暗夜行路:3回目の通読
暗夜行路をはじめて読んだのは中学2年生の時。
当時武者小路実篤にはまっていて親友志賀直哉の代表作ということで読もうと思った。
だがこの時は序の箇所はわかったけど 本編に入ったら意味不明状態になり途中でやめた。
最初の通読は高校の時だが 結局ほぼ何もわからずつまらなかった。
2度目の通読は40歳くらいの時。このときは割と面白かったが全体としてのこの小説を認識できなかった。いったいこの愚かな時任謙作の何を書きたいのだろう?(笑)そんな気持ちが半分以上あった。
そして今回、3回目になるが 還暦を過ぎて熟読した
いろいろ書こうと思ったが再び動画でしゃべる
そしてついにこの作品暗夜行路の全貌を認識できたと思う。
なのでそれをいろいろ動画でしゃべったのである。
たぶん 一冊本が書けるほどのネタと思考を得た
動画のためのメモのようなことで書いていってみたいと思います
何から書けばいいのだろうか?
そこがまず問題だ。
ということで書く代わりにもう一度ライブ配信で話してみました
暗夜行路。ほんとに味わいのある作品でした。
時任謙作の直子に対する感情のひだの細かい部分は本当に美しい。
でも 美しいけど共感しなかったりもする
昔の日本人男性の女性蔑視的要素はぬぐいえないのである
でもそれも含めて時代のせいであり それは時任謙作のせいでも志賀直哉のせいでもない。
志賀直哉の文体で長編は苦しい?
志賀直哉の名文はやはり短編向けであり、暗夜行路中の有名な箇所、たとえば、最後のあたりに時任謙作が米子の大山に上るシーンがある。夜明けを迎えて、大山から日が昇り、米子に日が差し込んでいく美しい風景描写があるのだが、これにしても、名文に違いない
しかしそれは古代中国の文が単独で美しかったりするように、長編の流れと独立しての風景描写になっているように感じられる
トルストイの風景描写などはあくまでその長編世界の流れの中になるのだが、志賀直哉の風景描写は独立してしまうのである
この辺がきっと本人にもわかっていて、苦しんで作り上げた暗夜行路の後にも先にも長編は書いていないわけである