【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

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連載小説「あの夏の向こうに」第3話

 

 店はかつての学校の跡地にあった。一つの教室を丸ごと残し、教壇の上にはピアノが置かれ、廊下の部分が厨房であり、廊下との間の窓がカウンターだった。壁にはそこここに絵や写真が、それぞれにふさわしい額縁に収められて掛けられてあった。カウンター以外に、六ヶ所にテーブルが置かれ、それぞれにソファーや手作りの木の椅子が並べられ、また照明スタンドもそれぞれに凝ったものが配置されていた。そして、その六ヶ所のコーナーを区切るように、腰の高さくらいの書棚がどっしりと床に吸い付いて立ち、立派な装丁のプラトン全集や中国古典全集、美術全集、写真集、などが背表紙で雰囲気を作っていた。

 

 

 

 

  これらは視覚を十分に刺激し、柏木にとっても特別な空間となった。西野が瞑想の場として、純粋にならば生きることができると感じる五時からの一時間のように、柏木もまた、一日を始めるに当たり、ここから出発するなら今日一日の困難を乗り切ることができると思えたのだった。

 

 

 

「淋しくなるな」西野がしみじみと言う。西野にとっては宮津が死んだ直後からの、まるでそのいなくなった穴を埋めるかのように現れた柏木であった。

 

「いろいろとしがらみもできただろう」

 

「うん、仕事のしがらみはすごいものがあるよ、でもそれは、むしろそういうものを一気に断ち切るためにこそ転勤はあるんだよ。すべてをご和算にして真っさらになって新しい場所へ行くのはたまらない快感だよ」

 

「おれなんか生まれてからずっとここだからな」

 

「でもそれはおれから見れば羨ましいことだよ」

 

「麻美のことは?どうするつもり?」

 

「そうだな、それもさ、おれとしては断ち切りたい…」

 

  西野は納得できないという瞳で柏木を見た。

 

「あんなにうまくいってるのに?」

 

  言われたくないことを正面から衝かれて、柏木は表情が定まらなかった。

 

「おれたちはね、結構二人で人工的につくったような仲なんだ

 

 

 

 

  煙草を口元に持って来て、くるくる回す。そして、逃げるように無邪気なモーツアルトのピアノ協奏曲に集中した。

 

  その間も、西野は開店の準備の手を止めることがない。サンドウィッチのためのパンを切り、卵のスライスを用意し、レタスを大きなボールにちぎって入れていく。こま鼠のようだと、よく柏木は思う。こんな風にまめでなければ、店をやって行くことはできないのだと思った。特に、こういう特殊な雰囲気を維持しつづけるのは、もはや才能なのだと思った。

 

  柏木はいつものように新聞に手を伸ばす。ここに来ると六種類の新聞がある。それを適当に飛ばし読みしながら、俗世の騒がしさに気持ちをチューニングさせていく。

 

  コーヒーが出来上がった。それを啜りながら明晰に頭が働き出す。西野も五時の自分のためのコーヒーに続いて二杯目を注ぐ。そしてサンドウィッチを皿に乗せ、柏木の前に置く。

 

 

 

「それはそうとまだ面倒な仕事が残ってるんだ。入院給付金の請求手続きをやってやんないといけない爺さんがいるんだけどね。請求なんかしないって言ってさ、家に行くと追い返されるんだよ。とんでもない話しだよ。ひき逃げされてさ、うちの営業員が噂を聞いて、それで古株の連中が確かうちの保険に入ってたって言うから調べたら、ずっと昔に確かに契約してるんだ、まっ、どうせ奥さんが手続きしたんだろうけどね。でも奥さんに今回も代わりに手続きをと言うと、それは前妻がやったことで、自分は勝手に給付金を受け取るわけにはいかないから、だんなに直接話してくれって言うんだ」

 

「その爺さんってさ、普通の話が普通にできないんだ。おれは子供の頃から知ってるけどね、有名な偏屈爺さんさ、でもね、何というか悟った顔つきっていうかな、仙人みたいなところがある」

 

 

 

「ひき逃げされた爺さんっていうだけで、よく誰だかわかるな」

 

「狭い街だよ。ずっとここに住んでるからな」

 

  西野は少し考えに耽る表情で、煙草に火を点けて肺一杯に吸い込んだ。早朝にだけ見せる純粋な瞳で遠くを眺めながら語った。

 

「昔知り合いが世話になったことがある。そいつは高校の頃、思うところあって家出して、あの爺さんの家に住み込んで、漁の手伝いをして、そんな生活の中でふっきれて家に戻った。爺さんからぽつぽつ聞かされた話もこたえたって言ってた」

 

「あのあばら家に住み込みで?」

 

「昔は、あのあたり全部が爺さんちの敷地だった。小屋の一つを借りてたんだ。今は自分の住む狭い家以外は売ってしまった。金は相当持ってるはずだよ、あの爺さん。だから給付金がさ、一日五千円が一ヶ月分入っても入らなくてもどっちでもいいんだろうね。面倒くさくない方がいいってところだな」

 

「知り合いっておれの知ってる人か?」

 

「多分しらないだろう。おまえの住んでる小屋のさ、死んでしまった宮津の兄貴さ」

 

 面白そうな話だが、直接は知らない人だったので、柏木はそれ以上聞かなかった。

 

  吐き出される煙が、天井に揺らめきながら上っていくのを眺めながら、二人はそれぞれの一日を始める用意が終わったと感じた。

 

「じゃあな、夕方発表だからさ。また連絡するよ」

 

「うん。まっ、おれはいいからさ、ちゃんと麻美に伝えてやれよ」

 

 

 

  柏木は足取りも軽く店を出た。それを見送りながら、西野は、転勤するのが嬉しいんだなと思った。そして、麻美のことが気がかりではあったが、結局は他人事だと短いため息をついた。そして、麻美の姉の玲子のことを思い出し、さらに深いため息をつくのだった。

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