読書とは再読のことだった!
そもそも文学作品とは再読前提で作られていたと思います
古くはホメロスの歌がありますが あれは文章で作られることなく
歌として 歌われる言葉として紡がれたものを後の世の人が文章にしたものです
ホメロスオデュッセイアを通読した 古荘英雄 - 【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作
当然何度も何度も歌われるものでした
詩にしても
再読しないことなどありえないものでした
黙読文化ははじまったばかり
つまり文学鑑賞とは再読前提で2000年続き
近代になってのここ100年くらいに
どう伸ばしてもここ200年くらいの間で
はじめて初読の一回の通読で読書が終わるようになった
と思うわけです
単純な話ですが電気による照明の発明と
出版技術の発展によって
安価になった書物を夜でも読めるようになったことで
人々が自宅で本を黙読するようになったのです
人間の頭はそんなに良くない
21世紀の日本では中古本なら100円に消費税で手に入ります
ちょっと高い本でも2000円程度
新刊でも専門書でなければ2000円を超す本はあんまりありません
それに図書館を入れると
読もうと思えば個人の人生の時間で言えば無限に読書ができるのです
でも
それらの本を自分の座右の書にできるほど読み込めるかというと
そんなに人間の脳は優れていません
たぶん座右の書など持てて3冊から5冊が限度で
普通は結構な読書家でも1冊も持ってなかったりします
それは読んで読んで そのままにしてまた次を読むからです
その本の世界に没頭してその本を味わうことをすると
次の本を読むまでに相当時間がかかるものです
昔は 書写して自分のものにしていましたね
源氏物語などは書写によって広まったわけですが
書写する人はとても深く頭に入るでしょう
実は読書の最高形態は書写だと思います
次が音読
その中でも仲間内での輪読です
個人の黙読というのは読書形態としても一番よくないものだと
ぼくは思っています
しかし
ぼくももっぱら黙読ですけどね
そして再読されるものこそ最高の作品
一度通読したら終わりというものではありません
最高の書物は再読するものです
もちろんこうした哲学宗教以外の文学作品にも
再読することでより深く味わうものがたくさんあります
総じて古典とはそうしたものです
バルザックやゾラやスタンダール、ゲーテやトーマス・マンの作品など
1回目よりは2回目、2回目よりは3回目、さらに4回目が
より深く味わえるのです