だけは、本当に相性が合わなかった。

 

船に信一の姿があった。謎めいた男だったが死んだ宮津の兄だと聞いた。家主の長男だった。弟の死以来、しばらくはあちこちうろついていたらしい。それがちょうど半年前に帰って来て、その夜、西野の起こした事故を目撃したということだ。いつまでも自首しない西野に警告をして、西野は結局自首をした。老漁師は、黙っとけばよかったじゃないか今さら、と言ったという。

 

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