名詩紹介
帰郷
柱も庭も乾いている
今日は好(よ)い天気だ
椽(えん)の下では蜘蛛(くも)の巣が
心細そうに揺れている
山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天気だ
路傍(みちばた)の草影が
あどけない愁(かなし)みをする
これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
心置(こころおき)なく泣かれよと
年増婦(としま)の低い声もする
ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云(い)う
名詩紹介
柱も庭も乾いている
今日は好(よ)い天気だ
椽(えん)の下では蜘蛛(くも)の巣が
心細そうに揺れている
山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天気だ
路傍(みちばた)の草影が
あどけない愁(かなし)みをする
これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
心置(こころおき)なく泣かれよと
年増婦(としま)の低い声もする
ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云(い)う
【初めて「カラマゾフ兄弟」を読んだ晩のこと 室生犀星】
私はふと心をすまして
その晩も椎の実が屋根の上に
時をおいてはじかれる音をきいた
まるでこいしを遠くからうったように
侘しく雨戸をもたたくことがあった
作品は書いてしまえば他人事です。その境地になるくらい真剣に書いたら批評など気にならなくなります。うまくなりたいとかほめられたいとかいうのは論外です。それは文学することと何の関係もありません。食事に来たのに食堂の床材を気にして楢材じゃなくちゃだめだ、桜が一番だ、なんでパイン材なんだ?どこの大工だ一体?だから工務店に頼むなと言ったのに。日本家屋の職人としての大工が創った床の食堂でないと食堂とは言えない。
と食堂で騒いで食事には目もくれないでいるのがきのう今日のサブローグループです。
作家の目でドン・キホーテを読んでみる
物を書いてる作家としてドン・キホーテを読むと多くのことを発見する。
あれは読み始めると1ページごとに爆笑するほど面白いのだが
一番重要なことはそこにあるのではない。
作家として読むのであれば
なぜドン・キホーテが近代小説の父になっているか
を意識して読まなければならない。
あれは、当時の、まさにアロンソ・キハーノが没頭した
騎士物語のパロディなのだということ。
本当は真面目に騎士が姫君に叙勲を受けて騎士となり、
冒険して悪と戦う、そういう世界なのにそれがねじれているのである。
完ぺきにパロディにして笑い話にしているのだ。
パロディ化するということは、前提として徹底的に対象化するということだ。
セルバンテスには誰よりも騎士物語のポイントがわかっており、
一番面白いつぼの部分を滑稽に焼き直しているからこそ爆笑するのである。
そして、しかしドン・キホーテ個人の中ではそれは滑稽でもなく
本人にとっては真面目な話なのである。
にもかかわらず、それは滑稽で悲惨である。
にもかかわらず爆笑するのである。