【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

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連載小説「あの夏の向こうに」第11話  by古荘 英雄

 

小説と詩の創作と文学エセー

 
 

柏木と麻美が《校舎》に入った時、カウンターには信一がいて、何やら西野と深刻そうに話していた。

 

  柏木は近寄りがたい雰囲気を感じて、いつものカウンターの席には着かなかった。代わりに、プラトン全集の並ぶソファーセットにと深々と座って煙草に火を点けた。

 

 

 

 

 

「アイスミルクティーか?」

 

と西野が尋ねると相づちを打った。

 

「麻美ちゃんも?」

 

西野は玲子の面影がうっすらと映る麻美の顔を凝視した。それでも、麻美には自然体で返せた。

 

「はい」

 

  西野がテーブルに運んで行くと

 

「ちょっと用事があるんだけど、まだ話しが続きそうなら出直すよ」

 

と低い声で言う。

 

  西野はもう終わっている、と大声で言葉を返し、そのことで、カウンターの信一にもう帰れ、と暗に仄めかしていた。

 

 

 

 

 

  天井から鳴る古いジャズの音楽は、信一のためであり、それも別のCDに代えた。柏木用のモーツァルトが異なった印象を店内に作り出す。

 

  信一は素早く小さく頭を下げて、店から出て行った。出がけに西野の肩を三度叩いた。

 

柏木はプラトン全集から一冊取り出したが、本は読まずに高い天井を見上げた。スピーカーが、くり貫かれた四隅の穴の中に設置され、細いピアノの線が何本か張られ、それにブリキの飛行機やロボットがいくつか釣り下げられていた。

 

  信一を見送った西野がカウンターの中に入った。

 

 

 

 

 

 

  西野は来るべきものがやっと来たかと、という思いで今度は自分のために古いポップスをかけた。

 

  あの老漁師を車で跳ねたのは個人的には天啓だった。それをほったらかして逃げて、誰にも見つかっていない状態は、生活に大きな楔を打ち込んだようなものだった。死んでいたら、とっくに自首しただろうかと、考えたこともあるが、おそらく同じ事だろうと思った。いつかは自分の所にたどり着き自分は逮捕されるだろうが、今はそれまでの暫定的な生活をおくる、そのことが西野を現在に引き入れ、奥深く今この瞬間に閉じ込め、そこから永遠にまでたどり着けそうな気がした。

 

 

 

 

 

 

 

  あの夜、自転車で帰宅途中の老漁師を跳ねたあと、ライトを消して車を走らせた。このまま何かにぶつかって、親友のもとへ行ったってかまわないというやけを起こしたのだが、それはまた何か神懸かり的な、研ぎ澄まされた感覚を作り出した。

 

  最初夜道は真っ暗だと思った。闇の奥に向かってアクセルをふかす。その緊張と自暴自棄の感覚の組み合わせは、その時、久しぶりに退屈を紛らしてくれたのであった。やがて、街灯が道路をかすかに照らす国道に来て、そこから、半島の根本の入り江で車を止めて、頭と体を休めた。そして、このままこの状態をしばらくは続けようと決めたのであった。

 

 信一が事故を目撃していたとは夢にも思わなかった。

 

 

 

 

 

  柏木と麻美はカウンターに移った。

 

麻美はにこやかに挨拶した。

 

「こんにちは西野さん、ご無沙汰してます」

 

「麻美ちゃん!柏木と最後の最後にやって来たね」

 

「《校舎》ももう四年目ですね。うまくいってよかったですね」

 

「お姉さんは元気かい?」

 

「はい」

 

  西野は、音楽に没頭していた自分の世界から出てきて、ゆっくりと目を上げ、自分は本来はこんな風ではないが、今は取りあえずこの程度の笑顔だと言わんばかりの愛想で、麻美と応対した。そして、姉にそっくりの目元をした麻美の笑顔を前にして、玲子が笑ったのを最後に見たのはいつだったか、などと考えた。

 

  西野は二人のためにカクテルを作り出した。

 

 

 

 

 

 

「まだお昼よ」

 

シェーカーを振る西野に麻美が言うと

 

「おれの気持ちだ」

 

と言って二人分さっさと作ってしまった。西野は自分の分も作った。

 

「乾杯しょう。おれも麻美ちゃんも柏木に置き去りにされるんだ。こいつが出て行くことに。そして、はじめから柏木がいなかったかのように、以前の生活に戻るおれたちの人生に。乾杯」

 

「飲む前から酔ってるみたいだな、西野」

 

  三人はぐっとカクテルをあおった。アルコールがからだに広がるの楽しみながら、しばし無言でグラスを眺める。

 

 

 

 

 

  その沈黙は三人の胸の奥に水滴のように音もなく、しかし確実に落ちて行く。

 

 柏木はしかし、自分が出て行ったあとは、皆が最初から自分がいなかったものとして、元の生活に戻ることを知っていた。宮津がいなくなったあと、徹底的に人生が変わってしまったままなのと違って。

 

  麻美は柏木を改めてまじまじと見た。本当に柏木に会う前に、自分は戻るだろうか。東京にいる裕紀と、今まで以上に会うようになり、結婚まで最後の直線を一気に駆け抜けるだろうか。柏木は本当に裕紀と会わない時の、単なる退屈凌ぎで終わる存在だったろうか。

 

  いろいろな思いはあるが、転勤して出て行く男だから確かに後鎖はない、それは気持ちの面でもそうであったはずだし、だからこそ、いい遊び相手だったわけだ、ちょっと遣りすぎという気が強くするわけだが。

 

「実はね、西野。おれんとこの家主さんからお前当てに手紙を預かってきたんだ」

 

西野はさっさと手紙を開封した。器用に指先で封をきり、鮮やかに手紙をとりだした。いつもの西野らしい動作だ。十二枚の便箋の束が出て来た。

 

 

 

 

 

 

 

「読んでみるよ」

 

  ちょっと無理のあるせりふに感じた。

 

「いや、あとで読んでくれよ」

 

「一人で読むのはちょっと怖い気がするからさ」

 

  西野らしからぬセリフに柏木は驚いた。麻美は静かに頷いた。

 

  西野はCDを止めて、レコードプレーヤーを開いた。そしてレコードコレクションの中から古いロックを取り出してかけた。宮津が好きだったバンドだった。

 

  西野は音色の中で手紙を読み始めた。

 

  西野は、もう数え切れないほどに繰り返したことだが、宮津の最後のシーンを思い描いた。宮津の最後の手紙を読みながら、鮮明な画像となって頭の中をそれが過ぎって行く。

 

  あの兄弟は、山が好きで二人で夏山、冬山問わず登っていた、西野はまた思い出す。長くて二泊三日で帰って来るような軽いものが多かった。学生のころは兄の方は、本格的にあちこち登ったらしいが、卒業してからは、素人の弟を連れて、気晴らし程度の散歩代わりといった風だった。

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