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自作の小説「祖父の時計 第5話」境界の村シリーズ - 3月 24

 

 

 遠洋航路の船乗りだった父は、三、四ヵ月に一週間くらいの割合で家に帰って来た。日常的には父の存在はまったくなく、幼いわたしと姉にとっては、その帰宅は祭り以上にめでたく、何にも増して待ちわびているものであった。

 

  祖父は父親代わりにいろいろなことを教えてくれた。男としての義務だと感じていたのかもしれないし、男同士、気が合ったのかもしれない。

 

  たとえば独楽の回し方、凧のあげ方、メンコのやり方、竹馬のやり方、など一通りの男の子の遊びを教わった。そしてまた、男のご飯の食べ方、男の風呂の入り方、男の歯の磨き方、男の顔の洗い方、そして男の昼寝の仕方、殴り合いの要領、いささかふるめかしくもあったが、わたしは母と姉のきちんとしたやりかたより、祖父の荒っぽい振る舞いの方が好きだった。この点については母はいささか不満気であったが。

 

母に内緒で小遣い銭をもらったり、おやつをもらったりもした。それらは二人だけの秘密だと言いながらも、すべて母には筒抜けだったらしい。

 

いろんな形で祖父にかまってもらっていたが、一番好きだったのは自転車に乗せてもらって行く散歩だった。ずいぶんと連れ立って出かけたらしいのだが、物心ついてからの記憶としては数えるほどしかない。おそらくは、わたしの成長に反比例して、祖父が徐々に健康状態を悪くしていく中、体力的に厳しくなったのと、わたしを連れていって姉を連れて行かない不公平さを母に指摘されていたのも関係したと思う。

 

  小学校に上がってまだ間もない、ある日曜日だった。わたしは、柱時計のネジ巻き用の鍵を勝手に取り出して、巻きすぎてネジを壊してしまい、母にこっぴどく叱られた。鍵を収めている所に手が届くようになったので、授業で時計の見方を習ったこともあり、自分もこの大きな時計のために何かしたくなったのだった。祖父は修理すればいいと笑ったが母はけじめをつける必要を感じたのだった。

 

ひとしきり 怒鳴られて落ち込んでいるわたしに、祖父は散歩に行くぞと声をかけてくれた。そして普段は和服で過ごすのだが、自転車をこぐために洋服に着替えた。祖父の唯一の洋服は背広だった。ネクタイは緑がかかった柄のものが多かった。ワイシャツにスーツを羽織った祖父は普段とは別人のようで格好よく見えた。わたしは時計のことを謝りながら恐る恐る自転車にのった。 

 

 

  わたしの故郷は河口の港だった。

 

 

海岸線沿いに山が迫り出しており、海と山の両方の自然がすぐそばにあった。だから潮の匂いを嗅ぎながら、森から吹いてくる風がわかったし、木々の枝がたてるざわざわという音を聞きながら、波の奏でる様々な海のざわめきも感じた。わたしは海の子であり山の子であった。人々は海の民であり山の民であった。海に行けば魚や貝や海草がいくらでも取れたし、山に行けば木の実や草花がいくらでもあった。縄文風に暮らせば、千年でも豊かに穏やかに日々を過ごすことのできる場所だった。

 

  実際に江戸時代まで水田が作れる耕地がないし、人口も少なかったので年貢は免除されていた。当時の藩政は鷹揚であり、一定の枠内であればほとんどのことには例外があり、同情や温情からの目こぼしがあり、人は朝起きて夜寝るまで、つまり生まれてから死ぬまでを、ゆるやかなテンポで過ごすことができた。温暖な気候と海と山の幸の恩恵に他ならない。藩政に携わるものたちの気分もそれらに影響を受けていたのである。

 

  だが、明治以降はこの小さな世界の自然に、人々はみずからの心を調律することが許されなくなった。心は日本全体、それも地球儀の上の日本全体の状況に適応することを強要された。鷹揚な「お上」は消え、明確な意思を持った「支配者」が、あぜ道に大道を築こうとした。その流れの中で、村の人々も自分達だけで生きていくことはできなくなった。多くの人が村から出て行った。

 

  我が家から海沿いの道までは目と鼻の先だった。自転車がその道を走り出すと、左側に山が切り立ち、赤い実をつけた枝や、生い茂る緑が次々に現れる。真っ赤な葉をつけたはぜの木がところどころにあり、それらはかぶれるから決してさわってはならないと日頃から厳しく注意されていた。

 

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