【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

YouTubeチャンネル『世界の名作文学を5分で語る』のブログ版です。世界と日本の名作紹介と様々な文学批評 そして自作の詩と小説の発表の場です

ホメロスのオデュッセイアを読んでいる 古荘英雄

ゲーテの「若きウェルテルの悩み」でホメロスを知った

若きウェルテルの悩みと言えば

昔は誰でも知っていたし、

ストーリーくらいはみんな知っていたし

読んだ人も多かった。


失恋してピストル自殺するのだが

今時は失恋しても自殺をせずストーカーになるから

読む人も減ったのかもしれない


さてそのウェルテルの中で

ウェルテルが川辺や森で読書するときに

必ず読んでいるのがホメロスでした。

へえ~!そんな古代ギリシャの詩人がいるのかと思いました。

やがて

ぼくも成長し

ゲーテとの対話」などを読んでみると

ゲーテは人類最高の詩人としてホメロスを想定しているようなのです


そしてまたトルストイについていろいろ読んでいると

彼はその

幼年時代」「少年時代」「青年時代」という若い頃の作品について

「つまらぬ謙遜なく言えば、これらはホメロスに匹敵するのだ」

と語るのでした。

後の「戦争と平和」などは、

当時のロシアにおける「現代のイリアス」のようですね


ホメロスの作品はトロイア戦争を材とした「イリアス」と、その戦後、トロイの木馬の考案者のオデュッセウスが帰途で苦労する話としてのオデュッセウスの二つです







いろいろ読むとホメロスはヨーロッパ文学に圧倒的な影響を及ぼしている

晩年のトルストイ

シェイクスピアを全否定してホメロスのみが文学であると言ったし、

(晩年のトルストイは少し異常でもあったのですが)


オーストリアシュティフターなども、

教養というのはギリシャ語でホメロスを読むことだと言っています。

あの六脚韻=ヘクサメターギリシャ語が歌われると

人の脳に幻覚を生じさせるという説まであって

つまりは古代ギリシャ人は

ホメロスの六脚韻を聞くと

あたかもDVDでも見るかのように

動画を頭の中で

見ていたという部厚い研究本もありました

つまりゼウスもアテナイ女神もアポロン

ポセイドンもみな集団幻想で見えていて声も聞こえていたのだと

そんな壮大な仮説の本で

めちゃくちゃ面白かったです(余談)



ところで

トーマス・マン叙事詩としてその小説を書いています。

「詩の時代なら詩を書いていたが今は小説の時代だから小説を書いている

でも自分は本来は詩人だ」

と言っています。

「ただし、自分はドストエフスキーのように黙示録的なものではなく、

ホメロスゲーテトルストイのような

叙事詩精神で書くのだ」

という意味のことを繰り返し述べています。

それはもうほんとに繰り返しあちこちで述べています。


つまり、

ヨーロッパには

ゲーテトルストイのようなホメロスの後継者と、

ドストエフスキーニーチェのような、

聖書的黙示録的な深堀をする人たちの後継者がいるというのですね。

ギリシャ的精神と聖書的精神

そしてニーチェなどは聖書的精神をくそみそに言うわけです。

アンチテーゼとして。


そしてこの叙事詩的精神は、

日本では黙示録精神に比べて流行りません。

叙事詩的精神を感じるのは

どうも日本人には不向きなようなのです。

短い歌や短編小説を職人的に仕上げるのが日本文化であり

おおざっぱな文体で大河のように流れていくようなものは

なじまない


叙事詩精神とは海

トーマス・マンはアンナカレーニナの評論の中で

この小説は海であり

だから海の精神、叙事詩的精神であるというのです。

寄せては返す

そのように

叙事的物語は変化がなく

それでいて確実にいつのまにか変化していく

つまり人生そのものが叙事詩的なのであると

さすがドイツ人だけあって

徹底してこういうことを語りつくします。



そしてオデュッセウスの再読です

今回実に40年ぶりくらいに再読しています。

前に読んだ時のことなどほぼ何も覚えていません。

前は古典だから読まなくちゃ!!

そんな義務感だけで通読しました。

当時は若者が読むべき100冊!みたいな選定図書がありました

まあ実際読む人は少ないですが

ぼくはかなり読んだ方でしたね。





ところで

今回オデュッセウスを再読するきっかけとなったのは


①大好きなシュティフターの小説「晩夏」で主人公のハインリヒとその父が暇さえあればホメロスはじめ古代ギリシャの作品を読んでいた


②塩野七尾さんが、

なぜヨーロッパ人はオデュッセウスを好むか?

というタイトルでエッセーを書いていたのを思い出した。





③風の谷の「ナウシカ」という名は

このオデュッセウスに登場する姫の名です。

オデュッセウスを助けるナウシカ姫がいて

自分を助けてくれたナウシカ姫に

オデュッセウスが別れの言葉をかけるシーンは名場面です


④何と言ってもホメロスは愛好するトーマス・マントルストイゲーテなどの源流だから。


⑤20世紀文学を変えた金字塔。ジェイムズジョイスの「ユリシーズオデュッセウスの英語読み)」はまさにオデュッセウスをモチーフに描かれている。





で、

まだ最初の50ページほどしか読んでいないのですが

とても面白い。

今回は若いころと違って

この物語を味わっています。

物語とはこういうものだなあと思いましたね。

この調子で先を長く読み進めていけば

叙事詩的精神を感じることができそうです

そうれば最高の読書体験になることは間違いない


とまあ、

このような話はほぼ誰に話しても理解されないことなのですが(笑)

自分の中のひそやかな楽しみであり

読書の進行をぼく自身が一番

楽しみにしています







【ぼくらの人生のラプソディ】 クィーンのフレディ・マーキュリーが最後にボヘミアンラプソディーを歌う 海部奈尾人

前書き

ボヘミアンラプソディーを見た。

単純に感動する。最後のウェンブリーのコンサートが、それまでのフレディの人生とクイーンの音楽ををなぞるようになっている。




******************

ボヘミアンラプソディを聞きながら触発されて書いた自分の詩です。中身は関係ないけどぼくとしてはボヘミアンラプソディーを聞きながら読み返したい
***********************



【ぼくらの人生のラプソディ】

かあさん

生まれた時 ぼくはみんなと同じように

泣いていた

そして幼いころはみんなと同じように

かあさんを見ると笑っていた

嬉しくて ほっとできて

ぼくは微笑んでいた 

かあさん

いつからか何かがずれてしまった

今は失敗した人生で

多くのものを失いすぎて

何を失ったかさえ思い出せない

人づてに聞いたのは

地位も財産も妻も家も友人もみんな失ったみたいだ

かあさん

小学校では喧嘩が強すぎていじめられた

力はあるのに優しすぎて

子猫が道端で死んでるのを見ただけで

わんわん泣いたりした

中学では不登校になった

あの頃は先生を信じたかったが

無駄だと知ってショックだった

できれば自爆テロで校舎ごとふっ飛ばしてクラスメートなどというしらけた言葉の持ち主たちと死んでしまいたかった

かあさん

ぼくはどこで間違ったんだろう?

ぼくはいつまでも笑って微笑んで

みんなが楽しく子猫も楽しく

暮らしていけることしか願っていたのに

なぜぼくは笑えなくなったんだろう

間違っているのは世の中のほうだと

叫んで人を殴り殴り返され

病院で母さんに再会したこともあった

間違っているのは世の中の方よと

母さんはぼくをわかってくれていた






かあさん

今はわかる

真実が

ぼくはほしかっただけなんだ

かあさんがぼくの誕生を喜んでくれたように

たくさんの人が自分の子供が生まれると

喜んでこの子のためなら何でもすると思っているのに

なぜ他人にはそう思えないのだろう

そんな愛された子供たちが

徒党を組んで人をいじめ

残酷な殺人を犯し

他人のお金を奪い取り

そうありたいというささやかな願いを踏みにじる

かあさん

真実を

求めてぼくは歌った

自分の行くべき道を

自分のいるべき場所を

生まれたときから求めていたんだと

最初はそれは全部かあさんだった

かあさんから離れて

ぼくはどこにも

真実をみつけられなかった

今も真実は意味不明の謎の国だ





そして

子供たちよ

ぼくは気づいたのさ

子供たちよ

ぼくがそうであったように

真実を求め傷つき憎み

君が行き詰まり助けてと叫びたくても

プライドとあきらめで声を出すことも忘れてしまった子供たちよ

真実を今

ぼくは知った

理解されぬ

孤独と寂しさと絶望を抱えて

何かを求めて夜道をさすらうのが

人の真実の姿なんだと

ああ こんな暗い夜道をさっさと歩き通して

温かいシチューが用意されたかあさんの食卓に

戻りたくても

真実は夜道と寒さと震える手足なんだ




かあさん

ぼくはいま伝える

歌にして

この孤独と

後悔と

絶望と

無念さと

自分への限りない腹立ちとを

子供たちに

子供たちよ

ぼくのあとをついてくるなと言っても

道はそれしかない

だからみんなで歌おう

絶望に覆われたこの空が

歌が響くときだけは

穴があき

光がそそぐ

そして人生の真実の向こうに

もっと大きな真実があるような気がして

ぼくらは生きることができるんだ

だから歌おう

ぼくが声を出して

君が声をだして

ぼくらの声が一つの声になって

この空にあの空に

君の空にぼくの空に

ぼくらのこの空に

響き渡るとき

祝祭の中ですべてを許し忘れ

ぼくらは人を越えることさえできる








たとえ祝祭のあと

暗い夜道に戻っても

君たちがあの空とあの歌を忘れることはない

子供たちよ

だから信じてくれ

ぼくらが歌い続ける限り

君の絶望は救えないが

君にも本当の空をみせてあげることができる

かあさん

そうやって歌いながらぼくは

歌うことがぼくの真実だったんだと

わかったんだ

この後悔もあの絶望も

やりなおせないけど

ぼくはこうやって歌えるんだと

わかったのさ

そして

あの空のもとで

みんなの声が響き渡るときには

ぼくももう一度笑える人間になれる








真実の向こうに広がる

限りない青さを

抱きしめて生きていくのさ歌い続ける限り

君の絶望は救えないが

君にも本当の空をみせてあげることができる

かあさん

そうやって歌いながらぼくは

歌うことがぼくの真実だったんだと

わかったんだ

この後悔もあの絶望も

やりなおせないけど

ぼくはこうやって歌えるんだと

わかったのさ

そして

あの空のもとで

みんなの声が響き渡るときには

ぼくももう一度笑える人間になれる

真実の向こうに広がる

限りない青さを

抱きしめて生きていくのさ

説明ではなく創造することが文章のきも



アレキサンダーは大勢の兵士を従えた、は小説としてはあってはならない文章である ①



続き

これを二アレキサンダーの視点から書くと
王は自分の陣地に大勢の兵士が溢れているのを見て満足だった。自分の中に蘇ったデルフォイの神々が雄たけびを上げるのを感じた。
大勢の若者がさらに兵団に参加するため、長い列を作って手続きを待っていた。それは自分の中にさらにエネルギーが充填されていくような気分だった。


小説を書くときにはこうなりがちである。

作者が自分の見ているものを説明してしまうのだ。

それは三文芝居のもとになる。

アレキサンダーの陣営を説明するのではなく創造することが小説芸術なのである。

①であれば登場人物のケーオスの視点を軸に、作者でさえ知らない世界を、一つ一つ積み上げる、

そして何を作れば全体像がイメージできていくかをにらみつつ、

言葉で事物を創造する、

するとその事物が世界を構築する。

そうなってはじめて小説世界の創造となる。


【小説文の良し悪しは主語で決まる】「アレキサンダーは大勢の兵士を従えた」では読者はイメージできない|辻邦生パリの手記より

辻邦生が紹介している小説文書き方の事例

アレキサンダーは多くの兵士を従えて遠征にでた」


「多くの兵士がアレキサンダーに従って、ともに遠征に旅だった」

の比較がある。


私見であるが

アレキサンダーは多くの兵士を従えて遠征にでた」

という文章では世界を構築できない

「多くの兵士がアレキサンダーに従って、ともに遠征に旅だった」

とならなければならない。

これはどちらでもいいことではない。

この二つであれば100回書いても後者にならなければならないのである。


目に見える行動を書かなければうすぼんやりとした概念を眺めるだけで臨場感ある世界にはならないのである。

これはなぜこうなるかというと、まず遠征というものがあってそれを説明しようとするから失敗するのである。

小説は

遠征をモチーフにして

ゼロからその遠征を創造していくのである。

だから多くの兵士の行動から、その情景を作らないといけない。

もっといえば、こんな展開が望ましい(私案:失敗かもしれませんが)



アレキサンダーは多くの兵士を従えて遠征にでた   ではなくて

👇


「ケーオスは18歳の誕生日を迎えた朝に、若き王の軍事遠征に参加しようと街はずれの陣地に行った。

数えきれない若い男たちが槍や剣を手にして、早く戦いたいとばかりに天に向かって突き上げていた。将軍たちが乗った馬たちも人の多さに興奮して、いななきをやめなかった。祭りのような熱気の中でケーオスは兵団編成を司るテントの前で長い列に並んだ。

名前を記入されたら、剣か槍かを配給されるのだ。できれば槍で、突撃する部隊に編入されたいと思っていると、あたりを満たしていた音の混雑が突然消えた。

一人の若い男が真っ白な大きな馬に乗って、将軍たちの群がる奥の方から出てきたのだ。


男のマントは将軍たちのだれよりも赤く、男の姿は将軍たちの誰よりも威厳があり、男も将軍たちも何も言わないのだがそれが王、アレキサンダーであると陣地中の空気が告げていた。突然の静けさがしばらく続いたあと、堰を切ったように熱狂の叫びが陣地を満たした。

我らの王!アレキサンダー  我らの王!アレキサンダー・・・・・・・・」



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音楽と絵画に技法が確固としてあるように文章にも技法がある



文章というものがある。
それを使ってわたしたちは
詩を書き
小説を書き
随筆を書き
となるがいずれにも属さない文章もたくさんある。

音楽なら楽器が弾けるかどうかははっきりしているから、演奏するには練習が必要だとだれでもわかる。
絵画でもうまい下手は相当はっきりするからとりあえずうまくないと書かない。うまい人以上の違いは普通はわからないが、平均的な絵と練習した人の絵は明らかに違うとだれでもわかる

さて文章である。
ここには音楽や絵画のような確立された技法がないとされているので、みんな自分の読書体験で書く。
多く深く読んでいる人はやはりうまい文章を書くものだが、ここで間違いを指摘しよう。
文章にも相当程度、確立された技法があるのである。
そんな話をしていきたいと思う。
今回が第一回。
全200回でその後出版しよう(笑)


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小説の文章とはどうあるべきか?どのように書かれるべきか?|考え方と実例

小説の表現

「風が吹く」

というのは詩の表現であっても小説表現としていまいちだ。




だから

「風が吹く。男はさっそうと車からビルの入り口に向かった」

こういう文章を書いていては小説世界が広がっていかないから、論文のような内面描写ばかりになっていく。


たとえば

「男はラジオで聞こえてくる最近のニュースに気分がくさっていた。

国際関係に役人たちの不正やごまかしなど。

馬鹿野郎と心でつぶやきながら車を運転していた。

しかし目的地についたとき、ちょうど虹が見えたので心がとても癒されてやさしい気持ちになって勇気がでてきた。

自分は運がまだいいみたいだ、これならいろいろな困難があっても自分は人並み以上の成果を出せるだろう、そんなことをつぶやきながら車から勢い込んで出た。

その時風が吹いた。男はさっそうと車からビルの入り口に向かった」



こんな文章になってしまうなら、その小説は作者の独善的な内面の語りになっていく可能性が高い。

この文章がなぜ小説世界を深めないかを理解しない人も小説は書けない。

書いたとしてもそれは繰り返すが内面を吐露する論文だ。

内面の声を書くのは一番簡単なのでそのまま書いたら小説はぼろぼろになるのである。

小説とは文章を使った芸であるから、芸であるからには芸を身に着けないといけない。

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ボードレール は全世界の近代詩のたった一人の父である

ボードレールの詩をフランス語で読んだことはない。

正確に言うと、フランス語では読めない。

だからボードレールを語ることはちょっとなのだけど、だから正しくはボードレールの詩を元にその意味を日本語に移した文章から感じたことを語るのだけど、それはまことに素晴らしい読み物である。

旅への誘い

というのがあるが、翻訳でも素晴らしい。こんな素晴らしい文章は、日本語の詩でほとんどない。

中原中也も、三好達治も、全く及ばない。

というのも言い過ぎだが、近代詩のすべてはボードレールから始まっているのは確かだ。

そして、詩集というカテゴリーがひとつの世界を作るのもボードレールが始めたことだ。さらにエドガーアランポーを発見し翻訳し、世に出したのもボードレールである。

さらに近代美術をひとつの大陸として発見したのも彼の功績である。

ボードレールの詩集は素晴らしいのである。

www.youtube.com

 

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