【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

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自作の小説:「1987年7月7日のスケジュール」  第2話

創作 詩と小説 文学随筆とエセー

 

サッシを開けて、空気を入れ替える。空気は生暖かく、湿気でじとじとしていてが、角部屋の私の部屋は結構風の通りは良く、どうにか凌げるのだった。雨音はかなり響く。この季節には涼やかな音色とはとても言えず、逆に鬱陶しさがぎりぎりのところで押さえられているといったところだ。

 

たいていは意味のないチラシだった。家を買おうとか、車を買おうとか、どこからともなく余計なお世話が山のようにやって来る。

 

大きな郵便物をまず開ける。大学のサークルから来た文集だった。

 

新入生が入って、二ヶ月くらいしてから、毎年文集を出す。

 

もうそんな季節かと思った。大学三年の時はわたしが編集委員長だった。ワンダーフォーゲル部から独立したサークルで、週末にあちこち、主として関東から東北をほっつき歩き、夏には北海道を二週間ほど放浪する。そんな旅の一つ一つの随想と、サークルの運営についての論文と、旅全体、このサークルで旅をすることそのものについての文章を掲載する。

 

大学の四年の時にはすっかり下らない読み物になった。

 

私が編集していた時は、最後の一線を守っていた。旅にまつわることしか乗せなかった。私はその原則を破ると、頭の中の糸が切れてしまうことを知っていた。いろいろな議論があったが、あくまでワンダーフォーゲル的なサークルなのだから旅に限る、と反対者たちを押し切った。

 

次の編集委員たちから、自由こそサークルの根本思想だと、あっさりと何でも書いてよいことになって、幼年時代に喘息で病院に通い続けた話だとか、運動会でアンカーをやってゴール直前で抜かれて泣いた話だとか、部員の女の子へのラブレターまがいの文章、自分の一ヶ月の家計簿、など部員と言う名目で集まった人間にまつわることが何でも載っていた。

 

ぱらぱらと一応めくった。そのまま捨てるつもりだったが、目に付く文章があった。

 

『北を飛べば軍団が見える。

 

凍てつく大地に生まれ、動き回ることが血や涙を凍らせぬために不可欠な彼ら。

 

頻繁に南下を繰り返し、微風が草原のあちらこちらに咲く花をやさしく撫でる時、あたかもそこがはじめから自分たちの土地であったかのように奪い取り、それは自然の摂理だとさえ考え、世界には自分たち兵士しか確固として存在するものはないと信じている、いやそもそもそれが考え方のすべてであって、他に抽象概念など持っていなくて、彼らの体内には渡り鳥の進路を定めたものと同じ力だけが作用していた。

 

南を飛べば大洋の中に輝く島。

 

夜空に散りばめられた星々は島を讃え、波音が止むことはなく、紺碧の空が海を覆い、多くの船が大洋に向かっていく。星のように島々が海流の中に輝く。

 

そこでは人は花のように、あたかも光合成をして昼寝をしているかのように、一生を送る。最後は枯れて地に戻り、大地に溶け込み、海に流される。』

 

 

 

 

 

 

 

昔、理恵が書いたものの転用だった。この後にいろいろ能書きがあったが、この文章に絡む出来事を思い出して、もう文集そのものはどうでもよくなった。

 

理恵は、この文章の中の、北方の兵士のような女だった。が、心から南の島にあこがれていた。私は南の島の住人だったが、北方での冒険を夢見た。二人は出発点で共に過ごした。しかし、そのまますれ違う運命だった。北と南へ。

 

理恵は目標を定めて、それに向かって自分自身を駆り立てていた。目標のために精進することを忘れず、目標の引力に引っ張られてどこまでも行きそうだった。週末はバイトをして平日は目いっぱい勉強して、本当に忙しそうだった。いつもユングを原語で読んでいて、それぞれの著作の読み終える期限も定めていて、そのためにはいつまでにはどこまでを読む、というようなことまで手帳に書いていた。

 

理恵は児童心理学を学んで、青年海外協力隊に入り、アフリカや南米やアジアの子ども達の教育のために働きたいと言う。それも身を粉にして働きたいと。私は理恵が北へ戻るのだなと感じたものだった。私たちのサークルに所属していたのも、将来の、発展途上国でのキャンプ生活や、過酷な生活のための訓練と位置づけていたようだった。

 

北と南の文章は私への明確なメッセージだった。北と南の本質的違いを乗り越えて二人は共に歩んで行こうと、理恵は語っていたのだ。自分たちは相互に補完できる間柄だ、つまり逆向きの半円同士、一緒になれば完全な円になるのだ、そういうことだった。

 

しかし、当時私は理恵ほどはっきりと自分というものを打ち出して、行動することができなかった。私は南側の人間なのだ。微風に揺れる草の葉のような人間だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

文集の次にははがきを手に取った。

 

結婚式の二次会の案内状だった。ピアノの絵が葉書中央にあり、それを、何人かの笑顔が囲んでいる。一人一人、台詞があって、祝福しょうとか、是非参加をとか、音楽バーで行なう珍しいパーティーだからあなた自身の思い出にもなりますよとか、カラーできれいに印刷されていた。

 

理恵が結婚するのだった。意義あるアクションをおこしたい理恵は、式が終わるとパートナーとアフリカの難民キャンプへ出発するという。私は何か反感を覚えた。アフリカなどやめて新婚旅行に行き、夜空に散りばめられた星々が島を讃える南の海で、寝転んで来る方が人間的だと思った。

 

はがきを置き、昔のアルバムを取り出して今より少しだけ若い理恵をしばらく眺めた。

 

七月七日の午後六時からとある。これが理恵の見納めだと思って、出席に○をしようとしたが、戸北の送別会も七日だと思い出した。戸北は南の島だと刺激が少なく、北へ行けばしり込みするという最悪の奴だ。もっともそれこそ本当の人間かもしれないとも思った。

 

理恵の方に出席したかったが、すでに同期会に返事を出してしまったので、ちょっと迷ってしまった。

 

そろそろ風呂に湯が貯まる頃だと見に行った。

 

もう少し時間がかかりそうだったので、その間に最低限の食べ物を口にする。平日の夕食は簡素だ。ビールでおにぎり二個を流し込み、生野菜を齧る。納豆をそのままで食べる。ビールは一日350mlを一缶と決めている。それだけだ。栄養とスピードと満腹度を得られれば途中経過はどうでもよかった。食事を楽しむのは週末と決めていた。貪り食べて五分とかからなかった。そして、湯船に浸かる。以外と体が冷えていたことがわかる。

 

風呂の中でうつらうつらしながら、回想に沈む。

 

理恵がいた時代・・・・・・。

 

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