【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

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連載小説「あの夏の向こうに」最終回 第14話   by古荘 英雄

この海は三年間いつも意識の脇にあった。夕日を浴びて、真っ赤になった海と空が、柏木の胸に迫った。

 

  麻美の家に自分の知らない女がいて、自分は特別な使者として会うのだと思うと、何だか得意げな気持ちになった。

 

  さきほどの、主任からの思いがけないキスに後押しされた、上機嫌も力を与えた。

 

  麻美の家に向かう道すがら、本当にこの街を自分は熟知しているのだと改めて感じた。次の信号を右に曲がると高校があるだとか、次の角にはパン屋があるとか花屋があるとか、一つ向うの筋にスポーツクラブがあるとか、または何の標識も目印もないところでも、ここがどこであるかが、よくわかるようになっていた。街のすべてを知っているといってもよかった。

 

  こうして、一つの街になじんで来たら転勤になるのだった。自分たちは風のような存在だと、かつて上司から言われたことがある。吹くだけ吹いて、枝や幹を揺らすだけで何も後に残さない。でも、何か残せた者だけが生き残る。

 

 

 

  よく知った赤い屋根の二階建ての家の前で車を止めた。そして、三年間で始めてポーチを開け、玄関まで四、五メートル歩き、その間麻美の両親が手を施したガーデニングの見事さに心を打たれながら、麻美の原点を見る思いがした。

 

 カンナの花が少し周囲から浮いていたが、見事な色合いで門の脇を飾っていた。

 

  チャイムを鳴らす。麻美がドアを開ける。

 

  麻美は茶色のワンピースを着ていた。夏のこの時間にしては、堅い印象だった。最後にもう一回抱きたいなと、柏木は思った。

 

 

  「こんにちは。どうぞ。うちに上がるの、はじめてね」

 

  リビングに通されると、玲子は喪服を着て、背筋をぴんと伸ばして座っていた。

 

  柏木が入って行くと立ち上がって挨拶した。麻美よりほんの少し背が高い。ロングヘアーで薄化粧で、麻美を和風にした女という印象を受けた。

 

  応接のソファーに腰掛けて、玲子の前に宮津と、家主からの手紙を差し出した。

 

  麻美はやさしい瞳で姉を見た。柏木はそんな麻美を見て、敬子のこんな目はまだ見たことがないと思った。

 

  玲子は封を切った。そして、中からきちんと折りたたまれた便箋を取り出し、ゆっくりと開いた。そして、かつての恋人の死に際の思いのすべてに、正面から向き合ったのだった。

 

 

 

 

長い時間だった。

 

  その間、麻美と柏木はずっと見つめ合っていた。

 

玲子は最後まで涙を拭おうとしなかったが、読み終わった時、顔を被って泣き出した。麻美も涙を浮かべて姉の両肩を抱きしめた。柏木は二人をほれぼれと眺めた。本物の舞台を前にしていると思った。そして、この女より本当に敬子のことが好きなんだろうかと自分に問うて見た。初めて湧いた疑問だった。玲子が泣き止むまで麻美のあらゆる姿を思い返した。砂浜の光りを浴びた笑顔や、映画館の感情が高まった眼差し、バーやレストランの軽快にしゃべる唇、ベッドの中の白い肌。どれも敬子に劣る物ではなく、それは別のものであるだけだった。

 

ひとしきり泣くと、玲子は家主からの手紙を麻美にそのまま渡して、読んでと頼んだ。

 

  濡れた瞳で、麻美は手紙を受け取ると読み始めた。

 

 

 

拝啓

 

  夏の暑さが街を覆ってしまう時候になりましたが、いかがお過ごしでしょうか。

 

 本当にご無沙汰しております。

 

  悠太が他界して四度目の夏を迎えますが、私たちは未だに目を閉じれば、あの子の姿がはっきりと映ります。これは一生涯変わることなく、いつもあの子はわたしたちの傍にいるのだと思います。

 

  もしも、あのまま、婚約破棄ということがなく、あなたと結婚していれば、あなたは今ごろわたしたちの果樹園に住み、二人の間に生まれたわたしたちの孫は庭先で走り回っていたかもしれませんね。わたしたちはずっとそんな風に物事を考え、あなたを怨んできました。そして、自分たちの不運を呪っていました。ほんの少し何かがずれていれば、今と全く違う幸福な現在があったはずなのに、それは全く失われてしまったのです。

 

  かくあったはずの未来とありのままの今を比べては、あなたと西野さんに責任をかぶせて心のはけ口にしていたのだと思います。そして、柏木さんに悠太の代わりにあの家に住んでもらい、淋しさを紛らわし、あの子の死を認めたくないと思い続けていました。

 

  信一は、責任を感じて家を出ました。そのことは親であるわたしたちには淋しさをよりかきたてるものでした。養子であるあの子は、本来いるべきでない自分が、いるべき悠太を、行かなくてもいい山に連れていったためだと悔やむことしきりでした。わたしたちには、あの子が未だに養子であることを意識していたこともショックでした。

 

  神様が用意したのかもしれませんが、悠太のあなたあての手紙がみつかりました。柏木さんが引っ越しの整理をしていて偶然みつけたのです。わたしたちは、これをあなたにお届けし、あなたの幸せが悠太にとっても、一番なのだということをお伝えしようと思います。止まってしまった悠太の時間、あなたの時間、あなたと西野さんの時間、信一の時間、わたしたち皆の時間を動かす時が来たのだと思います。

 

 西野さんとお幸せに。そして、お二人が悠太の思い出をいつまでも大事にして下さることを、わたしたちは知っています。悠太の見なかった人生の数々の舞台を、どうぞ手をとりあって踏みしめていって下さい。それこそが、悠太の望んでいたことでした。そして、わたしたちも、今では心からそれを望んでいます。

 

敬具

 

 柏木は自分の役回りの崇高さに、自身心を打たれながら玲子に言った。

 

「今年の命日には是非いらして下さいと、おしゃってました。くれぐれもこのことをよろしくと、ぼくに頼まれたのです」

 

  麻美が美しい涙に輝いた瞳を向けて行った。

 

「明日が命日なのよ。あなたがこの街を出て行く日が」

 

   二人の間には、いろんなものが行き来した。

 

「必ず伺いますって、お伝え下さい」

 

玲子が言った。そして柏木は立ち上がった。

 

  玄関まで麻美は柏木を送った。

 

「今日はご苦労様でした。ありがとうって、心からお礼を言うね。お姉さんはようやく吹っ切れたと思うわ」

 

「どのみち、西野さへ持ちこたえられたら、いつかは解決したと思う。おれじゃなくて別の奴があそこに住んでたらもっと早く手紙は見つかったかもしれないしね。最後はこうなるようになってたのさ。でもあの手紙はわざと隠してたような気もする。とすると死ぬ気だったのかと思ったりするけど、わからないね」

 

  麻美は首を横に振って、柏木の首に腕を巻きつけ、キスした。

 

 

 

 
 

  耳元で

 

「 好きよ」

 

と言った。

 

  柏木は微笑んだ。

 

「敬子よりお前に先に会ってたら・・・・・・」

 

「そこまででいい・・・・・・知ってるから。わたしは、彼とは別れられるけどね。あなたは敬子さんのことも好きだもんね。わたし以上じゃなくて、わたしくらいね。だから順番の問題なんでしょう」

 

「最後の最後につらいこと聞くなよ」

 

「わたし、明日は見送りに行かないから。ここでお別れするね」

 

 柏木はもう一度、麻美を抱きしめた。この時間がいつまでも続けばいいとさえ思った。

 

柏木は、敬子が自分の原点なのだと自分に言い聞かせて、麻美から体を離した。そして玄関のドアを開けた。

 

二人は微笑んで手を振って別れた。門の脇のカンナの黄色が、鮮やかに、麻美の最後の思い出となって、柏木の脳裏に刻み込まれた。

 

 

 

  四度目の命日には、来るべき人は皆来た。玲子と西野、兄の信一も果樹園に戻った。

 

 そこには悠太の喪失だけがあった。それが引き起こした混乱は収まり、すっぽりと、一人の人間が失われたという事実だけが残った。その底なしの穴に、今や誰も絡めとられることなく、それぞれの場所に足をしっかりとつけて、穴の存在そのものを大事に出来るようになっていた。

 

最後の挨拶のため、家主の家に行き、柏木も悠太の仏前で焼香をした。そして、外に出て車を車庫から出した。

 

  信一に車庫のシャッター開閉用リモコンを渡す。

 

「礼を言いますよ。おれがしなきゃならないことをあなたはやってくれた」

 

「そんなことはないですよ。あなたはやっぱり、出て行ってなきゃならない人だった。あのお爺さんなんて、あなたに救われたようなものですよね」

 

「あの人に救われたのはおれのほうです。あなたが言うのは結果論です」

 

「そうじゃないと思う」

 

 目だけで笑って。信一は素早く礼をして家に戻った。

 

  西野が少し言いにくそうに、しかしはっきりと口にした。

 

「保釈してもらった。おまえの会社からの入院給付金が、そのまま保釈金になった。爺さんが今更拘留しても一緒だと、警察署長に掛け合ってくれた。二人は友達なんだよ。おれはしばらく入ってるつもりだったけど、おまえもいなくなるし、みんなの新出発に、おれがいなきゃ片手落ちだって、爺さんが言ってくれたんだ。今になってみればつまらないこだわりだった」

 

「まあ、最後に会えてよかったよ。でも、不思議な巡り合わせだった」

 

「淋しくなるな」

 

「あのな西野、おれは想像するんだけど、きっと信一さんが毎日お前の店に行くようになって、麻美を抱くようになる」

 

 

 

  西野の口元に微笑みが浮かび、何度も小刻みに肯いた。

 

「それは、何かこう、過去を取り戻していくような、過去をやり直すような・・・・・・そんな未来のあり方だな。でも、未来は取り戻していくものじゃなくて、やっぱり離れていくものなんだよ。別のものが現れて、全く違う形のしっかりした時間が・・・・・・始まるんだと思うよ。」

 

  柏木も口元に微笑みを浮かべて大きく一度肯いた。

 

  柏木は敬子に向かって車を出した。元々望んだことなのに、この地を離れることの名残の方が、敬子の存在より大きかった。

 

  後に残った西野は、仏前の皆のところへ大きく何度も肯きながら、戻って行った。

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