【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

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連載小説「あの夏の向こうに」第8話  by古荘 英雄

 

小説と詩の創作と文学エセー

 

 

 
 

 翌朝、麻美が来るまでに家主への挨拶を済ませようと、柏木は部屋を出た。

 

家主の住む母屋までの二百メートルほどを、のんびりと歩いた。

 

  スーツ姿でネクタイも締めて、ズボンのポケットに手を入れて、柏木はその道をゆっくり進んだ。今日のネクタイは地味だが、いつもシャツとスーツに対して目立つようにするのを原則としていた。濃紺のスーツに白のワイシャツに濃紺のポロのネクタイを締めた。

 

  昨夜の雨が嘘のように晴れ渡っていた。葉に残った水滴が朝日に反射して、果樹園全体が荘厳に照り輝いているようにさえ見えた。何かが再生されて、新世界が始まるかのような雰囲気だった。柏木の気持ちが、まさにそのまま外に現れたような朝だった。

 

 

 

 

 

 

  玄関前に来てチャイムを押す。やや間を置いて廊下を歩く音が外にも聞こえて来る。やがて足音は止まり、サンダルのかんらかんらという音が、四、五歩分鳴り響き、がらがらと玄関の引き戸が開いた。

 

「あらお珍しい、おはようございます」

 

  初老の奥さんが愛想よく迎えてくれる。さっぱりした普段着だった。老人特有のいでたちに対するあきらめはなく、かといって無意味に派手でもなかった。そして柏木はこの人の笑顔にはいつも気分をほだされる。あの不幸はなかったかのように、心の底の方からやって来る大きく深い微笑みだった。家主夫婦と月に一度食事を共にするときも、気持ちよく過ごせた。

 

「今日はここで失礼します。実はご報告があって参りました。会社から不動産会社を通じて正式に連絡はありますが、今月末で引っ越すことになりました。長い間、一方ならぬお世話になり、本当にありがとうございました」

 

  大方そんなことでもあったんだろうという顔つきで、奥さんはにこやかに言葉を返して来た。

 

「それは淋しくなりますね。でも東京にお戻りになるので?そうですか。おめでとうございます。この三年間、私たちがどれだけ救われたか、柏木さんには感謝してもしきれません」

 

  何度もそうですかと、感慨深げに頷きながら

 

「今日は主人は出かけて留守にしていますのでお引越しまでには、ぜひまた食事にいらしゃって下さい。月に一回おこしいただくのを条件にさせていただきましたが、今月はお引越しだから、何度でもご一緒したいですね」

 

  柏木は今別れの時になって自覚するのだが、しょせん自分はこの家の客でしかなく、結局はこの人たちの波長に合わせることはできなかった。毎月招待される食事にも、短期間のうちに出て行く気楽さから、鷹揚に振る舞えただけであり、この人たちと本気で付き合って行ける度量など本当はないのだと、きらめく果樹園を眺めながら反芻した。そして、麻美のことも同様であり、敬子との関係にあまり気楽さがないのは逃げられないからだ、などと思いを巡らしたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

  柏木は部屋の掃除を始めた。

 

引越しというものは新しい土地で荷物を開けるのは楽しいが、今までの生活をたたむのは退屈な作業だと、昨夜、そんなことを麻美に話していたら、麻美は部屋にももう一度行きたいし、手伝うと言ってくれた。

 

二人とも、一緒に片づけるのが最後の儀式にふさわしいと感じもした。

 

  広いリビングには、カウンターキッチンにくっつけて、大きな食卓がどんと置かれていた。かなり低いテーブルであり、一緒に買った木の椅子二つと、その向かい側にはソファーを置いてあって、食事とくつろぎと両方を兼ねたコーナーだった。

 

  南側の壁にはテレビとビデオと、ステレオがあった。スピーカーは四つあった。テレビとほぼ同じ高さのものが壁の端と天井の下に板を打ちつけてその上に乗っている。柏木はクラシックとジャズが好きで、あまりポップス系の歌は聴かない。麻美は柏木と一緒の時は、柏木の流儀に合わせた。

 

  一階の整理と言ってもほとんど何もすることがない。家具と電化製品を運び出すだけだから事前にすることは、冷蔵庫の中身の整理と食器の梱包、あとは当日運び出すだけだった。

 

「このテーブルは持っていけないと思うよ。東京じゃあ会社の寮に入るから、六畳の部屋だけだから」

 

そんな柏木の一言も、さりげなく麻美を淋しくさせる。

 

  二階に上がると、十畳の部屋はここもがらんとしている。北側の壁にシングルベッドがちょこんとという感じで置いてあって、麻美はこのベッドでの出来事を走馬灯のように思い出した。その脇の小さなの棚の上にラジカセがある。終わったあとに柏木のかける古いジャズのバラードが、いつも切なくさせたものだった。南側の壁一面に大きな本箱を二つ並べ、ぎっしり本が詰まっていた。手前に、東側のバルコニーの、サッシと本箱の間の壁に机を置いて、そこでは時々仕事もしてた。

 

 その他、ベッドのそばに昔から使っている衣装棚が二つある。学生時代からのと、就職してスーツ用に買ったのとである。隣に六畳の部屋があり、壁が二面クローゼットになっているがそこは全く使わず、なじみの家具を手元に置き続けている。

 

  その六畳の部屋は、西側と北側の壁一面がクローゼットになっていた。床の方は端から端まで、三段の引き出しが五つに区分けされて続いている。その上は同じ高さにバーが通っている。これは二人分の服の収納のために用意されたものであり、この部屋に立ち入ることはめったになく、このクローゼットは、開けたことがなかった。

 

「ここも本と服をダンボールに詰めたら終わりだな」

 

「この本ってね、ここに越してきてダンボール開けて本棚に並べて、今度またダンボールに詰めるまでに、一回も読まないものもあるの、やっぱり?」

 

「うん、でもね、読まなくても取り出してどこかのページは眺めるな、取り出しもしないものは全体の三分の一くらいだよ」

 

「そんなにあるの」

 

  二人は二階から作業を始めた。本をダンボールに詰める。それは、三十分で終わった。二人とも手に取った本をいちいちぱらぱらとめくったりしながらだったから、余計に時間がかかった。二人でやると作業そのものは一人づつの孤独なものでも、何となく相手と同調するリズムのようなものがあって、一人きりの場合とは全く違うのだった。

 

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