【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

YouTubeチャンネル『世界の名作文学を5分で語る』のブログ版です。世界と日本の名作紹介と様々な文学批評 そして自作の詩と小説の発表の場です

連載小説「あの夏の向こうに」第2話

 

小説と詩の創作と文学エセー

 
 

 車で坂道を下って行く。山肌にぐるぐるとカーブする道が巻き付いていた。そこを、軽快にハンドルをさばきながら、さしてスピードをゆるめることもなく車を進める。

 

  通勤前のスポーツのようなものだった。普段からがらがらの道であり、まして朝の六時半にはまず車は通っておらず、たとえ曲がりきれずに中央線を越えてしまったとしても、よほど運が悪くない限り、事故にあうことはなかった。だから柏木はストレスが溜まりに溜まって、自暴自棄になっている時には、文字通り運試しで、中央線を越えてみたりするのだった。ただ、窓をすべて開け、対向車の遠いエンジン音に耳をそばだてることは、怠らなかった。

 

  車が移動する数キロの景色を熟知するようになった。十五分ほどで《校舎》に着く。そこが家を教えてくれたマスターの店だった。そこはちょうど家と会社の中間に位置した。

 

 

 

 

 

 

  昔は校長室に掛けてあった柱時計が、朝の五時を鳴らすと、西野はコーヒーを細心の注意で丁寧に入れる。アルコールランプの光が薄暗い店内を、ほんの少し紫色に染める。そしてサイフォンからコーヒーが一滴づつ落ちてくるのを、凝視する。そして自分のカップに注ぐ。シンセサイザーが奏でるシルクロードの音楽の中で、真っ黒な熱いコーヒーをすする。

 

  この時間が好きだった。ジーンズとカウボウイのようなシャツは制服のようなもので、店では頑なにこのいでたちで通す。急ぐ必要のない時でも、忙しない動作になりがちな西野にはうってつけな服装でもあった。

 

  宮津の突然の死は、西野と玲子との未来を中断させてしまった。それは、西野が、宮津から玲子を奪った直後の出来事で、結局、玲子はどちらの男の腕も取ることはできなくなった。いくら玲子を説得しても無駄であったし、いつまで待てばいいというものでもなかった。西野の中には、とてつもない閉塞感が生まれた。八方塞となって、何もかもが束の間の待機時間のように感じられるようになり、やがて退屈だけが残った。そして、生きているということそのものが、この世に、あるいは自分自身に、閉じ込められてでもいるかのようで、いっそ宮津の後を追ってみるかという思いさえ、頭の中を過ぎることがあった。

 

だから今は、西野には一人きりの早朝だけが、本物の人生の時間だった。そこでだけは本来の自分でいられた。いわば純粋になら生きていけるという証でもあった。

 

  開店は七時だが、柏木は毎朝、その十五分前にはドアを開けて入ってくる。柏木は客であると同時に友人であり、開店前の来店という例外を西野は認めていたのである。

 

  その朝柏木がうきうきした顔で言う。

 

「いよいよ、人事異動の発令の日になった」

 

「そう…だったな。多分、転勤するんだったな。したいんだよな」

 

「うん。転勤したい。何としても動きたい」

 

  柏木のためのコーヒーがコポコポと心地良い音を立てて、蒸気を上げる。コーヒーの匂いが漂ってくる。そのブラジルの香気の中で中国煙草に火を点ける。薬草めいた香りが混ざり、もともとの植物やハーブの匂いにも溶け合い、この臭覚の何重もの刺激は、柏木の頭の中から細胞一つ一つまで微細に振動させていくかのようであった。

 

 

  西野の店《校舎》は、様々に柏木にシャワーを浴びせる。朝のこの時間は、音楽は必ずモーツァルトかバッハであり、それは天井近くにセットされたスピーカーから、耳の中に朝日のように射し込んできた。