やがて、わたしは母に連れられて外に出た。その日は曇っていたが、祖父が燃えている間は、不思議と日が射していた。どんなに雨が降っていても、火葬の間は止むのだと聞いたことがあった。その天の配慮のような現象に心を打たれた。
母は、煙突から立ち上る煙を指差し
「おじいちゃんが天国に昇って行く」
とわたしと姉に言った。わたしたち子どもは、死んだ人が火葬場の煙の中で、スキップしながら嬉しそうに空のかなたに登って行く話を、しょっちゅう聞いていた。いよいよ自分の身内が、燃やされる時、わたしは目を凝らして煙りの中に祖父を捜した。が、ついにわたしには祖父が煙の階段を駆け上がる姿を見つけられなかった。姉は、そんなわたしに自分ははっきりと見たと言った。
やがて、祖父は燃え尽きて、炉から引き出された。そこには棺桶もなく、ただ巨大なフライパンのような台に祖父の骨が広がっていた。それを見て、また皆で泣いた。しかし、それは点火の際とは違って、すでに完全に死の側に移ったことを認める、穏やかな気持ちの整理のような涙だった。
特に人の形の広がりをしていたわけでもない。まさにただ骨があった。その場の誰もが祖父の変わり果てた姿としてではなく、死んだ後人間が辿る自然の変化としてそれを受け入れていた。そこには忌むべき感も不浄の感もなかった。
皆で骨を集めた。
大きな固まりがあるたびに、骨守りの異名をとるおばあさんが解説をしてくれた。
「これは間接の骨である、ほれ、ぼろぼろになっているだろう、年をとってずいぶんといたんでいたのだ。これは喉仏の骨である。これはその人の体の中に宿る仏の居場所である。ほら、みてごらんなさい。大きくまろやかな形をしている。この人の中にはいい仏さんがいらしゃってたんだ」
皆で感心して聞いていた。そして、長い時間かけて一つ一つ骨を箸で壺に収めていった。この壺を墓に納めるのだと聞いて、わたしの父方の祖父母の墓は、骨を収めてないから借り物なのだという話を思い出した