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戦争と平和の通読が終わる
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トーマス・マンは、トルストイの「戦争と平和」が素晴らしいと思えない才能は、もはや才能ではないと言った。好みの問題もあるが敵チームの4番だからあいつは嫌いだといってもすごさは認めるもの、そんな意味で 誰もが認める天才というのはる。
それと同じことがこの作品にも言える
■前書きとして
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私は「戦争と平和」の愛読家である
もう45年くらいつきあっている。
私は名作と言われるものはやはり大したものだと思うし、名作から受ける感動はその辺の現代小説では絶対に味わえないことを知っている。なので名作については通読したあとも 再読しなくてもいつもそのどこかかを読んでいる。
で 戦争と平和は場面場面が見事な短編小説だし 誰かのセリフがもう独立した物語になったりするのでそういうのを楽しんできたのである
なので全体の構図や展開は熟知した世界なのであるが、今回 初代文芸YouTuberムーさんのon-line読書会で戦争と平和の通読があって そのメンバーから私のライブにもたくさん来てもらっているので 私も一緒に改めて通読した次第である。
■通読ならではの迫力
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戦争と平和は長い小説だがこれはホメロスのイリアスのトルストイにおける現代版だったから 実に読みやすく実に場面ごとが面白い
そしてあの書き方では誰もトルストイにかなわないわけだが描写は神業というか、まさに神が書いたようにしか思えない、つまりそれだけ面白い
なので スーッと読める、途中哲学的思索で止まることもない、いろいろな議論もあるがみな作品として必要だから出てるので別に哲学や神学ではない
そして有名な歴史論だが これもホメロスにおける神々の代わりに歴史の意思が登場しているように思う
つまり歴史の意思はオリュンポスの神々の代わりなのだ
でその歴史論と物語があいまってナポレオン軍の敗走の様子が見えてくるだが迫力はもす凄まじいものがある
■書き手側の視点で考えてみると・・・
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書くために図書館ができるほど膨大な資料を読んだそうです
■長く書いた後で
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長く書いた後で感無量になって、後書きを書き始めたら止まらなくなった!
それがエピローグの論文だと動画で言ったんです(笑)
■ロシア版人間喜劇として読むと楽しいかも。
パートごとに短編に見事になっている!と思います。たとえば「ペーチャの死の章」などはほんとに秀逸な短編。単独でも成り立つでしょう。
そしてふと気づくと同じ登場人物がたくさん出てくる、あっ!デニーソフとピエールも登場してる!みたいな読み方も楽しいだろうなと思います
イリアスは戦争場面のたびに神々が次はこうしよう、それからああしょう、と決めるのですが、『戦争と平和』は神々の代わりに歴史の意思が決めるとなっているか?通読を久々にして思うのは イリアスそのものだ!という感じです。1805年からはじまり、1820年?まで長く生きたなあという感じです
■反ヨーロッパ思想か?
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エピローグには「人類」とは大陸の西北隅の一小部分を占める(ヨーロッパ)少数の民族を差す、とあり、ロシア人の反ヨーロッパ思想みたいなものが垣間見えるかなとも思いました。100年に一回大軍勢がヨーロッパから来てますからね
■歴史観
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