小説と詩の創作と文学エセー
信一は水割りを飲み、煙草を吸っている。ママに水割りを作らせない。キープしたボトルに加えて、氷と水を前に置かせて自分で作るのだった。信一はまずストレートで少し飲む。それから氷を入れる。そして、氷が大分溶けた所で追加を入れる。さらに氷が溶けていき、一杯目の最後は自然に水割りになる。二杯目は最初から水割りを作る。かなり薄めに作る。二杯の水割りのどの段階で煙草に火をつけるについても、ある程度自分なりのルールがあった。
ママには、それが強い意志の表れのように見えた。
薄暗い店内で信一の吐き出す煙が、橙色のライトに照らされる。
「いつもそうやって飲むのね」
ママが話しかける。
信一は表情をほとんど変えない。
「あなたって・・・格好いい置物みたい、それか、一枚のしゃれた絵みたいよ」
「飾り物みたいなもんなんですよ、もともとおれは」
太く低い声だった。無骨に響かせているが、奥には柔らかいものもある。そして、自嘲気味ではあるが、それを見て自分で微笑んでいる強さを感じさせた。
信一は水割りに口もつけず、火のついた煙草を灰皿に置いたまま、その煙の中に何か遠いものを見ているようだった。
止みかけていた雨が強くなった。
ママが音楽を止めた。雨の音だけが響く。地面を叩く音。屋根を叩く音。軒からたれる音。道路にできた急造の細い水路を流れる音。そして遠くの方でかすかに聞こえる海に落ちる音。それは幻聴のようにかすかな遠い響きだった。
ママが再び音楽をかけると、時間が動き出した。
信一は立ち上がった。
信一が去って、ママは煙草に火を点けた。昔の懐かしいバラードがかかった。麻美は何だか物悲しくなった。でもそれは今日の別れ話とは関係のないところから来るものだった。
柏木が現れた。
柏木がママに挨拶しているのを見てると麻美は笑いたくなった。ママにも保険に入ってもらっているらしく、客に対する言葉使いだった。仕事中の柏木は借り物のように愛想がよくて、全然本当の雰囲気と違った。麻美のテーブルに来るまで、ママとちょっと長めの挨拶をする。客は麻美しかいない。やがて麻美のもとへ来る。
「待った?」
「最後まで時間通りね、私は三十分前に来たけど、あなたを待ってたんじゃなくて自分のために早く来たのよ」
柏木は麻美と向かい合わせに座った。込み上げる嬉しさが、無理に作る固い表情の端々から、ついつい零れ落ちるような、そんな幸せ一杯の表情で、ママにジントニックを注文した。
麻美は、わかっていることとはいえ、自分との別れ話をするのに、目の前でこんなに嬉しそうにされると少し腹がたって、ツンと澄まし顔になった。
ママは、さっき信一が帰ってからずっと昨日を歌う音楽をかけている。そういう曲を集めたCDを自分で作っていたのだった。
「転勤なの、かしちゃん」
それは麻美に正式に言ってからでないと、返事できないと言わんばかりに、柏木は二、三度手を横に振った。そいうことか、と、こくりと素早く肯いてジントニックを差し出す。
その柏木の動作にほんの少し自分への気づかいを感じて麻美は機嫌が直った。
少しだけ舐めて、ジンがからだに染み込むのを感じた。一次会の騒ぎを静める自分の酒だった。半分くらいを一気に飲んで、神妙な顔を作り上げて麻美に向かって、語り出す。
「やっぱり、転勤になったよ」
麻美に対して残念な結果になって申し訳ない、という雰囲気を作ろうと柏木は努力していたのであるが、嬉しさが全身からにじみ出ていて、表情も麻美から見れば喜んでいるように映る。麻美の方は、せっかくがんばってくれている柏木のために、この場の雰囲気作りに一役買って出ることにした。
下を向いて「そう」と静かに悲しそうに言う。
それを受けて、自分との別れを深刻に受け止める麻美をいとおしく感じて、柏木は明るく言う。
「この二年間、楽しかったよ。この町の何よりの思い出さ」
ちょっとだけいじめてやろうと思って
「もう、思い出なのね。目の前に私がいるうちから」
と言うと、柏木はしまったという風に口元を引き締めて、何か言おうとしたがそのせりふはやめた。そして、軽くため息を吐きながら穏やかすぎるくらいに言った。
「最初から、思い出の色をつけてつきあってたんだよな、きっと。それもお互いにさ」
そう言われるとその通りだった。そもそも最初から別れることが決まっている付き合いだったし、それを受け入れながら自分だって、彼氏が東京にいて、普段会えないので退屈しのぎに、特別なボーイフレンドだと思ってつきあってたのだ、お互い様だった。でもそんなことが二年も続いたので、愛着の塊になってしまったのも事実だった。
「麻美がいるのといないのとでは、全然違ってたよ。でもこの辺が引きどきでもあるよね。おまえも彼氏とそろそろ結婚したら?もう待つ必要も伸ばす必要もない年だと思うよ」
そう言いながら、最近の麻美は違うのだと柏木ははっきりと意識した。自分に対して、何か一線を越えた気持ちを持ってしまったような気がしていた。自分に対して本気になったような気がしてならなかった。
「あなたも敬子さんと結婚するの」
「そのつもりだけど…」
麻美は何かを飲み込んだ。自分でもよくわからない何かだった。
「ねえ、あなたが引っ越すまでは遊び友達でいましょう、あと二週間?十日?最後の余韻を味わいたいわ。今日で終わるのはちょっと淋しい、雨だし・・・・・・」
ママは深刻そうな二人をカウンターから眺めて、うっとりしていた。ああいう時期が自分にもあったが、もうああいう風にはなりようのない心の形を持ってしまったと思っていた。二人のために音楽を止めた。そしてあとはひたすらに雨の音が響き続けた。