【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

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文学日記 詩と小説の違いとは? 2019年以前


詩と小説の違いとは?

詩と小説の違いを一言でいうと、どうなるだろう?みなさんのご意見を伺いたいと思います


ぼくは、詩はソロの演奏で、小説はオーケストラとか四重奏だというとらえ方もしています

詩=無に命や魂を吹き込むこと。小説=無から創造した、ものの「影」を語ること。影=真実

詩は、心の奥にあるものを取り出し、カタチにする。
小説は、虚構と戯れる。

詩は言葉で世界を想像させること。

小説は言葉で世界を創造すること。

 詩は画像。小説は動画

詩はキリギリス。小説はアリ


 
小説は冬。詩は夏
詩は素材の味を活かした一品料理で小説は趣向を凝らしたフルコースだろうか。
連続と不連続。詩は行間という距離をとって活かす。言葉の配置の仕方が鍵になる。→不連続。対して小説は…言葉で空間を繋いで再現性を高めている。→連続 でしょうか?
宇宙と海

だと思います
音の波長と律動の違い

詩は凝縮された点。
小説は、広げられた面。
どちらも、虚構を使った真実。



詩」は小説よりも抽象的な表現が多様される。
 
 


文学を意識したのは中一から

若いころから文学好きでした。中学1年の時に読んだ武者小路実篤の「若き日の思い出
というのがぼくの人生を劇的に変えました。
それまではニュートンの伝記を読んで自分もニュートンのような科学者になって宇宙の秘密を解明するんだと思ってました。

でも中一の冬に武者小路実篤を読んで、そのまま中二もの1年間も没頭して「友情」や「愛と死」や「馬鹿一」「その妹」「詩集」「おめでたき人」などなど読んで、人生観が固まったように思います。
そして武者小路実篤トルストイに没頭したという話を読んでトルストイも読んだのだけど当時トルストイのすばらしさを理解する能力はありませんでした。

文学
と言っても文学というものはありません。
小説
書簡
日記

随筆
戯曲
評論
雑記
などの総体を文学と呼んでいるわけですね。
寺というものは存在せず、延暦寺金剛峯寺東大寺や日本に散らばる無数の寺を総称して、寺と呼んでるのと同じですね。
人間という人はいない。車という車はない、そんな感じです。

詩歌療法

最近、「詩歌療法」という本を読みまして、文学について思わぬ観点から再考する機会がありました。
「自由論」を書いたイギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルが若いころうつ病だったことは割と有名です。
しかしどうやって治ったかを知る人は少ない。
なんとワーズワースの詩集を読んで治ったのです。
バイロン詩集を読んだがなんの感動もなく、しかしワーズワースを読んで共感というか感応というか治った。
それはワーズワースが自然を歌うときに入り込むワーズワースにとっての自然観が、ミルの中の自然観と同じであり、ゆえにミルはワーズワースによって自分の中のある大きな広がりに気づき目覚め癒されたのだというのです。


一冊の小説と一冊の自己啓発本

自己啓発本には30代からはまりました。有名なナポレオンヒルから始まりジグジグラーやデニスウェイトリー、7つの習慣、などなど無数に読んできました。仕事のプレッシャーに耐えて克服するためですね。

でも今考えると、たぶんですけど、スタンダールの「パルムの僧院」とかゲーテの「ウィルヘルムマイスターの遍歴時代」とか、辻邦生の「時の扉」、チャンドラーの「長いお別れ」ホーガンというSF作家の「星を継ぐもの」シリーズ。清岡卓行の詩集などなど、の方が、はるかに記憶に残り、その世界に入り込むことで出てきたときには最新再生されましたね。

ただナポレオンヒルについては二時間話してくださいと言われてもそのまま話せるほど精通したので、それをうまく生かしきれてないということでもあるのだけど、ぼくは文學というものをもっと人生に生かすようにすればよかったと思っています。

でどうするのか

本を読んでそれをどう実人生に落とし込むのか
それについては文學も哲学も自己啓発も関係ないですね。
現実があったらそれを本に照らして考える
本を読んだらそれを現実に照らして考える

それがベストでしょうね。