火葬場から家に戻って、これで一通りの死の儀式が終わったので、親戚の多くは自分の家に帰る用意をした。そして、祖父の生前の愛用品の中から、祖母が要らないといったものを、おじやおばたちが形見分けと称して、帰り支度のバッグに入れていた時だった。大黒柱にかかる大きな時計を一番年上の伯父が譲り受けたいと言い、祖母が、長男のお前がそれを持って行くのがいいだろうが、自分が生きている間はこの家において置くと返事をしているのが聞こえた。
わたしは時計にしがみついて
「ぼくにくれると言ってた」と叫んだ。
大人たちはわたしのあまりの抵抗に驚いていた。とりあえずその話はそのままになった。誰もが祖母の死後のことを想像するのは嫌だったのだ。第一幼いわたしはその未来の時点では、時計のことなど気にもしていないかもしれない、大人たちはそう考えたのだと思う。それに母の兄弟はほとんどが九州を離れ東京か大阪で暮らしていたから、三十三人の孫で祖父が愛情を注いだのは、同居しているわたしと姉だけだったと言ってもよかった。そしてわたしが、つよく祖父を慕っていたという事実は皆に深く知れ渡っていたので、わたしの、大人からみれば単なるわがままは、それなりに尊重されたのだった。
伯父はしかしなおしばらく時計を眺めていた。そして何度か「親父の時計だ」と自分に言い聞かせるようにつぶやいては、大きくうなずいていた。目には涙が溜まっていた。
その柱時計は、長さが一メートル近くあった。周囲には丁寧な細工が施され、アラビア数字もほどよくデザインされ、くっきりと浮き上がるように見えた。ちょうど六時の個所、6の字の丸の部分にネジの差込口があった。歳月が磨きをかけた金色の振り子が止まることのないように、寝る前に母がネジを巻いていた。時計の下部にネジを収める所があり、子どもは触ってはいけないことになっていた。
わたしはその時計が一時間おきに告げる、ゆるやかな時の流れの中で幼年時代を過ごしたのだった。