なぜ俳句や短歌をつくるのか?
それは基本的に自分の心情を、世の中の出来事や自然の美しさに託して表現するとき、57577という枠組みに沿って書けるから、楽であり半ばゲームの楽しさがあるからです。俳句も575の中で同じことをやります。
この長さだと思想的なことは書けないから日本では古来、思想的なことは漢詩というこれまた五言絶句や七言絶句という枠組みの中で、半ばゲーム的につづられていました。
さて現在は、漢詩を作るための素養を持ってるのは学者さんくらいで一般人が作ることは不可能に近いです。
さりとて、短歌的なこと、俳句的なことでは収まらず、本来なら漢詩で書きたいことはたくさんあります。
すると、どうするかというと、明治以来の日本語では、これを近代詩、新体詩の形で表現するわけです。今私たちが目にする詩とは新体詩のことです。
さて、この詩なるもの、5行程度や10行程度書いても形の上では詩ですから、いくらでもその程度の長さの文章は書けてしまいます。
なので書くのが好きな人はほんとに毎日でも書いてそのままSNSにアップしたりします。が、SNSで素晴らしいなあと思ったのは、岩間さんと坪内さんとトミタカさんの3人が書いた詩だけでした。もちろん好みの問題もあるのですが同様にレベルの問題があるのです。
簡単に量をこなせるので、誰でも書ける。でも良い詩はほとんどの人が書けない。俳句や短歌は誰が書いても1年に1首から5首くらいはすばらしいものができたりしますが、詩はそうはいかず、下地のない人がいくら書いても決して良い詩はできません。
そもそも枠組みのない文章をアドリブと感だけで書いて、素晴らしいものができるわけはありません。小説でも詩でも、どれだけ本を読んだかによって相当創作は作用されます。というのは出だしにしても、次の行にしても、どんな意味の展開にするとか、どんな言葉使い、言い回しにするとか、どう暗喩を響かせるとか、こういうのは、自分の中に引出がないと、ほんとにつまらないものになるからです。いくら感性を磨いても、それは我流でいくらボールをけってもサッカーがうまくならないのと同じです。
なので、新体詩を毎日書くことなど不可能なのです。その詩の形式から作らないといけないのです。10文字くらい書いたら改行して、10行くらい書いたら感性というのは、ブログで、頻繁に段落つけながら何か書くのと同じで、それは詩ではありません。
ということです、ひとつの詩作品を完成させるには2週間はかかると思います。
しかしそうやってできた詩はぜひ読んでみたいと思います。
現在に生きる知ってる人の文学作品は、あるレベルをクリアすれば、本当に詩でも小説でも、古典に劣らず楽しめる読み物に間違いありません。
さてその読書ですが、たくさん読めばいいというものでは全くありません。一冊の中原中也しか読まないけど、もう100回は読んでいて、中原中也の詩の世界にいると幸せだ、とか、堀辰雄の風立ちぬのことならなんでも知っているとか、そういう愛読書、魂の愛読書が一冊でもあればいいのです。
詩は書くけど本は読まない、という人の文章の底が浅くなるのは、我流でボールをけり続けるサッカー少年の悲哀です。