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自作の小説「ひと吹きの風が語るもの」最終話

小説と詩の創作 文学随筆エセー

 

 その日の夜、陽一は洋子から電話をもらった。裕也を野球に連れて行って欲しいという依頼だった。そして二日後に、裕也自身からのお礼状と野球を楽しみしているという旨のハガキを受け取ったのだった。

 

 明日が裕也と野球観戦という日の夕方だった。陽一の営業所に香山本部長から電話が来た。陽一と向井は今回はずしたが次回を待てというようなことを長く話した。陽一は逆に次はないのだとはっきりと悟った。

 

 終わるとすぐ米沢からかかってきた。

 

「明日の野球よろしく」

 

腹が立って受話器を叩きつけるように切った。

 

 

 

 

 野球場は海のすぐそば、市を囲んで伸びている高速道路が海岸線沿いに大きくうねるようにカーブする場所にあった。鈍く光る鋼色の表面が、いかにも人工物という雰囲気をかもし出しており、陽一はそれが嫌でこの球場にはほとんど足を運んだことがなかった。

 

「でかいねえ」裕也は嬉しそうに大声で言った。周りの親子連れやアベックが微笑ましく目を向ける。階段を上り終えて振り向くと、埋立地の上に整備されて作られた町がある。その向こうに本当の町が広がり、それはかなたの山脈にまで続いていた。風が頬を撫でるように吹く。二人はドームの中へ入った。テレビ付きの喫煙コーナーや様々な店。デパートの内部のように至れり尽くせりの様子に、裕也は嬉々とした表情できょろきょろしていた。

 

 シートの番号を確かめて、その番号の記載された鉄の扉を開けるとフィールドの広がりが目に飛び込んできた。見事な人工芝のグリーン、背の高い外野のフェンス、巨大な電光掲示板、フィールドを覆う大きなドーム状の屋根、その屋根が今日は半分開いていて、そこから青空が天井に張り付いているかのように見えた。薄く小さな雲がゆっくり流れていて、空の奥行きを感じさせた。頬を撫でるような風が吹いている。

 

 自分たちのシートまで階段を降りていく。裕也は興奮を隠せず、両手を必要以上に振って一段一段をぴょんと跳ねるように歩いた。陽一は無機質で美しすぎる球場に抵抗を覚えながらも、空の青さと風の感触に昔ながらの野球場を思い出し、少しだけ嬉しかった。

 

 外野席では応援団が試合前に予行演習をやっていた。内野席も試合前の独特のざわめきがあり、これから始まるゲームへの期待が球場全体を満たしていた。

 

「こういうのって球場に来なきゃわかんないね」

 

「なんでもそうだよ。テレビじゃライブの迫力は出せないよ」

 

 目の前の選手たちの練習風景もきびきび動いて小気味よかった。単なるキャッチボールもその動作の俊敏さ、球のスピード、コントロールのよさが、やはりテレビでは感じられないことだらけで、そのことも裕也を喜ばせていた。優勝争いに大きな影響のある一戦でもあり、選手たちにもいつも異常に気迫が漂っていた。

 

 審判がプレイボールと叫んだ。裕也は身を乗り出した。陽一は持ってきたグローブをはめる。

 

「なんでグローブなんかはめるの?」

 

「メジャーじゃ皆こうするんだよ。ファールが来たら取るんだ」

 

 ライオンズの先発は球界の若きエースと呼び声高い、裕也のピッチングマシンの箱に、大きく顔写真の載っていたMだった。対するイーグルスはベテランの軟投型ピッチャー、Yだった。サイドスローからのシンカーと大きく縦に割れるカーブが武器だった。

 

 試合は投手戦となったライオンズのMは決め球の速球が走っていた。電光掲示板に百五十キロを越える表示が現れる度に、球場全体がどよめき、大きな拍手が起こった。Mはイーグルスから三振の山を築いていった。

 

 イーグルスのYは速球こそ百三十キロ台だが、頭上から足元まで落ちるような、百キロそこそこのカーブの曲線が美しく、たいていパンサーズの打者はタイミングをはずされそのカーブは見逃し、カウントを稼がれた。そして、決め球のシンカーの切れはよく、内野ゴロが多かったが三振も奪っていた。玄人好きするのはYの方で、芸術的な投球内容だった。

 

 どちらのピッチャーも相手打線をきりきりまいさせていた。胸のすくような投球内容だった。

 

「こんな時はホームランがゲームを動かすんだよ」

 

「全然打てそうにないけどね」

 

 球団旗とリーグ旗、それに去年ライオンズが勝ち取ったチャンピオンフラッグが風に揺らめいていた。その三本のポールの影が、外野からセカンドベースのあたりまで伸びてきた頃だった。それまで三振していたイーグルスの外人バッターが、出会い頭にMのストレートをスタンドに運んだ。ボールはピンポン球のように軽くはじき返されたように見えた。

 

 

「すごいね、外人のパワーは、テレビじゃわかんないね」

 

「今のはまぐれだよ、見切って振ったんじゃなくて、振ったらあたったんだ。でもああいう思い切りのいいスイングをするからまぐれでもホームランになるんだけどね、その点、日本人選手には豪快さがないね」

 

「あの外人はメジャーだったんでしょ。メジャーで通用しなくなったから日本に来たんだよね」

 

「打つだけなら今でも十分通用するよ。守備がね、もともとうまくないし、足が遅いしね。メジャーじゃ三拍子そろってないとなかなかね」

 

「でも日本だったらさ、ああいう外人だけでチーム作ったら優勝するよね、きっと」

 

「だから外人枠なんて作って人数を制限するのさ、いろいろ理屈つけて」

 

球場はどよめいていた。だがそのあとに続くバッターをMはきちんと押さえた。

 

 その裏、ライオンズの外人バッターTが、Yの芸術期なカーブをしっかりとためてフルスイングした。ライナーでライトに飛び込んだ。球場中が拍手と太鼓の音で震えた。

 

「あれは実力で打ったちゃんとしたホームランだよ」

 

「うん、ぼく外人の一発って、まぐれでも実力でも好きだな」

 

 陽一たちのすぐそばで二、三十人くらいの子供たちが大喜びしている。「《Tズボックス》だよ」

 

「ああ、施設の子供のためにTが年間予約している席だね」

 

「おじさんは不思議に思うんだ。どうして日本人選手はああいうことしないのかって」

 

「でもぼくのこの席は三島ボックスだね」

 

「そうだね、年間予約じゃないけど」

 

「ぼくこうやって野球の話をしながら野球場で野球を見たかったんだ。ママさ、野球って言えば、ホームランとファールがわかるくらいのものなんだ」

 

 

 

 

 米沢からチケットが送られて来た時、陽一はすぐにチケット代を振り込んだ。代理として行く気分じゃないのでと米沢に伝えた。そして、裕也が喜ぶなら、時々一緒に野球を見ようと思ったのだった。

 

試合はその後また投手戦に戻った。両投手ともホームラン以外は完璧なピッチングだった。一発づつホームランを打たれたことでなお一層注意深くなり、付け入る隙を与えなかった。緊迫度は嫌が追うにも増していき、内野手も外野手も素晴らしい守備を見せた。

 

一対一迎えた九回表、イーグルスは勝負に出た。

 

 先頭バッターがファーボールで出塁すると、代走が出た。次のバッターの初球で盗塁した。きわどいタイミングながらセーフ。そして、次のバッターが二回続けて送りバントを失敗した後、意表をついた盗塁でサードに進塁。ノーアウト三塁とした。

 

「ピッチャー交代だね、ここが勝負の分かれ目だよ」

 

「勝負の分かれ目だけど、ピッチャーはかえないよ。ここでMがふんばって剛速球で三振にとるのをファンはみにきてるんだよ。ぼくはMのままがいいな」

 

 Mが続投した。全力を振り絞ってのストレートだった。二回バントを失敗したバッターは鋭く振り切った。ファール、その打球は陽一たちを目掛けて一直線に飛んできた。陽一はグローブでバシッとキャッチした。

 

「すごい」

 

「な、グローブは必要だろう」

 

それから八球ファールした。その間、カーブやフォークがはずれてツースリーとなった。自分の一番自身のあるストレートしかないと思ったMは渾身の力で投げた。バッターはちょこんとバットを出した。すると球速のせいでそれはふらふらと外野へ伸びていった。そして、ライトが一度バックして全力でダッシュ。その勢いでボールを取るやバックホームした。タッチアップしたランナーは、代走要員だけあって足が速かった。ホームはきわどいタイミングだった。

 

アウトのコール。裕也は立ち上がって「やったー」と大声を出した。歓声と拍手の渦が球場を駆け巡った。

 

「野球の醍醐味だったね」と陽一。

 

「あのライトはすごいね」

 

「来年はメジャーに行く噂があるね」

 

「メジャーでも通用する?」

 

「うん、きっと。でもなんだか日本の野球はメジャーの二軍みたいになったね」

 

 今になって思えば、と陽一はふと思った。日本の保険業界もメジャーの二軍だったんだ。

 

 ツーアウトランナーなしになって気が緩んだに違いない。その辺のピッチャーの気持ちのコントロールは本当に難しいのだろう。なんとMは興奮さめやらぬパンサーズファンの見守る中、初球に気の抜けたストレートを投げ、スタンドに運ばれたのだった。どよめきがスタンドを覆い、ほんの小さな一角に陣取るイーグルスファンが狂喜している。一対二になった。

 

「うそみたいだね」

 

「ねえ、せっかく気迫のこもった球でツーアウトにしたのに」

 

「作戦も何も関係ないね。ホームランって」

 

 ようやくチェンジになってイーグルスは押さえの切り札を出してきた。

 

「普通ならもうだめだよ。セーブの成功率は九割五分以上だから、十回やったら一回も失敗しないピッチャーだ」

 

「でもホームランはセオリーをこえるから」

 

 

 

 

 

 中々味のあること言う子だと思った。ツーアウトになった。さすがリーグのセーブ王だけのことはある。ショートフライと三振。打てる気配すらない。

 

 さっきランナーをホームで刺したライトがバッターボックスに入った。そして初球、ぼてぼてのショートゴロ。ゲームセットと誰もが思ったが、矢のように一塁ベースを走り抜け内野安打になった。

 

「さすがメジャー候補だね」

 

「内野安打王だな」

 

そして次のバッターは四番の外人。初球をスタート、盗塁成功。二球目。まさかと思う場面での三盗。九回表のお返しのような展開に球場は盛り上がり、セーブ王の心理に微妙に影を落とした。

 

「すごいね、メジャーの走塁だね」

 

「メジャーにも中々いないんじゃないか」

 

ちょっとむっとしたセーブ王の3球目のフォークは高めに入った。弾丸ライナーでレフとスタンドに突き刺さった。肩を落とすセーブ王。拍手しながらゆっくりホームを踏むメジャー候補。そして右腕を高く上げながら、二塁ベースを回るもとメジャーリーガー。スタンド中がお祭り騒ぎだった。

 

 陽一と裕也も立ち上がってずっと拍手していた。そのうちライトの応援席で万歳の掛け声が起こり、スタンド中で万歳三唱となった。イーグルスの応援団は残念そうだったがいい試合に満足もしているようだった。

 

「運がいいよね、ぼく。はじめて来てこんな試合を見れるなんて」

 

「最高の試合だった」

 

 サヨナラ勝ちの興奮は球場の外まで続いた。駅に向かって続く行列は皆、その興奮に包まれて、あちこちで賛嘆のどよめきが消えなかった。心地よい気分で陽一と裕也は歩いた。駅に着くと改札の前でライオンズの応援団の一派がまた万歳三唱をしていた。

 

 

 

 

 電車が動き出してしばらくすると裕也は眠った。何回かの揺れの末に、陽一の方に頭を乗せて熟睡した。陽一は裕也の重みを肩で受け止めていた。陽一自身も睡魔に囚われ、うとうとしかけた時だった。その低く太い声はあまりにも唐突に、聞こえてきたのだった。

 

「三島、おれのことを気にして、洋子への自然な気持ちを押さえつけるなよ。おれが不幸な死に方をしたからといって、それで残った家族を縛りたくはない。おまえが裕也に感じている気持ちを持ち続け、もしかしたら昔から心のどこかに在って、今洋子に対して生まれかけている気持ちを育てれば、やがて洋子もおまえの手を取るだろう。裕也はおまえを慕ってるし、美加はおれの記憶さえないから、自然におまえの娘になる。おまえが自分で気持ちを押さえつけなければ、洋子も心を解放するだろう。おれの死がかけたあいつへの呪縛を解いてやって欲しい。

 

 おまえがあいつらと一緒になってくれれば、おれがかつて夫であり父であったということも大事にしてくれるだろう。おれの不幸な死に遠慮して欲しくない。死に方が不幸であればなおのこと残った家族の幸せを祈るものなんだ」

 

 夢うつつの中で、陽一ははっきりと聞いた。声のした方を見ると裕也がいるだけだった。父の形見のライオンズの帽子が小さな頭を覆っていた。水筒とトレーナーはスヌーピーがバットを振っている絵が載っている。靴は子供用のスニーカーで、全体を通して母親のセンスの良さがわかる。瞳を閉じて、気持ちよさそうに眠っている。この眠りの中から、今の声は現れたのだった。

 

 電車が着いた。裕也を起こさず、おんぶした。そして駅の人込みの中を歩く。

 

「パパ、だね。キャッチボールしてほしかったよ、ぼくはずっと待ってたんだ・・・」

 

 寝言が耳元から聞こえた。子供らしい声だった。

 

「これからはおまえがキャッチボールしてやってくれ」

 

今度は陽一の内部で甲斐の声がした。

 

 陽一は驚かなかった。この声の中に一つの確かな願いがあるのだということで、胸が一杯になった。

 

「おじさん」

 

と今度は裕也の声が話しかけて来る。

 

「おじさん、ぼくね。パパの夢を見てた。長い間見てたような気がする」

 

少し声を詰まらせて陽一は応えた。

 

「おじさんも、きみのパパの夢を見たと思う。いや、はっきりと見た」

 

「おんなじ夢かな」

 

「きっとね」

 

「そうだったらとってもうれしいよ」

 

「おじさんもさ」

 

裕也の体に染み込んだ日光の匂いがはっきりとわかるような気がした。野球場に吹く頬を撫でる心地良い風を背中に感じていた。香山や米沢のことも、会社の行く末のことも遥かかなたにあった。それらは今、一吹きのそよ風ほどの価値もなかった。

 

 陽一は裕也をおぶったまま、洋子の家へゆっくりと歩いて行った。

 

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