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自作の小説『祖父の時計』|灯台 戦争 結核 ペルー らむぷ掲載

母方の祖父は村で一番貧しい家に生まれて、七十八年後に最も裕福な人間として死んだ。

 

わたしが小学校に入学して間もない頃、祖父は入院した。直らない病気にかかってしまったので、病院からもう戻っては来ないのだと母から教わり衝撃を受けた。それは、その事実に対してはもちろんのこと、祖父が自らの死をはっきりと知っていたことへの幼い驚きでもあった。入院する少し前、二人で連れ立った最後の散歩で、祖父は自らの間近に迫った死を厳かにわたしに告げていたのである。

 

慌しく祖父の死は我が家にやって来た。

 

梅雨入りしたばかりのある朝、大人たちの騒ぐ音でわたしは目が覚めた。玄関がけたたましく開けられ、担架に乗せられた祖父の遺体が運ばれて来ると、危篤の報に二、三日前から帰郷していた大勢の親戚が、あちらこちらでばたばたと動きまわり、また声を張り上げた。祖父の死に際に付き添い、連日夜間を病院で過ごしてぐったりとした祖母が、後に続いて入って来るとようやく皆落ち着き、騒ぎが収まると今度は家の中は静まり返ってしまい、そのことが一人一人に祖父の死という事実を真摯に受け止めさせることとなった。

 

わたしは、祖父の遺体が一日自宅に安置されていた時、祖父だったその「もの」に神秘を感じていた。死の威力の前に悲しみはまだ生まれていなかった。むしろ一番関心があったのは枕元に置かれた包丁だった。それを不思議そうにじっと見ていると、母から、魔物がおじいちゃんの霊をさらっていかないように置いてあるから、そのままにしておくようにと注意された。それは祖父を守っているのだなと深く感動し、夜になっても何度も何度もその包丁を見に行き、枕元に魔物がいないか目を凝らした。

 

翌日、祖父の遺体は神妙な手つきで裸にされて、全身を湯で洗われ、髪や髭を剃られ、爪もきれいに切りそろえられた。あの世への旅立ちなので、身なりを整えるのだという話にわたしは妙に納得した。それらの儀式の一連の流れは、あの世が存在するという大いなる仮想の上に成り立っていたわけだが、その中にどっぷり浸っていると、少なくとも遺族にとってあの世は明らかに実在していた。わたしたちの誰もが、祖父というものが完全に消えてしまって、後には無が残っただけとは考えていなかった。

 

身支度を終えた祖父は近所の寺に運ばれた。棺は村のしきたりに従い、白装束に脇差で身を固めた八人の男たちが肩に背負った。その後を親族一同付き従うのである。そして村中の者が通りに出て、その行列を見守り、通り過ぎると親族のあとに続いて寺に向かう。そして、最後にはかなり長くなる行列の周辺で、子ども達がお祭りででもあるかのように走ったり、指差したり、笑ったりして騒ぐのである。

 

このようにして一人一人の死を、村を挙げて見送っていた。

 

寺の中ではお経の声が浪々と響き、線香の匂いが立ち込め、葬儀はつつがなく執り行われた。参列した大勢の村の人達の見守る中、親戚一同火葬場行きのバスに乗った。祖母と長男の人のいい伯父が霊柩車に乗った。

 

  火葬場で祖父の棺桶が炉の中に入れられる直前、母の十二人の兄弟たちが祖父の顔を覗き込んで別れの言葉をかけた。おじやおばたちのただならぬ叫び声があった。そして炉の中で炎が遠くの雪崩のような音を立てた時、彼らの鳴咽が始まり人のいい伯父は号泣した。その場の雰囲気はわたしの心から一切の見得や外聞を取り除くと同時に、死というものの大きさを改めて感じさせた。わたしは自分の気持ちに正直に、尽きることなく涙を流し続けたのだった。

 

  やがて、わたしは母に連れられて外に出た。その日は曇っていたが、祖父が燃えている間は、不思議と日が射していた。どんなに雨が降っていても、火葬の間は止むのだと聞いたことがあった。その天の配慮のような現象に心を打たれた。

 

母は、煙突から立ち上る煙を指差し

 

「おじいちゃんが天国に昇って行く」

 

とわたしと姉に言った。わたしたち子どもは、死んだ人が火葬場の煙の中で、スキップしながら嬉しそうに空のかなたに登って行く話を、しょっちゅう聞いていた。いよいよ自分の身内が、燃やされる時、わたしは目を凝らして煙りの中に祖父を捜した。が、ついにわたしには祖父が煙の階段を駆け上がる姿を見つけられなかった。姉は、そんなわたしに自分ははっきりと見たと言った。

 

  やがて、祖父は燃え尽きて、炉から引き出された。そこには棺桶もなく、ただ巨大なフライパンのような台に祖父の骨が広がっていた。それを見て、また皆で泣いた。しかし、それは点火の際とは違って、すでに完全に死の側に移ったことを認める、穏やかな気持ちの整理のような涙だった。

 

  特に人の形の広がりをしていたわけでもない。まさにただ骨があった。その場の誰もが祖父の変わり果てた姿としてではなく、死んだ後人間が辿る自然の変化としてそれを受け入れていた。そこには忌むべき感も不浄の感もなかった。

 

 皆で骨を集めた。

 

  大きな固まりがあるたびに、骨守りの異名をとるおばあさんが解説をしてくれた。

 

「これは間接の骨である、ほれ、ぼろぼろになっているだろう、年をとってずいぶんといたんでいたのだ。これは喉仏の骨である。これはその人の体の中に宿る仏の居場所である。ほら、みてごらんなさい。大きくまろやかな形をしている。この人の中にはいい仏さんがいらしゃってたんだ」

 

皆で感心して聞いていた。そして、長い時間かけて一つ一つ骨を箸で壺に収めていった。この壺を墓に納めるのだと聞いて、わたしの父方の祖父母の墓は、骨を収めてないから借り物なのだという話を思い出した。

 

  火葬場から家に戻って、これで一通りの死の儀式が終わったので、親戚の多くは自分の家に帰る用意をした。そして、祖父の生前の愛用品の中から、祖母が要らないといったものを、おじやおばたちが形見分けと称して、帰り支度のバッグに入れていた時だった。大黒柱にかかる大きな時計を一番年上の伯父が譲り受けたいと言い、祖母が、長男のお前がそれを持って行くのがいいだろうが、自分が生きている間はこの家において置くと返事をしているのが聞こえた。

 

  わたしは時計にしがみついて

 

「ぼくにくれると言ってた」と叫んだ。

 

大人たちはわたしのあまりの抵抗に驚いていた。とりあえずその話はそのままになった。誰もが祖母の死後のことを想像するのは嫌だったのだ。第一幼いわたしはその未来の時点では、時計のことなど気にもしていないかもしれない、大人たちはそう考えたのだと思う。それに母の兄弟はほとんどが九州を離れ東京か大阪で暮らしていたから、三十三人の孫で祖父が愛情を注いだのは、同居しているわたしと姉だけだったと言ってもよかった。そしてわたしが、つよく祖父を慕っていたという事実は皆に深く知れ渡っていたので、わたしの、大人からみれば単なるわがままは、それなりに尊重されたのだった。

 

伯父はしかしなおしばらく時計を眺めていた。そして何度か「親父の時計だ」と自分に言い聞かせるようにつぶやいては、大きくうなずいていた。目には涙が溜まっていた。

 

  その柱時計は、長さが一メートル近くあった。周囲には丁寧な細工が施され、アラビア数字もほどよくデザインされ、くっきりと浮き上がるように見えた。ちょうど六時の個所、6の字の丸の部分にネジの差込口があった。歳月が磨きをかけた金色の振り子が止まることのないように、寝る前に母がネジを巻いていた。時計の下部にネジを収める所があり、子どもは触ってはいけないことになっていた。

 

 わたしはその時計が一時間おきに告げる、ゆるやかな時の流れの中で幼年時代を過ごしたのだった。

 

 

 

 

  外国航路の船乗りだった父は、三、四ヵ月に一週間くらいの割合で家に帰って来た。日常的には父の存在はまったくなく、幼いわたしと姉にとっては、その帰宅は祭り以上にめでたく、何にも増して待ちわびているものであった。

 

  祖父は父親代わりにいろいろなことを教えてくれた。男としての義務だと感じていたのかもしれないし、男同士、気が合ったのかもしれない。

 

  たとえば独楽の回し方、凧のあげ方、メンコのやり方、竹馬のやり方、など一通りの男の子の遊びを教わった。そしてまた、男のご飯の食べ方、男の風呂の入り方、男の歯の磨き方、男の顔の洗い方、そして男の昼寝の仕方、殴り合いの要領、いささかふるめかしくもあったが、わたしは母と姉のきちんとしたやりかたより、祖父の荒っぽい振る舞いの方が好きだった。この点については母はいささか不満気であったが。

 

母に内緒で小遣い銭をもらったり、おやつをもらったりもした。それらは二人だけの秘密だと言いながらも、すべて母には筒抜けだったらしい。

 

いろんな形で祖父にかまってもらっていたが、一番好きだったのは自転車に乗せてもらって行く散歩だった。ずいぶんと連れ立って出かけたらしいのだが、物心ついてからの記憶としては数えるほどしかない。おそらくは、わたしの成長に反比例して、祖父が徐々に健康状態を悪くしていく中、体力的に厳しくなったのと、わたしを連れていって姉を連れて行かない不公平さを母に指摘されていたのも関係したと思う。

 

  小学校に上がってまだ間もない、ある日曜日だった。わたしは、柱時計のネジ巻き用の鍵を勝手に取り出して、巻きすぎてネジを壊してしまい、母にこっぴどく叱られた。鍵を収めている所に手が届くようになったので、授業で時計の見方を習ったこともあり、自分もこの大きな時計のために何かしたくなったのだった。祖父は修理すればいいと笑ったが母はけじめをつける必要を感じたのだった。

 

ひとしきり 怒鳴られて落ち込んでいるわたしに、祖父は散歩に行くぞと声をかけてくれた。そして普段は和服で過ごすのだが、自転車をこぐために洋服に着替えた。祖父の唯一の洋服は背広だった。ネクタイは緑がかかった柄のものが多かった。ワイシャツにスーツを羽織った祖父は普段とは別人のようで格好よく見えた。わたしは時計のことを謝りながら恐る恐る自転車にのった。 

 

  わたしの故郷は河口の港だった。海岸線沿いに山が迫り出しており、海と山の両方の自然がすぐそばにあった。だから潮の匂いを嗅ぎながら、森から吹いてくる風がわかったし、木々の枝がたてるざわざわという音を聞きながら、波の奏でる様々な海のざわめきも感じた。わたしは海の子であり山の子であった。人々は海の民であり山の民であった。海に行けば魚や貝や海草がいくらでも取れたし、山に行けば木の実や草花がいくらでもあった。縄文風に暮らせば、千年でも豊かに穏やかに日々を過ごすことのできる場所だった。

 

  実際に江戸時代まで水田が作れる耕地がないし、人口も少なかったので年貢は免除されていた。当時の藩政は鷹揚であり、一定の枠内であればほとんどのことには例外があり、同情や温情からの目こぼしがあり、人は朝起きて夜寝るまで、つまり生まれてから死ぬまでを、ゆるやかなテンポで過ごすことができた。温暖な気候と海と山の幸の恩恵に他ならない。藩政に携わるものたちの気分もそれらに影響を受けていたのである。

 

  だが、明治以降はこの小さな世界の自然に、人々はみずからの心を調律することが許されなくなった。心は日本全体、それも地球儀の上の日本全体の状況に適応することを強要された。鷹揚な「お上」は消え、明確な意思を持った「支配者」が、あぜ道に大道を築こうとした。その流れの中で、村の人々も自分達だけで生きていくことはできなくなった。多くの人が村から出て行った。

 

  我が家から海沿いの道までは目と鼻の先だった。自転車がその道を走り出すと、左側に山が切り立ち、赤い実をつけた枝や、生い茂る緑が次々に現れる。真っ赤な葉をつけたはぜの木がところどころにあり、それらはかぶれるから決してさわってはならないと日頃から厳しく注意されていた。

 

そして右側には海が広がる。一年を通じて、その青は山の変化する様々な色合いを際立たせつつ、時には鉛色にうねり、時には寒気の中一面に水蒸気が上がったりもした。わたしはこの海が好きだった。この海は世界のどこかを航海中の父と、直接つながっていた。海に向かって話しかければ、それは父への言葉となるのだった。 

 

その日、海は真っ青だった。

 

「今日はおじいちゃんの時計のためにすまんかったなあ」

 

ゆっくりとしたスピードの中で前から祖父の声が聞こえた。風を切りながら走る自転車の後ろからわたしは大声で返事した。

 

「ごめん。一杯巻くものだと思ったんだ」

 

「いいよ、わかってる。お母さんはお母さんで、おじいちゃんから昔、まだお母さんが子どもの頃に教わった話を覚えてて、時計が大事なものだと思ってるから怒ったんだよ。おじいちゃんのために叱ってるからなにも言えなかったけど、おじいちゃんはあの時計が壊れてしまってもそれはそれでいいと思ってるんだ」

 

  祖父の声はぼそぼそだったにもかかわらず、自転車の前と後ろでもよく聞こえた。わたしも今度は大声を出さなかった。

 

「壊れるとは思わなかった。ぼくだってびっくりしたんだよ」

 

ちょっとべそをかきそうになってわたしが言うと

 

「わかってる。大事な時計だからネジも巻きたかったんだってことも知ってる」

 

「ありがとう」

 

  それからしばらくは無言で走り、二人は海と山の風景の一部になった。

 

  やがて大きなカーブを過ぎると海のかなたに四国が見えた。海岸には使われなくなって放置されたままの朽ちた古い灯台があり、河口の中ほどの建固な赤い灯台が、今はその役目を果たしているのだった。

 

「達也、おじいちゃんが昔船に乗って荷物を運んでいたことは知ってるな」

 

「うん」

 

海風は心地よかった。涙が乾いた後の頬を優しく撫でていた。

 

「あの赤い灯台はおじいちゃんの寄付でできたんだよ。それまではそこにある古い灯台を使っていた」

 

「うん。知ってる」

 

  祖父はあの時茶目っ気たっぷりの顔をしていたと思う。何十年も家族に秘密にしていたことをわたしに教えようとしていたのだ。

 

「おじいちゃんは若い頃貧乏だった」

 

「うん、知ってる」

 

  祖父はおおらかに笑った。自転車はゆっくりと走っていた。大人達はそれぞれの持ち場で働いていた。しかし、ここにはただ、海と山に囲まれた陽光の中、何の約束もなく、すっぽりと空いた時間がゆるやかに流れているだけだった。

 

  祖父は自転車を止めて赤い灯台を見た。

 

「こんなに近くで見るのは久しぶりだな。もうあの赤灯台自体、年月がたって古くなった」

 

感慨深そうに言った。

 

「今日はあの時計がどうしておじいちゃんにとって特別に大事なのか、おまえに話してやろう。おまえのお母さんがおまえくらいの時に話したことだ。お母さんはその話をよく覚えているんだよ」

 

 

  道には自動車というものは走っていなかった。舗装されていないあぜ道が海と山を区切っていた。沖合いに船が三隻停留していた。

 

「おじいちゃんがおばあちゃんを好きになった頃、おばあちゃんの家はお金持ちでね、昔はおじいちゃんのように食べるのがやっとの若者はそういう家の女の人とはなかなか一緒になれなかった。だから駆け落ちと行って、親に黙って二人でどこかに逃げて行って結婚する人たちも多かった。でもおじいちゃんは逃げるのは嫌だったから、ある日おばあちゃんのお父さんに結婚したいから娘さんを下さいって、頼みに行ったんだ」

 

  これは初めて聞く話で六歳のわたしにも面白そうな話だった。

 

  祖父の声はぼそぼそだったがとても優しく感じた。そよ風が枝を揺らす音のように、自然で無理のない声だった。

 

「あの日のことは今でもよく覚えている」

 

祖父の長い話が始まった。

 

「仕事が終わって夕方、おばあちゃんの家に行っておばあちゃんのお父さんに会った。おじいちゃんは家で一番上等な服を着て行った。おばあちゃんのお父さんは普段着で出てきたけど、それでも向こうの方が全然いいんだ、それだけで気後れしそうになったけど、一世一代の大勝負だったし、今さら後には引けないし、とにかくがんばって言うことを言った。                     

 

でも向こうは言うことは決めていたらしくてね。おまえのような文無しに娘はやれない。帰ってくれと、冷たく目も合わさずに言われたよ。おじいちゃんは、玄関の土間に座り込んで、おばあちゃんのお父さんを食い入るように、にらみ付けるように見てね。じゃあ、金持ちになったらいいのかとそれだけ聞いた。それだったら反対する理由はないと、今度は目を合わせて言ってくれたんで、じゃあ成功してまた来ると言っておばあちゃんの家を後にした。おばあちゃんは二人のやりとりを奥の方で聞いてたそうだよ。本当にはらはらしたって言ってた。成功したらまた来ると言っておじいちゃんが出て行った時は、もうこれっきり会えなくなるんじゃないかと、悲しくなったそうだよ」

 

  祖父は自転車からわたしを降ろして、二人で海岸線に下りて岩の上に座った。もう涙はとっくに乾いて、泣いたことすら忘れかけていた。祖父は煙草を取り出して火をつけようとした。

 

「あっ、おじいちゃん、煙草吸ったらいけないんでしょう」

 

「おばあちゃんとお母さんには内緒だよ。病気でも煙草は吸うものなんだよ」

 

「どうして」

 

「そのほうが気持ちがよくなって病気が治るんだ。何でもかんでもがまんしても、気持ちが萎えて病気が重くなることもある」

 

「へえ」

 

わかったようなわからないような話だった。

 

  すでに祖父は大きく煙りを吸い込んで、気持ちよさそうに一気にそれを吐き出した。風に煙りが飛ばされる。

 

「おばあちゃの家を出て、海岸沿いを歩いて家に帰った。その日は見事な満月でね、おじいちゃんはお月様を見ながらいろんなことを考えた。お月様が心の鏡のように感じたよ」

 

「どういうこと」

 

「ほら、鏡を見たら自分の顔が見えるだろう。いろんな表情を作るとその通りに映るだろう。怒った顔、悲しい顔、優しい顔、嬉しい顔、困った顔、なんでもその通りにね」

 

「うん」

 

「心も同じだよ。お月様に自分の心を映してたんだ」

 

「怒った心、悲しい心、優しい心、嬉しい心、困った心、だね」

 

「そうだ、おばあちゃんと結婚したいっていう強い気持ちとか、そのためにこれからたくさんたくさんがんばるぞっていう気持ちとかね。そういうのがお月様に映っていたんだ。おじいちゃんは今でもお月様をみるとあの時のことをはっきりと思い出すよ」

 

「ふうん」

 

「少しして、おじいちゃんは船大工さんのところに行って頼み込んだ。お金はあとで返すから自分に船を売ってほしいと。もしその船が沈んだらどうすると言われたから、もう一隻売ってもらって働いて二隻分返すと言った。そしたら、その船が沈んだらどうすると言われたから、もう一隻売ってもらって三隻分返すと言った。その返事が気に入られて船を売ってもらったんだ。その頃は大きな戦争がヨーロッパで終わったばかりで、物不足なのに自分の所で十分に用意できないヨーロッパの人たちは、日本からもたくさんのものを買ってくれた。それで、日本はお金持ちになってたんだ、だからその船大工さんも余裕があって、おじいちゃんに投資してみようと思ったんだね」

 

「投資って?」

 

「信用してお金を貸してくれることだよ。いや、あの時は信用なんてなかったから、気に入られて貸してもらったんだな。長くそう思っていた。

 

でもね、本当はおばあちゃんのお父さんが、裏で手を回していたのかもしれない。後になって、そうじゃないかと思えるようなことに気づいたんだけどね。おばあちゃんのお父さんは最後まではっきり言わなかった。おじいちゃんが一人で何とかしたと思えなくなるようなことがあってはならないと考えていたんだろう。おじいちゃんも自分が人の親になってよくわかるようになった。最後までおまえが一人でがんばって成功したんだとだけ言ってくれていた」

 

  わたしには祖父の言葉の全部はわかりはしなかったが、ニュアンスは声と顔と雰囲気でほぼ正確にわかった。

 

「おじいちゃんは次々に航海に出た、それもできるだけ早くお金持ちになりたかったから誰もやらない危険な仕事ばかりを引き受けた。 おばあちゃんは危ない仕事は引き受けないでほしいと言った。船さえ手に入れば後はこつこつがんばっていればお父さんも認めてくれるだろうからと言った」

 

  当時、九州から関西に向かっての海上輸送は物流の大動脈だった。船さえあれば、十分に商売になった。だが、人と同じようにやっていては人並みの結果しか出ない。祖父は人のやらないような危険な仕事を積極的に引き受けた。また人が五日航海して二日休むところを四日で航海して一日しか休まなかったり、常に頭一つ抜けようと努力を重ねた。

 

「続けざまに危ない航海が成功したことと、無理に無理を重ねたことでおじいちゃんはおばあちゃんと結婚できた」

 

  感慨深そうだった。

 

「でも本当に冷や汗の出るような航海ばかりだった。一度死にかけたことがあった。それは最後の無理をやったときだ。台風が近づく中、大阪に行き真夜中にこの河口に戻って来た。遠くに灯台の明かりが見えた時はほっとしたが、中央の浅瀬に乗り上げた。今の赤灯台があるところだよ」

 

 なるほどだからあそこに灯台を作ったのかとわたしはうなずいた。

 

「昔からこの村から遠くに出かけて行ったら、この古い灯台の光が迎えてくれた」

 

 わたしと祖父は古い灯台を見上げた。わたしたちは灯台の下に座っていた。

 

灯台の光りは不思議なもので自分の居場所に帰ってきたという実感を持たせてくれる。

 

航海から帰って、この村の古い灯台の光が見えたら、それと逆の方向に舵を切って進まないと行けなかったんだよ。河口の真ん中辺は浅瀬になってるから潮の状態と船のスピードによっては乗り上げてしまうんだ。過去にはね。二、三年に一隻は乗り上げて、満潮を待って脱出していたことをおじいちゃんも知っていたし、村の船乗りはこの最後の浅瀬を避けるのを、高名の木登り、と言いあっては注意しあっていた。どんなに気をつけても、気をつけ過ぎるということはなかった」

 

「高名の木登りって?」

 

「高名の木登りといひし男、人を掟てて高き木にのぼせて・・・。高い木に登って無事下りて来て、もうちょっとで地面だっていうときになってはじめて木登り名人が言うんだ。気をつけろ。もうちょっとだって時こそ油断するから、そこから先を本当に気をつけろってね。吉田兼好という人が徒然草という本の中で紹介している話なんだ。この浅瀬とぴったりな話だろう」

 

「ふうん」

 

「 大阪を出るときにも、危ないから一晩待てと言われたんだけど、その荷物は特別な荷物で、どうしてもその時すぐに出発しなければならなかった。なんの迷いもなく船を出したけど、夜にかけて台風がかなり接近して来たらしく、海の荒れはひどくなる一方だった。船は揺れたよ。ひっくりかえるんじゃないかと思うほど。でも、その難しいところはずっと緊張していてね。何とか持ちこたえて、そしてついに灯台の光を見たとき『やったぞ』と叫んだよ。何回も叫んだよ。涙がこぼれて来たよ。その航海が終わったら、船の借金を全部返せて、おまけに、はじめて大きなお金が自分のものにもなることになってた、それだけ大きな仕事だった。おばあちゃんと結婚できるのはもちろん、自分の七人の兄弟と親の暮らしも楽になる。これでやっと貧乏から抜け出せるってしみじみ思った。そしてそうやってほっとしたとき、強い風に流されて浅瀬に乗り上げたんだ。おじいちゃんは高名の木登りの教えを忘れていたんだ」

 

  祖父はわたしの手を引いて水際まで歩いた。そして赤灯台を指差しながら続けた。

 

「あそこに船を置いて逃げていたら、そのうち風で転覆したかもしれない、いや多分そうなっただろう。ボートで逃げ出せば確実に命は助かるけど、借金は残って損害も出して前よりもっと貧乏になる。今、ほんの何百メートル先に進めば一気にいろんなものが変わるのに、ここで逃げたら元の木阿弥だ。おじいちゃんはほっとした気分から、絶望的な気分に落ち込んだけど、すぐに頭を切り替えた。おじいちゃんは命を懸けることにした。船に残って強風に合わせて舵を切りつづけた。タイミングが合えば船が押し出されるかもしれない、でもタイミングが悪ければ船と一緒に海に沈むかもしれない」

 

「それで?」

 

「運のいい事に、だんだん満潮になる時間帯だった。風と潮のおかげで一時間くらいで船は解放された。一生を変えた一時間だったな。頭の中は無だったよ。そしてお爺ちゃんは真夜中に荷物を積んで港に入った。荷主とおばあちゃんとおばあちゃんのお父さんが迎えてくれた。おじいちゃんとおばあちゃんは泣きながら抱き合ったもんだよ。荷主はおじいちゃんたちの肩をたたいて笑ってくれた。それはおばあちゃんのお父さんと親しい人だった」

 

わたしは祖父をじっと見た。この、頭の毛がなくなり、指先にさえ皺があり、体の中もぼろぼろで病院に通いつめてる年寄りの、若い頃の頑健な肉体と強靭な意志の逸話を聞くのは、不思議さを通り越して神秘でさえあった。

 

  再び私たちは自転車に乗った。灯台は去って行った。

 

「その航海が終わって貧乏から抜け出した記念に買ったのがあの時計、ってことになってるんだ」

 

「うん知ってるよ」

 

  灯台を通り過ぎると四国を右に見ながら、道はくねくね曲がりしばらく行くと小学校がある。それはわたしが通っている学校であり母も祖父も通った学校だった。

 

「おじいちゃんは、あの航海が終わってまず時計屋に行った。おじいちゃんちはずっと時計がなくてね。隣の家の柱時計の鳴る音で時間を数えてたから、まずお金ができたら時計がほしかった。買ってきた時計を柱にかけた時はさすがに感無量だった。そして、時間が来てぼーんぼーんと音を立てた時も自分ちの時計の音に涙が出そうになった。長い貧乏から抜け出した記念の音だった。でもね、しょせんは時計だし、しょせんはお金ができただけのことの記念さ。何年かした時、迷うことなく質屋に持って行ったんだ。おばあちゃんが出産で実家に帰ってたときだった。

 

おじいちゃんは若い頃遊ぶ余裕がなかったから、お金持ちになったのを機に、ばくちや女遊びをはじめてね。でも商売に使うお金と、家族の生活に使うお金はちゃんと分けて、絶対使わないようにした。だから自分用のお小遣いを使って遊んだんだけど、足りなくなるとね、商売のお金を使わない代わりに色んなものを質屋というところに持って行ったんだ」

 

「質屋って?」

 

「物を持っていったらお金を貸してくれるところさ。でもしばらく返さないと、持って行った物は売られちゃって、お金を返さなくてよくなる代わりに、物は返って来なくなるんだ」

 

「ふうん」

 

「あの時計は高かったからいいお金になった。もちろん、すぐに買い戻すつもりだった。でも質流れになってね。お爺ちゃんは同じ種類の時計を買って来て少しほこりをかけたりして古く見せた。だからあの時計は記念の時計じゃないんだ」

 

  わたしは驚いた。家中のものが、記念碑的に大事に扱っていたあの時計が、実はにせものだった。しかも、遊ぶためのお金欲しさに、質屋というところに持って行ったという。

 

「おばあちゃんは知ってるの?」

 

「さあね、もう何十年もたったからどうでもいいと思ってるかもしれないけど、おばあちゃんというのは不思議な人で、おじいちゃんがどんなに秘密にしていることでもいつのまにか知ってるんだよ。だからおじいちゃんはばれてないつもりにしてるけど、本当はおばあちゃんも一緒に笑ってるかもしれないね」

 

「じゃあ、ぼくが叱られたのは間違いなんだね」

 

「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。達也はそのことを知らなかったんだからね。お母さんは記念の時計だと思ってるし」

 

「おじいちゃんのうそつき」

 

「でもね、おじいちゃんがばくちをして、家の中のものは一杯なくなって行ったけど、仕事はずっとまじめにがんばっていたから、新しいものも増え続けたんだよ。あの時計は最初にばくちですったときに買い換えたものだから、やっぱり古くて長いつきあいなんだ。それにね、おじいちゃんが質屋に持って行かなかったものはね、戦争が終わった時、食べ物をもらうためにほとんど全部近くのお百姓さんにあげたんだ。だから一番長く残ってるものと言えばやっぱりあの時計なんだ」

 

お船もお百姓さんにあげたの?」

 

お船はね、国に取られた。戦争の時ね、村中の船は全部国に持って行かれた」

 

「泥棒だね」

 

「おじいちゃんたちもたいへんな時だからって、喜んで持って行ってもらったよ。あの時は本当にそう思った。この船が一人でも多くの日本人を助けるために役に立つなら本望だって。嬉しいんだって」

 

「戦争が終わったらかえって来たの?」

 

「いや、南の海で爆弾にあたって・・・・・・吹っ飛んだんだと思う。そして大勢の兵隊さんたちを乗せたまま転覆した・・・・・・お爺ちゃんの思いや頑張りが染み込んで、命懸けで浅瀬から脱出したあの船が、海の藻くずになったことは、残念だ。でもね、戦争ではたくさんの人が同じ思いをした。先祖伝来の刀を差し出した人たちもいたし、子どもの命を差し出した人、家が燃えた人、町ごと燃えた人。何百万の人が死んだし、たくさんの家や船や街が燃えた。何もかもがめちゃくちゃにされた。近くの町に爆弾が落ちた時は、おじいちゃんちの家の窓ガラスが振動で全部割れたりしたんだよ。達也のお父さんももう少しで特攻隊でアメリカの船に飛行機でぶつかって死ぬだところだった」

 

「国は謝ったの?」

 

祖父はしばらく黙っていた。

 

「国という人はいない。一番偉かった人たちは死刑になった」

 

 

  学校に着いた。海際の道から階段を五段上るとグラウンドだった。祖父は自転車を抱え、わたしは後ろの方を持って手伝った。運び終わると、海の方を向いているぶらんこに二人は座った。わたしはゆっくりと漕いだ。遠くに大きな船が三隻見える。

 

「おじいちゃんの船はあれくらいだったの」

 

祖父は二本目の煙草に火をつけていた。

 

「あっ、また」

 

「いや、あんなに大きくない。あれはおじいちゃんの船の五倍はある」

 

  祖父の煙草から煙が空中に揺らめきながら舞いあがった。

 

「おいしいの」

 

「とてもね、なんともいえないよ」

 

「へえ。でさ、お父さんの船は?あれくらい?」

 

「おまえのお父さんの船は、そうだな、あの船の倍はある」

 

「お父さんの船、めちゃくちゃ大きいんだ」

 

わたしは感心して大声でいった。

 

「何度かお父さんの船には行ったことがあるんだろう」

 

「うん、でもすぐ近くで見たから大きさはよくわからなかったんだ。甲板というところは運動場みたいに広かった。運転するところも広かったな。それでレーダーとかあってね。でも舵を切るハンドルがとても小さいんだ。ぼくはほら、よく絵本とかテレビで出てくる海賊船みたいにさ、周りに取っ手がたくさん出てるようなやつ舵だと思ってたんだけど、今の船は自動車みたいな小さなハンドルなんだ」

 

「おじいちゃんの船の舵は海賊船みたいなやつだったよ」

 

「わあ、格好いいな。でね、お父さんの船には階段とかエレベーターとかいっぱいあってさ、でもお父さんの部屋には机とベッドしかないんだ。お父さんは普段はここで一人で寝るんだなと思うとかわいそうになっちゃったよ」

 

「お父さんはめったに帰ってこないからね」

 

「日曜日のたびに帰るだけでもいいんだけどね」

 

  祖父はふと思い付いたような表情をしてわたしに言った。

 

「そうだ、おまえをいい所に連れて行ってやろう」

 

 

 

  びわたしたちは出発した。学校から峠を越えて家に帰る山道だった。上り道をわたしを乗せたままこぎ通す力は祖父にはなく、自転車から下りて押した。

 

「ぼくも、下りるよ」

 

「今日は特別だ。おじいちゃんが、本当は力があるんだってことを、お前に見せてやる」

 

  やがて、学校を見下ろすポイントに着いて祖父は少し休憩した。

 

  そして、遠くを眺めながら、さっきまでとは少し違う表情で厳かに言った。

 

「お前のお父さんのお父さん、お前のもう一人のおじいちゃんはペルーという地球の反対側で死んだ」

 

「知ってる。日本じゃ食べて行けなかったから移民になったってお母さんに聞いた」

 

「そうだ、遠い豊かな国に行ったほうが夢があったんだ。おじいちゃんだって、親兄弟がいなければ、ペルーとかブラジルとかアメリカとかに行ったかもしれない」

 

祖父は煙草を取り出した。

 

「あっ、三本目だ」

 

「今日は気分がいいから大丈夫。おまえに直に古い話ができて嬉しいのさ」

 

「いつでも話してくれればいいじゃない」

 

  祖父の顔は家の近くにあるお地蔵様みたいになった。

 

「ただしゃべればいいというものじゃない、しかるべき時と場所が来て機が熟した時はじめて伝えられる、そんな話もあるんだよ。だから生きてる間に、自分にそういう巡り合わせが来て、おじいちゃんは今とても嬉しいんだ」

 

「よくわかんない」

 

  遠くの三隻のうち一隻が見えなくなった。もう母に叱られたことは忘れていた。

 

 再び、祖父の長い話が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「おまえのもう一人のおじいちゃんは、熊本の古くから続く庄屋の家に三男として生まれた。お金持ちだったけど、その頃はね、長男が田畑、家屋敷の全部を受け継いで、次男や三男は町に出て働くか、近所の土地持ち百姓の家に婿入りするしかなかった、おじいちゃんはね、どこかの家に養子になって、お金には困らなくても一生気兼ねしながら生きていかなきゃならないのは嫌だったそうだ。それに、とにかく古いその村から出て行きたかったらしい」

 

「よくわかんない」

 

「大丈夫。わかることだけ聞きなさい。わからないところも、達也の体にしみ込むのさ。大きくなってふと気づく。あれはこういうことだったんだって。それを聞いたのはおじいちゃんからだったって。そうやっておじいちゃんのことも思い出してほしいんだ」

 

「うん、でもよくわかんない」

 

 祖父はますますお地蔵様みたいになって、柔和な微笑を湛えて話を続けた。

 

「ちょうどその頃、おじいちゃんの村にペルー行きの話を持ってきた人がいたらしい。田舎の百姓家を廻って、長男じゃない若者たちに夢を描かせてたんだ。地球の反対側にある、広くて豊かで可能性に満ちた国。そこでがんばれば、自分たちの生まれ育った村よりも広い土地で農園経営ができる、あるいはその頃の東京よりももっと発展した都市で商売がやれて、日本では考えられないような大きなお金が動く。

 

おじいちゃんはもう百姓はいやだったから、商人になって成功しようとペルーへ行ったんだそうだ。

 

とにかく口では言えないくらいに苦労して努力して、死にそうになったことも何度もあったそうだよ。病気しても薬も買えない、病院にも行けない時期が続いた。でもね、がんばって成功して、とうとう自分の店を出した。嬉しかっただろうね、おじいちゃんもそれなりに苦労したからよくわかる。きっとこのおじいちゃん以上に苦労してがんばったんだと思う。何しろ遠い外国で一人きりだったんだからね。それでね、店を出した時、やっぱり記念に時計を買ったんだ。それはうちにある大きな柱時計と違って、ポケットに入る懐中時計という小さなものだった」

 

  わたしはその時計のことは聞いたことがなかった。

 

  祖父はわたしを自転車に乗せて、車の通る峠道から、細く脇に入る山道に入って行った。

 

「こんな道はじめてだよ」

 

  祖父はそれには答えず、黙々と自転車を押した。道は草が生え、でこぼこだったが坂はゆるやかだった。人一人やっと通れる道を息を切らしながら祖父は自転車を押した。

 

「おじいちゃんはお守り代わりにいつもそれを持っていたそうだよ。お嫁さんを探しに日本に戻って来た時も、得意げにしょちゅうポケットから取り出しては眺めてたって話だ。そして、お嫁さんを連れてペルーに戻った」

 

  やがて森閑とした木々のトンネルの中に入った。不思議と道は広くなった。六歳のわたしは、日常的に海と山を眺めて暮らしてはいたものの、山の中には一人で入ってはいけなかったので新鮮だった。

 

「子どもが三人生まれた。一番上が達也のお父さんだ。ペルーで商売がうまくいって、日本からお嫁さんを連れて帰り、子宝にも恵まれて。おじいちゃんは若い頃欲しかったものを全部手に入れたんだ」

 

  祖父はしみじみとつぶやいて、少し立ち止まって目を閉じた。

 

  目を開けると、祖父はわたしを下ろして、階段状になっている脇道を登った。幼いわたしと、老いた祖父はきつい道をがんばって登り切った。

 

  視界が開けた。さっき小学校を見下ろしたポイントさえはるかに見下ろしていた。もちろん小学校も海も見えた。そして驚いたことに、私たちの村までが一望でき、その向うの村、さらにその先、かなたの街まで、周辺のすべてが三百六十度、眺め渡せたのだった。

 

  一瞬、ペルーの話は忘れてしまった。

 

  祖父は満足そうにわたしの驚いた顔を見ていた。祖父の顔にはガキ大将のような満足感があった。

 

「達也と一緒にここに来るのはこれが最初で最後だろう。おじいちゃんはここまで登る力はなくなり、もうすぐ病院に行くだろう。そして、生きて家に帰ることはない・・・・・・」

 

  突然不吉なことを言われて、景色を楽しむことができなくなった。そして祖父は遠くを眺めながら、わたしをペルーに引き戻した。

 

「お父さんが六歳の時、今の達也と同じ年の時だ。おばあちゃんが直らない病気にかかってしまった」

 

「死んじゃったの?」

 

「先を急いじゃいけない。いいかい、この世には直らない病気がいくつもあってね」

 

「癌とかがそうなんでしょう」

 

「うん、おばあちゃんは結核というのにつかまってしまった。今は直るようになったけどね。昔は癌以上に恐れられてた。ペルーで結核になった人はね、アンデス山脈という、今達也がいるこの山の何十倍も何百倍も大きい、山々の連なりの中にある病院に行くことになってたんだ」

 

  この山の何百倍?その大きさがわたしには全くわからなかった。

 

「お父さんの家族はアンデス山脈の病院に旅立った。そこでお母さんは入院し、死ぬまでのわずかな時間を過ごすことになっていた。結核というのはうつるものとされていたから、子ども達とも離れていないといけなかったんだ。あれはお別れの旅行だったんだ」

 

  わたしはしんみりした気持ちになった。

 

「でもね、お父さんたちは小さくて、そういうことはよくわからなくて、家族で旅行してることが楽しくてたまらなくて、汽車の中ではしゃいでいたそうだよ。その時のおじいちゃんとおばあちゃん、どんなにせつなかったことだろうね」

 

祖父は指で涙を拭った。

 

「不幸は輪をかけてやって来た。旅の途中でおじいちゃんも倒れたんだ。頭の血管が切れてね。倒れた夜、運び込まれた病院で、自分がここで死ぬわけにはいかないと、何度も何度も繰り返してたそうだ。男泣きに泣きながらね。

 

最後の力を振り絞って、懐中時計をポケットから取り出しおばあちゃんに渡した。自分の分までがんばってくれ、子ども達を頼むと言って。わかるかい、達也。おじいちゃんは、もう死ぬことが決まっているおばあちゃんに言ったんだ。本当は自分こそがおばあちゃんの分までがんばって子どもたちを育てるつもりだったのに。そして、おばあちゃんも、自分自身どうすることもできない身でありながら、その時計をきっとしっかりと握り締めて力強く肯いたに違いない。

 

  遠い国にお嫁さんに来る時から、どんな覚悟もできてたんだろうね・・・・・・」

 

  わたしはじわっと涙が出てきた。

 

「おばあちゃんという人はね、五人姉妹の長女でおっとりして、少し恥ずかしがりやで、でもすごく明るくて、黙ってにこっと笑うと教会で見るマリア様みたいだったそうだよ。子ども達には暖かく抱きしめてくれる本当に理想の母親だったろう。

 

ただゆっくり静かに深く考えるたちで、てきぱきと物事を片付けていくタイプじゃなかった。いろんな人の話を聞いてるとこんな感じだな。若い頃、親戚筋の京都のお医者さんの家に、嫁入りの話があってね。ちゃんと医者の嫁として振舞えるかどうかテストされることになって一ヶ月くらいお手伝いさんとしてその家で暮らしたそうだよ。昔はそういうことがよくあった。おばあちゃんはね、急ぎの仕事があっても、庭先に新しく花が咲いているのを見つけると、しばらくうっとりと眺めたりするし、お手伝いさんたちが何か不手際を起こしても、厳しく注意せずにににこにこ笑って許すだけだし、そういうことを指摘されても、微笑んでわかりましたと言ってすませては、また同じことを繰り返したそうだよ。医者の嫁には向かないということになって熊本に送り返されたところに、ちょうどおじいちゃんがお嫁さんさがしにペルーから帰って来たんだ。おばあちゃんの両親はこれ幸いと話をまとめた。おじいちゃんが四十歳、おばあちゃんが二十歳の時だった」

 

「そんなに違うんだ」

 

「うん、昔は時々あったし、今でも年の離れた夫婦はいるよ・・・・・・。

 

さて達也、そんなおばあちゃんが、幼い子供三人とペルーに取り残されてしまったんだ。

 

  その病院の世話で、おじいちゃんのお葬式をやって、おばあちゃんは子ども達を連れて、リマの家に帰った。

 

そして、決心した。父親の遺体にすがりついて泣きじゃくっている子供たちに、すぐにまた母親である自分の死に顔を見せることはするまいと。余命半年といわれていたおばあちゃんは、子ども達だけ日本に返し、自分はこの地で最後を迎えて、何年かは自分が死んだことを子ども達には伏せておこうと決めたんだ。それが、おじいちゃんから受け継いだ懐中時計の魂にこたえることだと、おばあちゃんは考えたんだ。こんな女の人をお嫁さん失格と言って追い出した人の気がしれないよ。

 

おばあちゃんはすべてを売り払った。懐中時計と、子ども達の身の周りのもの以外は、おじいちゃんが何十年もかかかって築いたものをすべてお金にした。ペルーにあった家族の痕跡は消えてしまって、子ども達だけの日本での生活のためのお金に変わった。おばあちゃんは生きながらに、自分のペルーの生活のすべてが消えて行くのを目の当たりにしたんだ。そして、日本人に頼んで子ども達を、日本の親戚の家に連れて帰ってもらう手はずを整えた。それまでのおばあちゃんの人生で一度もなかったほど、てきぱきと物事をすすめたに違いない、あんな短い間にそんなことができたなんて、おばあちゃんの日本の家族が見たらびっくりしただろう。

 

  そして、子ども達が港に向かう汽車に乗る時、リマの駅でこれがこの世の別れだとはっきりとわかっていたおばあちゃんは、おかあさんも病気が治ったら日本に帰るからと、子どもたちを励ましたそうだ。そして、達也のお父さんに懐中時計を握らせて、その小さな手に自分の両手を添えてこう言ったそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『辛い時はこの時計を取り出して見つめなさい。お父さんとお母さんの魂が入っています。おまえたちのお父さんは、たった一人でペルーに来て、この時計が買えるようになるまで、本当に草の根をかじったり、雨水を飲んで飢えをしのいだことさえあるのです。そんな思いまでしてがんばって、ついにおまえたちを子どもとして持つことができました。おまえたちといて、お父さんはどれほど幸せだったかわかりません。生きていればおまえたちのためならどんなことでもしてくれたでしょう。その気持ちにふさわしい子どもでありなさい。お父さんの子どもとして、恥ずかしくないように。どんなに辛い時でも、お父さんはもっと大変な思いをしたのだと、どんなに淋しいときでも、お父さんとお母さんの愛情はいつもあなたたちの全身を抱きしめていると、その時計を見て思い出しなさい。あなたたちは決して天涯孤独な身ではない、そして兄弟助け合うのです。お母さんが日本に戻るまで、おまえが妹たちを励ましてあげるのです』

 

この通りに話したそうだ。六歳だった達也のお父さんはこのときのおばあちゃんの言葉だけは、不思議なことに一字一句忘れることはなかったんだ。日本に帰った後、妹たちにも懐中時計を見せながら、お母さんの代わりにいつもこの言葉を話して聞かせたそうだ。  

 

そして、それから五年後に達也のお父さんたちはおばあちゃんが死んだと聞かされた。それまでの五年間、毎月おばあちゃんから手紙が来ていたそうだ。達也・・・・・・おばあちゃんはね、五年分の六十通の手紙を死の間際の弱りきった体で書きため、一ヶ月ごとに子供たちに渡してくれるよう書き添えて、日本の両親に送ったんだ。そして五年たって手紙が尽きたら、自分が死んだことを子ども達に伝えて欲しいと、そう頼んであったそうだよ」

 

 

 

 

  祖父は黙って風景を眺めていた。その時の祖父の姿をとてもよく覚えている。スーツを丁寧に着こなして、頭の半分ほどを覆う白髪が少しだけ、風に揺れていた。目はとても優しく、かつて夜の海岸で月に心を映していたように、自ら語った物語に心を映していたのかもしれない。

 

「大人になったらあの時計は達也が譲り受けるだろう」

 

  わたしは目が涙でいっぱいになっていたので照れ隠しに言った。

 

「本物なの?」

 

「うん。たぶんね。お父さんの方のおじいちゃんも、成功してからは遊び人だったっていうから、途中で質屋に持っていったかもしれない。でもね、あの時計はおじいちゃの死の床から、神様でもかなわないような愛情を乗せて、日本に帰って来た。もともとの時計かどうかは問題じゃない。死の床から出発して、リマの駅で引き継がれたリレーの後は本物だよ」

 

「じゃあさ、おじいちゃんの柱時計も途中からにせものだけど、あそこにかかってる時計が、とにかく大事な時計ってことだね」

 

  祖父はおおらかに笑って肯いた。

 

「ぼく、お父さんがペルーから持って帰った時計も嬉しいけど、おじいちゃんの柱時計もほしいな」

 

  祖父は嬉しそうに目を細めて

 

「よしわかった。約束しょう。おじいちゃんが死んだら達也のものだ」

 

と力強く返事をしてくれた。それは父方の祖父母が、自ら死に行く身の上と知っていながら、時計を手渡したのと同じような気持ちだったかもしれない。その散歩の日から程なくして、祖父は入院し、生きて家に帰ることはなかったのだ。祖父は自らの死を知っていたのである。

 

  わたしたちは峠道に戻った。

 

  祖父は自転車を漕いだ。今度は下り道だから軽快だった。わたしは坂道をスピードを出して下る自転車の後ろで、祖父にしっかりとつかまっていた。そして、この、今生きている祖父がやがて死ぬのだと、もうすぐこのからだの暖かみも、消えてなくなるのだとはっきりとわかった。会った事のないペルーの祖父母は、とうの昔に体はなくなったが、その愛情は孫のわたしをもつつみこんでいるのだということを突然に実感した。そして幼いわたしの心は、いろんなことで一杯になりすぎて、涙が止まらなくなった。

 

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