「文学する」とはなにか?
哲学的思索をしたり、何かを体験して哲学的気づきや驚きをすることを
哲学する
と言いました。
それは、カントを読むだけではダメで、読んで自分の頭で、何かを深く感得する状態をら言います。また、書いたり話したりも、深く感得するものがあれば、哲学するとなります。
そんな哲学する、という言葉を土台に、
文学する
を
考えてみましょう。
それは、詩作したり、小説の創作だけのことではありません。
詩を書いていてもちっとも文学してない人もいます。
文学するとは、素晴らしい作品を読んで文学的感動にうち震えることであり、そんな作品の世界を思い出してはその世界からの振動を受け続けることであります。また、苦吟した末に、自分の作品を刻みあげることであり、作品とまではいかなくても、自分の表現したいことを上手く表現することであります。
ただ、自分の創造による文学することの前には、優れた作品を読むことでの文学することがなくては成り立ちません。通読することもそうですが、漱石の猫や、鴎外の渋江抽斎などのような作品は、そのどこを読んでも、たとえ一節であろうとも文学することの可能なものです。
あるいは例えば三好達治の一編の詩を何十回も読むとかもそうです。
芥川や志賀直哉の短編、モームやモーパッサンの短編などは楽しく簡単には読み終わります。
堀辰雄の手紙なども優れた作品と言えます。
いずれにしても、自分の好みに合わせて鑑賞からの文学する行為なくして、創造からの文学するはあり得ない、これだけは断言できます。
そして一流とされる古典作品を読むのが一番良い。
古典というのはその時代の方法でその時代の読者に対応しているところがあるから現代の感覚では退屈に思うところもあるが、読み終われば必ず記憶に残るものである。古典を読まずに文学することは不可能だろう。