小説と詩と文学随筆と
第二話
「パパは病気で・・・?」
「交通事故で死んだんだ。ぼくが五歳の時だったらしい。パパのことはほとんど覚えてない。パパってどんな人だったってママに聞くと、一人きりでいる時にパパに呼びかけると、こたえてくれるから自分でたしかめてごらんっていうから時々一人になるんだ。こんなふうに誰もいないところを一人で歩いたりするのが一番いい。」
しんみりした声で、やさしく微笑んで陽一は尋ねた。
「パパはよくこたえてくれるのかい?」
「よくわかんなかい。空いっぱいにパパの顔が広がってるように感じることはあるけど、声は聞こえたことはない。でもね、ママには声が聞こえるんだって。ぼくも声が聞こえるようになりたいんだ。何回も何回も想像したから、聞けばきっとパパの声だってわかるような気がする」
父の声すら覚えていないこの子はその面影にとにかく触れたがっているのだ。
「今日はね。おじさんが遠くに見えた時、パパかと思ったよ。ちょうどぼくが向こうからパパが歩いてくるって想像した時に登場したんだ。びっくりしたよ」
少し照れながらどう返せば言いかわからず
「ママはどんな人?」と聞いた。
「ママはパパのことを話すとき、楽しそうじゃないんだ。ぼくと妹はママからパパのことをもっと聞きたいんだけど。ママはなんだか悲しそうでね。死んだ人のことを話すのはつらいことなの?」
この十歳くらいの子供が五歳の時というのは五年前だ。死後五年たってなお、生々しい悲しみや苦しみが残っているというのは、よほど無念な死に方だったのだろうか。
陽一はかがんで男の子と目線を同じにした。
「好きな人が死ぬってことは、おじさんは想像するしかないけど、きっとつらいことだと思うよ。きみもさ、考えてごらん。ママが死んだら悲しいだろう」
「うん」
陽一は大きくゆっくりと頷いた。
「きみはY高原には旅行で来てるの?」
「うん、夏には毎年ここに来る。おじいちゃんちがあるんだ」
「パパの方?それともママの?」
「パパだの方だよ。お墓もY高原にあるんだ。この道を登ったところ。ぼくお墓参りに行ってたんだよ」
「ママはここの出身じゃないの?」
「ママの方のおじいちゃんちはO市だよ。お正月にはそっちに帰ってる」
O市は陽一の故郷でもある。興味をもったがあまりそんなことを聞くのも野暮だと思って話を切り上げた。
「おじさんはこれから散歩だから、じゃあね。また会うかもしれない」
陽一は別れの言葉でこういうのが好きだった。
「さようなら。また会いたいね」
また会いたいね、いいセリフだと思った。そして、その少年は緩やかなカーブを描く林道を進んだ。朝日が後姿に当たって何かの啓示のように見えた。それを見送った後、陽一は自分の散歩に戻った。しかし、少年の印象は結構深く、その朝の散歩の間中、仕事やゴルフはそっちのけで、少年と死んだ父親と夫を失った少年の母親のことを考えていた。
ホテルのレストランは朝日に照らされ、食器やフォーク、ナイフも輝き、きちんと積み上げられたグラスに陽光が乱反射していた。気持ちのいい夏の朝特有の爽やかさがそこにはあった。
皆ゴルフウェアに着替えて、食事を摂っていた。このメンバーの朝食の好みは二つに分かれる。香山と米沢、北小路、多田は洋食系、陽一と向井が和食系だった。
北小路の右の頬にスペクトルが写っている。米沢が「虹がついてるぞ」と言って皆気がついた。その光源を探してみると、ちょっと離れたところのテーブルに光を曲げるグラスがあった。ああ、あれが作っているのかと見てると、そのコップを小さな手がひょいと持ち上げて水を飲む。さっきの子供だった。その子は祖父母と母親と妹と一緒に食事を摂っていた。
「ねえ、あそこにいるのは花房さんですよね」
北小路が驚いたように言う。
「甲斐と結婚したよね、確か」
向井が味噌汁を飲みながら返事をする。
米沢をチラッと見て言葉を足す。
「甲斐が死んで五年になるな、米沢、おまえあの時甲斐の近くに住んでたろう」
米沢は答えた。
「滑稽で悲惨な事件でしたね。葬式には敢えて行きませんでした。悲しんでる家族の姿が一生目に焼き付いてしまいそうで怖かった」
「おれは行ったよ」多田はオレンジジュースを飲んで、言った。
「奥さんはずっとうつむいたまま。子供は当時五歳と三歳だったかな。下の子はもちろん上の子も事態がよくわかっておらず、大勢の人が自分ちの人間に挨拶に来るもんだから、喜んでた。普段も、父親というのは起きてる間に帰りはしなかったから、その時点で父親がいなくなったとういのは、まだわかってなかったんだと思うよ。でさ。とても張り詰めた空気だった、あまりにも悔やまれる、馬鹿馬鹿しい死に方だったからな。居たたまれなかったよ。ただでさえ通夜だからね。それも三十七歳の人間の。それなのに輪をかけてああいう事故だったからね。あれは新聞にも出たんだろう、米沢」
米沢はうなずいた。よく覚えていた。ある日、会社で会議があり、その後同僚と飲みに行って十二時前に家に帰った。何気なく夕刊に目をやると、あの記事があった。深夜、帰宅した夫に向かって妻が遅すぎると怒ってドアを開けなかった。夫は仕方なしにファミレスででも夜を明かすつもりか引き返し、道路を横切るところで、暴走する車に跳ねられて死んだ。
滑稽で間抜けな話だと酔いもあって鼻先で笑った。翌日会社に行くと朝一番で同期の一人から電話があった。
「おい米沢、甲斐さんなんで自殺なんかしたんだよ。どういうことなんだよ」と米沢に向かって怒鳴る。
「甲斐さんが自殺って?」
「夜中に家を出て走ってくるトラックに身を投げたって言うじゃないか」
米沢はあの時、瞬時に夕刊の記事を思い出したのだった。
あれは甲斐さんと洋子の出来事だったのだ。とたんに、滑稽な場面が悲惨な場面に変わって、想像するのさえ忌まわしい出来事に変貌した。
香山が多田の話を引き取った。
「その後、奥さんは仕事を始めた」
そして五年たち、あそこにああしている。
(続く)