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自作の小説「ひと吹きの風が語るもの」第5話

第5話

 

米沢はY高原の偶然にかこつけて電話することは、少しもおかしなことではないと思った。

 

 Y高原のホテルで会って、個人的に言葉もろくにかけずに香山の後ろに突っ立てたことに対する謝罪と、偶然会ったことに対する感慨の言葉を今更ながらにかけるつもりだった。それでも電話器を前に幾分緊張した。とにかく受話器をとって番号を押す。やがて呼び出し音が鳴り、再びドキドキする。洋子が出た。名乗ると愛想よく挨拶してくれたので、ほっとして挨拶を返す。

 

 夜の八時だった。営業所の事務所にはもう米沢のほかに人はいない。がらんとした空間を煌々と照らす蛍光灯。無機質に時を刻むありふれた丸い時計。壁一面を使って張り出された営業部隊の個人成績グラフ。各種営業施策と保険規定の張り紙。一応米沢の個性で作り出した空間。米沢の城と言っていい職場。

 

 米沢はいつも自分の才能が開花し、ある時を境に生活は一変するという確信を持っていた。単なる夢想ではなく、そのための努力もしていた。がそれはもう一つ芯の入ってないがんばりで、一応向かうべき方向に時間を使っているだけと言ってもよかった。だが、とにかく行動していればいつかは滑走し続ける飛行機が飛び立つように、生活が次の段階に移ると漠然と信じていた。そして、同時に飛ぶには何かが足りないとも思っていた。

 

 久しぶりに会えて嬉しかったというような挨拶をした後で

 

「洋子、おれにできることがあったら何でも言ってくれ。すぐに駆けつけるからさ」と心のままを伝えた。

 

「ありがとうございます。米沢さんもお元気でね。死んじゃだめよ。ちょっと気をつければ死ななくて済むんだからね」

 

 重みのある言葉だった。

 

「うん」

 

「そうそう、ちょうどよかった。ちょっと聞きたいんですけどいいですか」

 

「もちろんさ、なに」

 

「いまどきのね、おもちゃのピッチングマシーンってどんなの?危なくないの?」

 

「昔から危なくはないよ。おもちゃだからね。柔らかいボールがポーンと飛び出るだけさ」

 

「そう、来週の土曜日が上の子の誕生日なんだけどね。ピッチングマシーンを欲しがってるのよ」

 

「じゃあそれにしてやりなよ。面白いよ」

 

「そうね、でも、もう他のを用意してるの。だからクリスマスにどうかなって思って。聞いてみたかったの」

 
 

 

 

 おれからのプレゼントだと言って持っていくよと洋子に告げると、それは困るとはっきりと断られた。なんのいわれもないと。男の子はピッチングマシーンで遊ぶと面白いものなのかということを知りたかっただけだと言った。

 

米沢は今さら洋子とどうこうという気はなかったが、洋子と会って、洋子の子供達と食事でもするのはなにやら楽しく思えとにかく持っていこうと決めた。そのうち、うまくすれば抱いたりすることもできるかもしれないと、漠然と考えていた。そして週末を心待ちにした。

 

 

 

 

 金曜日の午後の二時に保険料受領の記録をコンピューターのディスプレイでチェックしていたら、何か違和感を感じた。事務処理としては間違っていないのだが、何かが引っかかった。何だろうと考えていたらはたとひらめいた。職員の一人が休んだ時に、自分が十月分として代理に集金した分が九月分として記録されていた。こう言った場合はまず十中八九一ヶ月分が使い込みにあっているものである。

 

 たまたま、本人に伝えずに代理で集金して入金まで済ませたから、細工することができず、ここで一ヶ月のズレが生じたのだ。そして、ゴキブリではないが一件発覚したら、その職員は三十軒はやっているというのがこの業界の常識となっていた。

 

 したがって、その週末からその職員の入社以来五年分の全入金データを洗いなおすことになり、洋子を訪問することは断念した。できるだけ早く決着をつけるのだと固く誓ったのだ。

 

まだ仕事に集中したぎらついた目つきで、受話器を取って陽一に電話した。

 

「おれの代わりを頼みたいんだけど、明日空いてるか」

 

「わたしに出来る事でしたら。仕事でなければ人肌脱ぎますよ」

 

「礼を言うよ。で、ちょっと感想を言わせてもらいたいんだけど」

 

「なんですか」

 

「おまえ暇なんだな」

 

「なんですか、そりゃないでしょう」

 

「甲斐を知ってるよな、おまえ、事故で死んだ甲斐」

 

「ええ、夫婦とも知ってますよ。死んだ甲斐さんとは新任所長研修の時、最後のカリキュラムの《一週間営業所研修》が甲斐さんの営業所でしたからよく知ってます。その時、毎晩飲みに行きました。で、わたしが所長になって、同じ地区本部だったから、またよく飲みに行きました」

 

「あ、そうなのか。知らなかったよ。奥さんの方は会ったことある?」

 

「だいぶ昔になりますが」

 

 高校時代の彼女の妹だというと話しがややこしくなりそうだったのでそのことは黙っていた。

 

 

 

 

 

「あのさ、花房の奥さんとおれは本社のテニス部で一緒だったんだけどな」

 

「あ、そうなんですか。それってかなりびっくりしますね」

 

 米沢はちょっとためらって思い切って言った。

 

「甲斐の上の子が明日誕生日なんだよ。おれはさ、ピッチングマシーンを持ってってやるて約束したんだけど・・・代わりに届けてくれないか」

 

「そうですか」と少しまた驚いた風に返事して椅子に腰掛けた。割と急ぎの仕事があって、すぐに電話を切るつもりで受話器を取りに来て立ったまま話していたのだ。面白そうだからじっくり話しを聴こうと思った。

 

「わたしが届けていいんですか」

 

「だからおれはいけないんだよ」

 

「家族サービスですか」

 

「いやそれがさ」

 

と保険料使い込み疑惑について説明した。

 

「でもちょっとくらいいけばいいじゃないですか」

 

「おれのモラル、ポリシーが許さないんだ。公のことは絶対的に優先されべきだって体に染み付いてるんだよ」

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