【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

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1987年7月7日のスケジュール  第三話以降全編

創作 詩と小説 文学エセーと随筆

 

そろそろ風呂に湯が貯まる頃だと上がった。

もう少し時間がかかりそうだったので、その間に最低限の食べ物を口にする。平日の夕食は簡素だ。ビールでおにぎり二個を流し込み、生野菜を齧る。納豆をそのままで食べる。ビールは一日350mlを一缶と決めている。それだけだ。栄養とスピードと満腹度を得られれば途中経過はどうでもよかった。食事を楽しむのは週末と決めていた。貪り食べて五分とかからなかった。そして、湯船に浸かる。以外と体が冷えていたことがわかる。

 

風呂の中でうつらうつらしながら、回想に沈む。

 

理恵がいた時代・・・・・・。

 

風呂から出てトマトジュースを飲む。もう一つの大きな郵便物を開ける。

 

A4版の封筒から雑誌を引き抜くと、カードがはらりと落ちた。

 

また案内状かと拾ってみると案の定で

 

『金沢さんの写真を見てたら、なつかしくなったので同窓会を開きます、同じく懐かしくなった人は是非参加して下さい』と高田の懐かしい筆跡。

 

中学二年の同級生だった。東京にいるクラスメートに発信しました、と締めくくっている。あいつも東京にいたのかと、不思議に思った。商業高校に行き、その後は実家のガラス屋で働いているとばかり思っていたが、住所は某大手ガラス会社の独身寮になっている。ということは修行中か、と納得したが、でもどうやってクラスメートの現住所を調べたのだろう、中二の時の住所録を未だに保存していて、実家に電話をかけて東京にいる者たちの住所を聞いたのだろうか。他に方法は考えられらないが、暇な奴だなとあきれた。

 

高田が懐かしくなったという写真を見ようと雑誌をめくった。そのページには折り目がついていた。確かに懐かしく感じる。

 

御茶ノ水女子大の、学際運営委員会の委員長として紹介されている金沢正子は、中学の時から生徒会の活動が好きだったし、演説もうまかった。彼女はあの頃、男子生徒の憧れの的だった。何でもできて、話しが面白くて明るくて、そして何よりチャーミングだった。

 

現在は、大手自動車メーカーに就職して人事部で忙しい毎日を送っていると記事には紹介されていた。

 

「あの人は今 本誌掲載女子大生のその後」という実に下らないタイトルだった。

 

私は「女」を目的にした男性雑誌は買わない。部屋でそれを眺めている自分、というシチュエーションが許せないのだ。手に取ろうとすると頭の中に糸のイメージが現れるのだ。本屋でぱらぱらめくることはあるが、それ以上は糸が切れてしまう。

 

雨脚がかなり強くなって、、ざあざあという音がはっきり聞こえる。

 

金沢正子と出会った頃。それは私にとっては、早朝に武者小路実篤を読んだ時代だ。

 

あの頃住んでいたマンションの脇に、森のような緑の広がりがあり、机に座って窓を開けるとそれが良く見えた。

 

朝日を浴びて輝く新緑の輝きに心を洗われながら、午前五時に武者小路実篤の小説と詩とエッセーを読み進めて行った。

 

そして、その晴れがましい世界から中学校へ出発した。

 

なだらかな坂道をずっと下る。通学路はほとんどずっと街路樹が道を飾り、春は桜が美しく彩り、その後の五月は、緑の影が道に揺らめいていた。そして、学校へ最後のカーブを曲がると海がはっきりと見下ろせて、午前の輝きにきらめき、その景色に向かって十五分ほど下って行く。

 

これらの空気に触れながら、私の心は金沢正子に向かって進んでいった。

 

学校では、実物の金沢正子の笑顔を見てポーとなっていた。

 

あの頃は結局のところ、もっぱら恋愛小説家としての武者小路にほれ込んでいたのだと今は思う

 

金沢正子と同じ名前の主人公の登場する小説を何度も読み、自分の中に純化された彼女の幻想を作り上げたかっただけなのだ。

 

そんな彼女の写真がいきなり現れ私はただただ微笑んであの頃を思い出す。

 

中学三年生になってクラスが別れ、気持ちは自然消滅した。時を同じくして武者小路実篤の死亡記事を、新聞から切り抜き、奥さんとわずかの時間差で死んだことを面白おかしく書き立てる週刊誌に目を通した後、私自身の理想主義の時代は終わった。

 

武者小路実篤から受けた影響には結局のところ受け入れられないのもあり、それを紛らすためと初恋の照れくささを消し去るために、私はモーパッサンに熱中した。午前五時の読書は『べラミ』や『死の如く強し』や『ピエールとジャン』やモーパッサンの短編集になった。『女の一生』は好きになれなかった。

 

雑誌を眺めながらトマトジュースの二杯目を飲む。

 

あまりにも遠く懐かしく、金沢正子という人に再会するのは、自分の歴史の確認作業のような気もして、出席に○をして鞄に入れた。七月七日の午後六時からだった。

 

すでに戸北と理恵の予定を記入した手帳を見た。三つ目の予定も入れた。理恵の二次会と金沢正子を囲んでの同窓会では同窓会の方が魅力的だった。

 

 

 

 

 

帰宅直後のほっとした雰囲気が終わり、食事が終わり、風呂上りのリラックスの時間が終わると、ぽっかりと自分だけの時間が残る。今や自分しかいない。自分という感覚が、たゆみなく働きかけてくる。目を閉じれば自分が雨になって降り注いでくる。そんな時間帯だった。

 

電話が鳴る。

 

 

 

受話器を見る。かつて暖かな頼りがいのある装置であった頃。その向こうから聞こえた声の数々。

 

大学時代のアパートにはガスストーブを置いていた。六畳と三畳ほどのキッチンがあった部屋はそれだけでよく温まった。しかし、雪が深々と音をたてて積もる夜、誰かと話がしたいとよく思った。理恵との半年間の中断の頃、啓子は格好の話し相手だったし、そのまま啓子と寒い夜を朝まで過ごしてもいいと私は思っていた。

 

理恵がなぜ自分と別れたのだろうかと、能天気な話題に啓子はよくつきあってくれた。

 

啓子と電話で話すたびに、服装を尋ねた。Tシャツとショートパンツの時は彼女の部屋とその姿がまぶたに浮かぶようであり、日曜の夜などは今帰ったばかりという時も頻繁にあり、ブーツにグレイのミニスカートに黒のセーターに茶色のコートでキャンパスを歩いていた啓子を思い出した。だが、ジーンズにトレーナーと言うのが一般的な彼女の部屋着であったようだ。今はその彼女からの電話は来ない。死んでしまった受話器。電話機が暖房であった頃から離れて久しい。

 

電話機は就職してすぐに買ったプッシュフォンだ。学生時代は黒のダイヤル式の電話であれがスタンダードだった。それに緑色のカバーをつけて自分なりの個性を出したつもりだったが、人民服にアクセサリーをつけるようなものだった。

 

 

 

「こんばんは。三上です」

 

信じ難い電話。これは返事だが、肯定的な返事であって、そもそもこのことに関して否定的な返事が電話で来るわけはなかった。

 

修行中のわたしは毎日、支社の出納がしまると、銀行に五百万円から一千万円くらいの現金を運んでいた。

 

一時過ぎの気だるい時間帯、気晴らしも兼ねてアタッシュケースを片手に銀行へ向かう。オフィス街はコンクリートだらけで、時々パン屋と喫茶店がビルに混じっておしゃれな看板を出していたが、町全体の雰囲気には影響を与えない。駅前にはアーケード街があり、そこに入ると銀行がいくつか軒を並べていた。

 

銀行に入ると、広い店内には地元の中小企業の人たちがたくさんいた。彼らに対しては銀行は丁重だったが、私たちのような支店相手には結構ぞんざいな態度だった。

 

しかし、私の窓口にはいつも愛想の良い女の子がいた。

 

まずは会社の女の子に頼んでいろいろ聞いてきたもらった。こちらが関心があるということをわかってもらうだけでも一定の効果があるというものだ。情報も仕入れることができたのはもちろんだが、まさにその点に関して大成功だった。会社の女の子の話では、先輩の行員も出てきて、銀行の窓口で少し話しが盛り上がって、それはいつも現金を持ってくるあの若い人でしょう、あなたおつきあいしてみたら、というような会話になっていたらしい。

 

 

 

彼女の名は、三上由布子。あだ名は鬼年。色がかなり黒く、それは漁師だった先祖たちから受け継いだ肌の遺産。海と太陽が刻み込まれたDNA。しかし、その肌の上の表情はまろやかで、ドキッとするくらいにかわいく、窓口でアタッシュケースを開けて、現金を渡すまでの間、首を傾げてにこにこ笑って「良い天気ですね」とか「お忙しいですか」とか声をかけてくれる。わずかそれだけの接触の積み重ねで、大まかにつかみうるところの、彼女の人となりが、私の中では形を整え、私はこの子となら、つきあってみたいと思うようになった。

 

そして、会社の女の子からいろいろと聞いたあと、銀行の窓口で彼女が少し照れていたのを見た翌日、現金と一緒に手紙を渡した。

 

映画でも見て、食事をしませんか。場所はこちらで見つけておきます。よかったら返事を下さい。手紙でも電話でも。できれば、断る時は手紙でOKのときは電話してくれたらそのまま待ち合わせ場所とか打ち合わせられるので便利だと思います。そういう内容だった。

 

この話自体、だめもとでかまわなくて、まあようするに暇つぶしのプラスアルファの行動だったのだが、今やわたしは三上由布子からの電話を受けているのであった。

 

「手紙、嬉しかったです」

 

 何かこう春のどやかな広がりが、頭の中に広がっていくようで、あとはふわふわとした雲の上を歩くかのように、映画と夕食の約束が成立して、満足して受話器を置いた。

 

電話機の新しい歴史の始まり。これから数限りなくこの赤いプッシュフォンは鳴ることになる。

 

七月七日のデート。戸北の送別会はとうに脱落していて、理恵の結婚式の二次会も金沢正子の前に、影が薄くなった。しかし過去に向かっていた心の基調が一転未来へ向かった。比較のしようがない用事ができて、手帖には赤文字で三上由布子と大きく書いた。

 

気分のいいまま寝ようかとベッドに横になったが、なにやら興奮気味であって、寝酒にウィスキーを用意して、自分とだけ話していては興奮が冷めないので、テレビをつける。  

 

 

 

 

 

夜はニュース番組しか見ない。ドラマや映画やバラエティ番組を平日は見ない。見ようとすると、頭の中に糸のイメージが現れる。これも私のルールだった。

 

ニュースが流れる。

 

「川越恵子さんが亡くなりました。二十三歳でした。恵子さんは中学二年生の時に肺の病気にかかり、アメリカに渡りドナー待ちをしました。半年後、移植手術に成功。一命を取り留め、数年間にわたり、経過は良好でしたが、ここ二年、急激に症状が悪化し、残念ながら帰らぬ人になりました。

 

国内の臓器移植のあり方、脳死判定のあり方、移植後の医療のあり方、海外で臓器移植をすることの是非、多くの問題がわたしたちに宿題として残されました」

 

そいうことを、解説者が雄弁に語っている。関係者一同深い悲しみとショックを受けています。とアナウンサーがてきぱきと締め括った。

 

 

 

わたしは衝撃を受けた。

 

高校一年生の時のクラスメートだった。病院の一人娘であり、医者になるのだと言っていた。実際頭がよかった。試験の時に見せるまなざしは怖いくらいだった。私は、しょっちゅう盗み見していた。

 

彼女の移植については噂でしか聞いたことがなかった。私の記憶には元気な姿しかない。

 

移植後、興味のなかった水泳を始めたという。泳ぎたくてたまらなくなったのだそうだ。ドナーが生きていた頃、泳ぐことが大好きだったそうだ。

 

他人の肺。他人のDNAが体内に混ざるとはどのような現象だろうか。

 

それは脳の不随意をつかさどる奥底に、どんな影響を与えるのだろう。筋肉の伸縮でさえ自然に行なわれるのではなく、脳が全面的に管理しているという。まして呼吸ともなれば肺が勝手に行なうのではなく、脳の命令で肺が動くのだ。

 

脳は新しい肺からのあらゆる情報に驚愕するだろう。

 

他人ではないか!他人がいる!自分ではない!

 

別のDNAがそこにあり、脳との膨大な情報の行き来は、ぎごちないに違いない。肺もまた、新しい管理者に慣れることはないのではないか。それを構成する細胞、そこで死に生まれる細胞の営みすべてが、他人なのである。

 

そのことは、延髄や間脳に直接的ショックを与え、それは小脳や大脳にも浸透してくる。

 

言葉や意識の及ばぬ奥底の情報のやり取りはやがて、呼吸のたびに他人を認めることに疲れ果て、大きなストレスとなって、ついに意識下で耐えられぬ負担となる。そして、彼女は死んだのだ。

 

彼女は生まれた時から、歌が好きだった。高校の学際の時に、二人で演奏した。彼女がピアノ、わたしがギター。当時のわたしはギターを弾くことと、詩を読むことが好きだった。武者小路とモーパッサンの後の時代だった。

 

ボードレールランボーを翻訳で読み、シェリーの『雲』は英語で暗誦するほど熱中した。ロックグループイエスのギタリスト、スティーブ・ハウピンクフロイドのギタリスト、デヴィッド・ギルモア、レッドツェッペリンジミー・ペイジ、この辺の演奏がわたしは好きだったが、中でもスティーブ・ハウのアコースティックの演奏には熱中した。

 

学際のコンサートの抽選会に参加するために、わたしはヴォーカリストを探していた。クラシックの声楽を学んでいた恵子はうってつけだった。ジョンアンダーソン(イエスのヴォーカリスト)の高音を出せるのは私の高校で彼女だけではないかとさえ思えた。

 

彼女は興味深く、かつ快くわたしの申し出を受けてくれた。そして、ピアノのある彼女の家で練習することになった。

 

大病を患った一人娘のための部屋は、十二畳くらいの洋間にグランドピアノが置かれ、高そうなコンポと二百枚くらいありそうなレコードコレクションが目を引き、加えて壁一面を隠す立派な輸入家具の本棚にびっしり本が並べられていた。この本を全部同い年の女の子が読んだのかと、驚いたものだ。その多くは死と病気を克服するためのものだった。

 

しかし私には、部屋の角の小学校時代から使っているというごく普通の机が、恵子の本当の人間性を表しているように見えた。

 

恵子の部屋で音あわせからはじめて、適当にいろいろ二人でアレンジしながら、ピアノとギターを演奏した。たいていは、私が自由に弾き、恵子がそれに併せてピアノをかぶせてくれた。ボーカリストとしての恵子と組みたかったのだが、ピアノ奏者としても卓越していた。ラッキーだったと思いながら、やりたい曲を恵子に説明した。

 

私としては、イエスの曲だけでいきたかったが、こんな歌ばかりでは予選落ちするだけよと言われて、二人で選曲にはずいぶん議論した。

 

そして中島みゆきの『時代』とロッドスチュワートの『セイリング』、イエスの『世紀の曲がり角』。パーカッションはないので、自分たちでギターとピアノでアレンジした。

 

練習のために全部で十回、恵子の部屋を訪れた。真剣なまなざしと笑顔とが私のやる気を支え続けてくれた。

 

抽選会は楽勝で突破した。審査員の生徒会の役員と教師全員が私たちの演奏に驚き感心した。この技術の高さを、大向こう受けしそうな曲に注げば当然の結果だったと言える。

 

コンサート当日、アメリカから新しい肺と一緒に帰国した時、インタビューを受けて以来の晴れ舞台よ、と恵子はにこっと笑って舞台の中心に出た。

 

恵子が声を出した時、場内がざわめいた。審査員たちと同様の驚きを皆が受けたのだ。私の素人離れしたギターと恵子のプロまがいのピアノ、そして何よりあれほど訓練され、張り詰めた美しい、人のものとは思えない、声を聞いたことのある者はいなかったのだ。高校生のレベルではなく同じ時代のレベルでもなかった。私自身その日の恵子の神がかった様相には震えが来たくらいだ。

 

最後の『セイリング』はオペラのアリアを歌うようにソプラノで熱唱した。マイクを一メートルちょっと先に置き、それに向かって、他人の肺を使って息を吸い声を出す。しかし、その人は歌はきらいだったらしく、恵子は途中苦しそうだった。しかし、すべてのハンデを克服してやり遂げた後は、スタンディングオベーションが起こった。

 

恵子の上気した表情の中に、今の肺ではこれが限界で本当の肺があればもっと先まで行けたのに、と練習中一度だけ漏らした弱気な発言が影のように映っていた。でもそれはあくまで影のようにであり、大成功に私も恵子も喜んでいたことは間違いない。

 

コンサートが終わってもしばらくは恵子の家に行き、一緒に演奏して楽しんだ。あの頃、二人だけで過ごす時間はたくさんあったが、噂で聞いた彼女の肺移植については、話題にすらしなかった。私にとっては、それはやはり頭の中に糸のイメージが現れる類のことだったのだ。それも飛び切りの張り詰めた糸。しかし、今になってみれば、十六歳のボーイフレンドとして、ごく自然に聞いてやればよかったと思う。

 

彼女は私に話したかったに違いないのだ。時間を忘れていつまでも果てしなく、自分の肺について、死の際にいる自分について、おしゃべりしたかったに違いないのだ。

 

ただし、彼女にも守るべき糸があって、それは聞かれなければ話さないというものだったのだろうと思う。

 

高校時代。恵子にとっては最初から最後まで安定していた最後の時代。中学の時はアメリカに移植に行ったし、大学の後半は他人の肺とうまくおりあいがつかなくなり、就職もせず療養生活に入り、死んでしまった・・・・・・

 

わたしはセイリングを口ずさんだ。

 

 

 

I am sailing

 

I am sailing

 

Home again close the sea

 

I am sailing

 

Stormy water

 

To be near you to be free

 

 

 恵子が死んだ。生きていれば数え切れない可能性を持ち、私たちの年齢で言えば、まだ永遠のように感じる余生を過ごしていたはずなのに。私は涙がこみ上げてきた。

 

しかし、同情はよそうと思った。普通に生きている私と、十三歳の時から、死と向かい合い、他人の肺を移植してまで生命をがっしりとつかんでいた彼女とでは、生と死に対する姿勢はまるで違ったはずであり、どこか神々しくさえあった彼女の雰囲気は、生を超越したところから吹いてくるそよ風だったのだ。

 

今になればよくわかる。

 

彼女がセイリングを学祭で歌った時、それは誰もが感じている永遠の故郷へ帰る歌となり、それをその場にいた全員が感じたのであり、だからこそスタンディングオベーションとなったのだ。後にも先にも学祭であんなに拍手が起こったことはなかった。

 

アナウンサーが告げる恵子の告別式の日取りを手帳に書き込んだ。七月七日だった。

 ますます自分の中に深く潜り込むことになってしまった。

 

 テレビを消して、もう寝ることにした。寝る前は面倒くさくて歯を磨かない。リステリンで口をすすぐ。砂時計で一分、口の中に刺激が満遍なくしみわたるのを待って吐き出す。これで眠りを前に、一日がすべて洗われた気分になる。

 

戸締りをもう一度確認する。

 

 電気はすべて消してベッドに入る。雨音だけがいつまでも響いていた。

 

この生の現実を保証するかのような、単調な当たり前のような、心和む音が、私の心の中にまで一つのリズムを生みだそうとしていた。

 

七月七日に自分が行くべき場所について、私は夢のお告げを聞きたいと思った。例えば、百歳の恵子が現れ、昔と変わらぬ真剣なまなざしと、死でさえ受け入れる和やかな笑顔を見せて、七月七日の約束はすべてほっといて、海を見に行くようにと、厳かに言って欲しかった。

 

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