超訳 古い寺の古い池にたたずんで
古池や かわず 飛び込む水の音
前書き
俳句の代表ですね。俳句は翻訳不可能、短歌も翻訳不可能と言いつつ日本人は漢詩を勝手に書き下し文で読み、ドイツの叙情詩でもフランスのシンボリズムでも翻訳で読んでいます。イギリスのロマン派なども十分に翻訳不可能だけどシェリー詩集もキーツ詩集も普通にあります。
さて翻訳とはその文化においてとらえられた内面世界の言語化だから別の言葉で移し替えることはできるわけです。もちろん生のまま同じではないわけだけど。
俳句も以下のように移し替えられます。英語圏の人はこの試みでそれなりに効果を受けるわけです。あたりまえだけど。
Old pond / Frogs jumped in / Sound of water.
The ancient pond / A frog leaps in / The sound of the water.
ハリー·ベン
An old silent pond… / A frog jumps into the pond, / splash! Silence again.
そして、では今の日本人がこの俳句でこの俳句が作られた時の日本語から当時の人が受けたのと同様の効果をこの言語から受けるかというとそんなことはない。漢詩がわからないのと同じくらい、この日本語で内面世界が喚起されるには知識と読み込みが必要です。
そうです。古典とは能動的に鑑賞するものであり、黙っていても感性でわかるものではありません。
ぼくの一連の試みは黙っていても感性が反応するように超訳するということです。
*ぼくの古文漢文練習帳より
【古い寺の古い池にたたずんで】
かつて幼いころ
わたしはこの寺の境内で
にぎわう祭りを眺めていた
若者たちのはしゃぐ声 かけまわる子供たち
語り合う年寄りたち
共同体の連面と続く息吹が空気を満たしていた
歳月が過ぎ 今
私の両親もあの時の若者たちも年を取り
人々は穏やかに減っていった
この世から去らないものたちは
村を出て 町に埋もれ街に溶けていった
今 この寺のお堂の奥の
古い古い池のほとりにたたずんで
もう濁って顔さえ映すことのない水面を
見るともなく見ては往時をしのび
失われた祭りの響きを懐かしむ
境内に動くものの気配すらない
僧さえ消えたのだ
するとふと視界の中に
緑色のカエルがあらわれた
わたしは過去のすべてをそのカエルに見ようとした
よくぞ生きていてくれた ここによくぞ生きていてくれたと
感謝しながらわたしの視線はやさしくなる
そのとき
カエルが池に飛び込んだ
突然
音を立てて
視界から消えた
後にはまた
思い出だけの廃墟とわたしという廃墟が残る
残されたわたしたちに
いつまでも
カエルの余韻が
水面を震わせた音が
消えることなく響いていた