【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

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連載小説「あの夏の向こうに」第6話  by古荘

 

小説と詩の創作と文学エセー

 

 

 
 

 やがて、大きな信号音がピーっと鳴る。それに続いて、印字の音さえ大きく感じながら、打ち出されつつある文字を凝視する。

 

 

 

    人事異動発令

 

 

 

  これで皆一気に静かになる。柏木の緊張もピークに達する。話し声はなくなり、次の文字を見ようとするまなざしの群れがある。

 

 

 

S支社

 

氏名           役職          新所属

 

畑野信吾       課長役二級     札幌支社内務課長 

 

 

 

 

柏木謙一郎     係長役一級     営業推進部係長

 

 

 

後任      役職           現所属

 

幸田雄二       課長補佐       保険金課補佐職

 

岸田信行       主任一級       横浜支社横浜第二支部支部

 

 

 

  四、五秒かけて印字され、スーと押し出されて来た。毎回のことではあるが、事の重大さと無機質な作業の落差には、しかし不思議な調和があり、その影響が大きければ大きいほど、単なる処理である方が好ましいものに思えた。

 

  柏木ははっきりと、この数年間の仕事のゴールを見た。そしてまた、この町での生活を丸ごと清算できる立場を得た。

 

 

 

「おめでとうございます」と皆から声をかけられた。畑野に対しても同様に祝福が与えられたが、それは儀礼的なものだった。横滑りと本当の栄転は違うと、その場にいる誰もが知っていた。青木は一番年齢の近い柏木の転勤が寂しいと言って来た。もう結婚しちまえよと声を掛ける。

 

  支社長に挨拶に行き、これまで世話になったと礼を言えば、二言三言言葉を交わした後、営業推進部長に電話をかけて、自分の部下がそちらで厄介になるのでよろしくと伝えてくれた。そして、表彰状やトロフィーがたくさん飾られた棚をバックに、ちょっと派手なネクタイをいじりながら、長身を前のめりにして柏木にゆっくりと告げる。

 

 それは、営業推進部での一、二年の仕事が認められれば、その後の会社でのポジションはずっと保証されるようなものだからがんばれという、メッセージだった。支社長自身、かつて営業推進部に行き、その後は明らかにキャリアの積み方が違ったという。

 

 その後で会社指定の引越し業者に電話して、とりあえずの挨拶と引越し日が決まり次第連絡する旨約束し、引越し用のダンボールの手配を依頼する。柏木は明日の午前中には自宅に届けてもらうことにした。

 

ここまで、転勤に伴う一連の流れだった。

 

  さらにそれは淀みなく続いて行く。

 

  生々しい第一回の送別会である。

 

 

 

 

 

 

  これから引っ越しまでには何種類もの送別会がある。まず正式な行事としてのものが二つ。支社の送別会と支部の送別会。それから、非公式だが必ずどこでもあるのが、支部長たちだけでの送別会、各支部の中心的な営業職員達を集めた支社の営業幹部会による送別会、そして今回予想されるのが、一番の得意先が催してくれる送別会、支部の三人のベテラン職員がみんなとは別に開いてくれる送別会、さらに、個人的に一対一でしんみりと語り合う送別会、などほとんど毎日のように酒を飲むことになるのだった。

 

  それでもこの、発表当日の送別会ほど臨場感のあるものはない。心が切り替わるまもなくいきなり飲みに行くのは楽しいことだった。

 

  動いたものも動かなかったものも、人事異動という一大イベントの直後の興奮の中、これまでのこととこれからのことを無遠慮にに語り合うのだった。柏木は、これまでのところ、いつもうまい酒を飲んで来たが今回の酒は格別だった。

 

 それでも二次会の誘いは頑なに断り、不満気な同僚たちに手を振って、柏木は麻美と約束したラ・メールに向かった。皆は、畑野課長を囲んで夜の町に消えて行った。

 

 雨がかなり強くなった。

 

 

 

  麻美が、柏木と初めて会ったバーは、海岸線沿いにあり、老漁師がかつて持っていた掘っ立て小屋の一つで、信一の住む小屋と道をはさんで対面にあった。気に食わない無礼な客の頭にブランデーをぶっ掛けて、銀座の店をやめた若いママが一人で切り盛りしていた。

 

最初と最後とをあの場所で締めるのかと、麻美はふとそんなことを思った。

 

 店には約束の三十分前に着いた。

 

 

 

 

 

 

  はじめて会った時は、買ったばかりのクリーム色の夏物のシャツを着て、それよりも濃い茶色のスカートを履いていた。同じ服にしようかとも思ったが、それでは未練があると思われるのもしゃくだったので、この夏買ったばかりの薄いグリーンのシャツと白のパンツにした。結構、いい感じになったので少し気分がよかった。

 

古びた木製のドアを開けると、客は一人だけで、ママがクラシック音楽をかけてグラスを拭きながら相手をしていた。チャイナドレス風の、薄地で黒のワンピースを着ていた。ちょっとびっくりする。

 

「いらっしゃい」

 

  女でもどきっとするほど愛想のいい笑顔だった。男だったらまいってしまうんだろうなと少しうらやましくもあったが、自分だってまんざらでもないかなもしれない、などと考えながら奥に入った。

 

「久しぶりね、今日は待ち合わせ?」

 

  それは二年前のことを基準に久しぶりと言ったのだろうかと、麻美は驚いた。一度だけふらっと立ち寄っただけなのに、商売柄とはいえ大変な芸だと思った。もっとも、柏木はこの店のなじみ客だったから、その関連で覚えているのかもしれなかった。

 

「あの時と同じカクテルにする?」

 

と言われて思わず「はい」と答えた。

 

 やはり、二年前の時を覚えているのだ。

 

  モスコミュールが素早く出てきた。

 

  ママはあまり話しかけてこない。麻美の表情が違うのだろうか、少なくともこういう店に女が一人で来ることは珍しいから、わけありだと気を使ってくれているのだろうか。

 

 

 

 麻美はカウンターの端、出入り口のドアのすぐ脇に、信一を見つけた。三年振りだった。信一はブルージーンズをはき、上はティーシャツに白のブルゾンを羽織っている。靴はバスケットシューズ。時計はありふれた日本製の物。髪は短く刈り込み、髭は丁寧に剃られていた。