前 口 上
[ドレフュス事件]
ある日フランス情報部のくずかごから何者かが砲兵部隊の機密をドイツに売り込む旨を記した文書が発見された。情報のリストが書かれたその文書は<明細書>と呼ばれた。
二一世紀の今日、事の顛末はほぼわかっている。発見者である情報部のアンリ中佐はその筆跡がエステラジー少佐のものであることに気づく。派手に暮らすエステラジー少佐には多額の借金があり、そのためのスパイ行為と思われた。しかしまたアンリ中佐もエステラジー中佐に借金をしており、便宜を計らざるを得ない立場であった。
アンリ中佐は情報部長サンデール大佐に報告した。
サンデール大佐は陸軍大臣メルシエ将軍に報告した。
メルシエ将軍は政府に報告したはずだ。
その流の中で誰一人真実を殉ずる者はいなかった。個人の都合と集団の面子で陰謀は進んだ。
犯人はユダヤ人ドレフュス大尉ということで意見の一致を見た。だが専門家による筆跡鑑定によればドレフュスを犯人にするのは不可能であった。
ところが鑑定家としてはシロウトの警視庁のベルティヨンはドレフュスの筆跡を崩すと間違いなく<明細書>の文字になると言い切った。
アンリ中佐もサンデール大佐の命令を受け、偽証を行った。
時の首相メリーヌは異議を申し立てる議会に対して「ドレフュス事件は存在しない」と白を切った。
軍部の全面支援のもと、ドレフュスは軍籍を剥奪され、裁判で終身刑を言い渡された。ドレフュスは国家の陰謀によって貶められ、存在そのものを隠匿されよとしていた。そしてドレフュスが槍玉に上がった理由はユダヤ人であるということ、それだけだった。
[わたしは告発する]
エミールゾラは立ち上がった。陰謀に荷担した一人一人を告発し、それぞれに自分を名誉毀損で訴えさせた。そして自分のその裁判の席で存在しないといわれたドレフュス事件について巧みに質問をし答弁をさせ、明るみに出した。人によっては、この事件が明るみに出たことにより、フランスはファシズムに走ることなく、自由を守れたという。十九世紀のフランスにあったナチズムの萌芽は摘みたられたという。だが戦いは厳しくゾラそれぞれの訴訟で敗訴し有罪判決を受け、やがてイギリスへの亡命を余儀なくされる
[死守すべき一線]
陰謀は明るみに出さねばならない。時が過ぎれば解決するし、屈辱に耐えればそれ以上の実害がなければ戦わない者も多い。しかし、それによって自由と誇りは失われるのだ。
どんなにくだらない土地のためでも、たった一人の国民のためでも、それが蹂躙されれば、無数の兵士の血を流してでも守り抜くのが国家の国家たる所以であるように、個人においても、その人生のどんな辺境の時間であっても、自由と誇りのためには心の地形が大きな変化を余儀なくされても戦わねばならぬ。
悠久の時間にすべてを委ね、変転の中にあって我が身も変転する生命の一つの単位であるという悟りに到達し、すべてを許すのは死を床における総括でいい。世に在る日々においては、対立もまた世界の本質であり、それは人の身には悲しい万物の性であるが、押し寄せる攻撃と戦い守りきろうという姿勢を維持せねばならない。それこそが生命誕生のプロセスそのもであり、外界との確執こそが生きているということそのものでもあるのだ。
[それは五年間]
五年の間悪魔島という監獄に閉じ込められたドレフュスの胸中いかばかりか。もう一生ここに閉じ込められるのだと思い続けた五年は永遠のようであった。兄マチュウはユダヤ人でさえなかったら、と嘆いたという。妻と生まれたばかりの子供も嘆きの日々を過ごしたのだ。
[単純過ぎる構造]
<明細書>を誰が書いたか、これがこの事件のすべてであってそれ以上でも以下でもなかった。たったそれだけをいじくりまわしたがために、わけのわからない騒ぎがおこったのだ。集団でごまかそうとすれば、はっきりとした事実もすべて嘘で通ってしまう。そして異議を唱えるものには百回立ての論理の城から大勢で攻撃を加える。だがいかに堅固な城であっても土台がただの嘘であるということに変わりはない。本来一吹きで消える城である。
[巨大な敵]
軍法会議の証人は敵側の駒。軍法会議の判事も敵側の駒。軍の中枢は敵そのもの。内閣も敵側の団体と化し、大統領は飾りだった。ナポレオン三世に直訴し、大衆の人気に酔いしれようとする皇帝が葵のご紋を振りかざすように大上段にすべてを解決する時代も終わっていた。ドレフュスは叫ぶがそれは暗い穴に吸い込まれるだけだ。巨大で狡猾な、軍人にあるまじき性根の敵。国を城に住む者たちはすぐに堕落するというのはゾラの中でも当たり前だった。敵にふさわしいともいえる。これが、本来個人を守るべき文化と文明の担い手との戦いであれば舌鋒は殺がれたかもしれない。まだ、敵と味方の位置がはっきりとする時代だった
[ゾラの葛藤]
エミール・ゾラはルーゴンマッカール叢書に没頭していた。第二のバルザックを強く意識し、食後にワインの代わりに水を飲んで創作が鈍らないようにした。そんな彼が彼の時代に世論を騒がせた冤罪事件に過敏に反応した。
「私は告発する」と叫ぶ。巨大な穴に吸い込まれる。敵は何もしなかった。ゾラとの議論を敵は控えた。そして国家らしく裏から手を回した。白日のもとで叫ぶゾラの足元を闇の中ですくうことしか考えない敵、やがて世論は納まり、ドレフュスはあきらめる。ゾラには吼えさせるだけ吼えさせる。しかし発言の場を与える新聞は締め上げられ、ゾラはついにイギリスに追い出された。国家相手の喧嘩をするには拙かった。敵は狡猾で、欲望で結束し、権力なら事実上すべてある。
敵を敢えて一人一人に分解すれば、下司、恥知らず、卑怯者、うそつき。百階建ての論理の城を作ってその威容を誇示し、その脇にドレフュスの涙を埋めてしまおうとしてもその土台を見れば子供でもわかるほどの、大人なら聞く者すべてが笑ってしまうほどの嘘があるだけだ。
だからあの軍人たち、裁判官、内閣、大統領はすべて下司、恥知らず、卑怯者、うそつきなのである。十九世紀に嘘をつくのはおよそこういう人々であった。
[共鳴]
「私は告発する」と叫びながらゾラは夢から覚める。同じ叫びを上げながらドレフュスも牢屋で目覚める。二人は毎朝同じ時間に同じ夢をみて同じ叫びを発しながら目を覚ます。ゾラはドレフュスに同じ夢を見ていると伝える。ほんのわずかでしかないが、ドレフュスの痛みを分かち合っていると伝える。この戦いはドレフュス一人のものではなく、すべてのゾラが結集していると伝える。
いずれの国、いずれの時代の人たるを問わず、苦しみ戦い、そして最後には勝つであろう自由な誇り高い魂のために、エミール・ゾラの夢は預言のように時間と空間に潜む。
国家から個人にいたるまでのあらゆる共同体、あらゆる同盟・連合の、計り知れない圧力から人々を解放するため、また共同体の仕掛けた魔法のような罠に個人が絡め取られることのないよう、ゾラの放ったひそかな爆弾は時がくればいつでも爆発するのだ
グループブログにて古代史の探求