【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

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連載小説「あの夏の向こうに」第4話

 

小説と詩の創作と文学エセー

 
 

 信一が、交通事故で足と腕の骨を折った老人の手伝いで、漁に出るようになってから半年が過ぎた。

 

  朝、五時に起きて六時前には船を出した。皮膚に七十年分の潮が染み込んだ老人は松葉杖で必ず先に来ていた。

 

  大通りから階段で五段降りると、港の船着き場だった。老人はその階段の上で毎朝信一を待っている。節くれだった指に煙草をはさんで、乾いた瞳で虚空を眺めながら、煙を吐いている。

 

信一は慣れた手つきで五段の階段を降りるのを手伝い、抱えあげて船に乗せる。舵の前に置いた椅子が老人の指定席である。

 

ちゃぷちゃぷという水の音。張り詰めたように美しい空気。何もかもが始まりを告げていた。自分自身は終わってしまった時間にいることを意識しながらも、信一は毎日この雰囲気に浸るのが好きだった。

 

 老人は船にエンジンをかけるよう指示する。信一はモーターのひもを勢いよく引っ張る。エンジン音の響きは、早朝の空気に溶け込んで気持ちよかった。老人が舵を取り、船はゆっくりと滑り出した。

 

  いつものことだが桟橋から離れて行く間は、信一は陸の方を見る。ゆっくりと、確実に風景が小さくなって行くのが面白かった。高校生の時、初めてこの船に乗ったときから感じていたことだ。

 

  港は外海から二重に守られていた。二つの堤防が直角に交差する寸前で出口が開いている。そこを出て沖を見れば、水平線に向かって平行に、長い堤防が伸びていて、出口には直接沖合いからの波が来ないようになっている。その端には小さな無人灯台も設置されているし、そのコンクリートの道の向こう側には、テトラポットが敷詰めらていた。

 

  外側の堤防を越えたところから、信一の目はすでに建物さえ見分けられなくなった陸を離れ、青の世界へ向けられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  海面から飛び上がる魚がいる。波頭があちこちに白の線を浮かび上がらせる。空にも雲が浮かんでおり、わずかな白が、一面の青に効果的に組み込まれている。

 

  船の機械音が海によく似合うと感じる。無骨さや荒々しさが似ているのだ。この機械音と海のうねりこそ、高校生の自分に実人生の逞しさを教え、自意識の悩ましさや、自分の居場所についての問答を殺ぎ落とし、確信のようなものを与えたのだった。もっとも、完全にそれらのものと縁が切れたわけではないが、自暴自棄になるようなことはないと思えた。

 

  漁場につくとエンジンを止めて網の用意をする。漁についてはすべて老人の指示通りにやる。どのように網を投げるか、どこに投げるか、いつまで待つか、どう引っ張り上げるか、自分なりの感覚も身についてきたが、老人の何十年分の経験に従う。近頃では、二人のタイミングに誤差がいくらかは減ってきたのがわかる。男は汗のしずくを流しながら、網を引く。この重さは男を清々しくさせた。命の重さだ。そこに重量が存在すること、それがエネルギーであり、目標であった。

 

この作業は、弟の死への自責の念を日々繰り返して、剥ぎ取り続ける瞑想のようなものだった。

 

  満足行く漁獲だった。

 

「今日はこの辺で引き上げるぞ」

 

「はい」

 

  時計は船の上にはなかった。時間もまた、老人の体の中に染み込んでいるのだった。

 

  昼前に船は港に戻った。

 

  海の上では二人はほとんど口をきかないが、陸に上がれば少し口数が増えた。

 

 

 

 

 

 

「もうすぐ立てそうですか」

 

  老人の家が見えてきたあたりで男が尋ねる。余計なことを聞くなと言う風に返事をする。

 

「ああ。家の中はもう大丈夫さ。一人で漁ができるようになるかどうかだな。まっ、いつかは直るさ」

 

少し、考え深げな表情をする。

 

「直ったら、おまえ、どうする?」

 

「帰ります」

 

老人は当然だという風にゆっくりと肯く。

 

「果樹園はお前がいなくてたいへんだったろう」

 

「仕事は回るようにはなってますから」

 

苦々しい表情で、短く浅く、肯く。

 

「あの時も、今みたいにきっぱりと『帰ります』って言ったな」

 

「はい」

 

「高校生だったな。突然俺のところに働かせてくれと言ってきた」

 

「無理やり住み込みさせてもらいました」

 

「まだ土地を売る前だったから、敷地だけは広かったからな。掘っ立て小屋も、二つ建ってたし」

 

「一ヶ月厄介になりました。またあの小屋に世話になるとは思いませんでした」

 

「おまえが住んでる小屋は海にせり出すように建ってる、台風が来るたびに吹っ飛ばされそうでいて、未だに残ってる。あの場所じゃ土地としては値打ちがないし、普通の家に立て替えても怖くて誰も住まんだろうしな、結局売れ残ったんだ」

 

老人は遠い青のかなたを見つめて黙った。

 

「俺はおまえみたいな奴を見てるといろんなことを思い出すのさ。あの頃も、今も」

 

煙草を取り出し火をつけて、気持ちよさそうに吸い込む。

 

「あの世に持ってけないものは、全部生きてるうちに手放そうと思った」

 

「別れた奥さんが連れて出た子供さんには残さなかったんですか」

 

「あいつは、前の女房が面倒を見て大人になったよ。残すなら誰からも面倒を見てもらえない連中にと考えたんだ。本当に年を取った。あの頃も、おまえがいてくれて、嬉しかった。果樹園にはおれにまかせろと言った。果樹園はおれを信用してくれた」

 

 二人で遠い日々を眺めた。それは同じ色合いの思い出だった。

 

「今日は保険会社の人間が来るようになってる」

 

「ああ」と男もすばやく短く肯く。

 

「漁協からは休業保障とかいろいろ金をもらった。今日は生命保険会社の奴が入院給付金を払うからハンコ押せと言ってきてるんだ。昔と違って、飢え死にはしないように出来てる。おれは保険には入った覚えはないから、金はいらないと言ってるんだがどうしても受け取れとうるさい」

 

「ありがたい話ですよ」

 

 少しかがんで実直そうに早口で言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 柏木は玄関の土間に座っていた。老人が戻ってきたら挨拶もそこそこに、一気に言った。

 

「今日こそはハンコ下さい。口座を教えて下さい。もういろいろ言いませんからそれだけやって下さい」

 

  議論などせずにイエスかノーかだけを聞いて、それで終わりにしようと思ったのだ。だめならだめで、後任に託して行けばいい、自分はやるだけのことはやったのだ、そんな気持ちだった。事務的に言うつもりだったが、つい興奮気味になった。

 

「相変わらず派手だねえ、保険屋さん、人からちょっとづつ集めた金で、そのネクタイ、そのスーツ、その靴、そのシャツ、その眼鏡、おまけに表に停めていたあの車、何だか金持ちに金を恵んでもらってるような気分になってくるな」

 

  老人は同じように土間に座り、節くれだった指に煙草をはさんで、虚空を眺めるかのように、乾いた瞳で煙の行方を追った。

 

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