小説と詩の創作と文学エセー
やっぱり変人で、嫌な仕事だと柏木は思った。今日もはぐらされたばかりか、嫌だと言うのを、無理矢理にでも払ってやろうというのに、皮肉まで言われた。この老人の保険契約は、ずっと昔にやめた職員が前妻の方と話しをつけて決めたので、おそらく本人と直接交渉していれば、保険など入らなかっただろう。おまけに、入院給付金の請求をずっと自分の方からはしないでいて、どうするかとこちらから聞いてやっと、知ってるなら手続きに来い、という返事。職員に聞いたら誰も行きたくないというから、みずから雑用に来てみればこんなことの繰り返しだ。
しかし、柏木もたじろぐことなく営業用スマイルを浮かべ続けた。
「あんた、この町で何年になるんだい?」
「丸三年です」
老人は節くれだった指に柏木の渡したペンをはさみ、サインをして、印鑑を押した。
「住所やら何やら、あとはそっちで書いてくれ」
「一応ご本人さまの自署となっておりますので」
「その本人がいいと言ってるんじゃないか。それくらいサービスで書けよ。おれは承知済みだから。第一、最初に申込書に書いたのは別れた女房だぞ」
「一応ですね…」
「ああうるさい、じゃあ住所までな、その丸で囲むところは誰が書いても同じだろうが。まったく馬鹿らしいな、漁じゃあ誰が網を上げても獲った魚は魚だがな、なあおまえ」
男は二人のやり取りをじっと見ていたが、自分に振られたのを幸いに場を収めた。
「よろしくお願いします。今日はわざわざありがとうございます。おれ、あなたのこと知ってますよ。果樹園に住んでる人でしょう。あなたなら信用できます」
そう言って素早く礼をして、帰って行った。
「本当は事故ですから、倍出るんですけどね」
「まっ、そりゃあいいよ。どうせ犯人もわからないし。こないだおまえが持ってきた書類の束が必要になるんだろう、面倒くさい、あれにハンコ押すのをやめられるんなら半額でいいよ。もともともらうつもりもなかった金だ。あいつがもらってやらないとおまえが困ると言ったから、手続きすることにしたんだ」
「犯人は、まだ見つからないんですってね」
はき捨てるような返事が来ると思ったら、乾いた深い瞳で柏木をじっと見入って、厳かに言った。
「そのうちに名乗り出てくるはずさ」
柏木は他の所長連中と共にコンピューターの前にいた。もう夕方だった。少し前から急に天気が崩れて、今にも一雨来そうな空模様だった。夕立前の街の、ある種の緊張感は、何かを待っているような雰囲気をかもし出していた。
大きなプリンターの前に席を空けてもらって、柏木は打ち出される名前を覗き込むように身をかがめた。今日は動いても動かなくても、どのみちみんなの注目を浴びるからと、さっきネクタイを締め直し、髪に整髪材をスプレーでかけた。
この支社の事務所の風景もすっかりなじみのものになった。今日の特等席から眺めれば、来客用の入り口があり、その手前にカウンターがあり、その内側に、デスクや椅子や棚がある。ほとんがグレイであり、味気なく空間を埋めていた。
壁にはあちこちに販売促進用ポスターがあり、デザイン性などほとんどなく、顧客の心をつかむようなものは一つもなく、硬質な退屈な雰囲気で一杯だった。
どこの支社も、事務所の風景は同じようなものなので、全国どこに転勤しても、それほど違う所に来たような気がしなくなる、という効果はあった。身内意識を形成するうえで、知らず知らずに重要な役割を果たしていたとも言える。
その日は五時半からプリントアウトが開始されることになっていた。五時二十分くらいから、柏木はオンラインの端末の、巨大なプリンターの周りをうろうろしていた。すぐ側の女子職員と四方山話をしたり、わかりきったパンフレットを何気なく読んだり、とにかく時間をつぶすことをいろいろやってみたが、その都度時計を見るが、せいぜい二分くらいしかたたず、中々約束の時間にたどり着かなかった。
様々な経緯から、今回の異動は間違いのないことだと確信していた。だがもし残ってしまったらと、逆に考えてしまう。それに、もし無事に転勤の身となっても、そうなったらなったで、今度はどこにいくかがまた非常に気になるところだった。東京圏に戻りたかったし、その確率はかなり高いと思っていた。しかし、何があってもおかしくないのも事実で、たとえば、このまま関西、四国、九州へ飛んだり、はたまた東北や北海道まで、逆方向に弾き飛ばされたりすることも可能性としては否定しきれなかった。
「柏木所長、顔が恐い」
と四方山話の相手の女子職員が言う。
心を覗かれてしまったような、気恥ずかしさに照れながら、その娘を見ながらにっこりと笑う。この子は支部長連中で遊びに行くとき、誘えば必ずといっていいくらい来た。支部長初場所の、自分より三つ若い青木に惚れているという噂があるが、きっとその通りで二人はやがて結婚するだろう。この会社は社内結婚率が七〇%を越えている。そして、それはいろいろ考えなくていい楽な選択肢だった。
雨が落ちて来た。強い雨だった。街にこもる暑気を叩き潰すかのように、後から後から音をたてて降り続ける。
やがて、他の所長連中や、内務スタッフたちも集まって来た。
「楽しみだろう」「心配だな」などと、今回の対象からは明らかに外れている者たちは、他人事だと思って気楽に声をかけてくる。
五時半ちょうどにプリントアウトが始まった。組織変更という文字が見えてくる。毎度のことながら、意味のありそうには思えない改革が必ず行われる。しばらく、そういうどうでもいい情報が流れていく。
やがて、大きな信号音がピーっと鳴る。それに続いて、印字の音さえ大きく感じながら、打ち出されつつある文字を凝視する。
人事異動発令