地下室を評して
ドストエフスキー『地下室の手記』①|手記を生んだのは帝政ロシアか詩人の魂か?
解説
ニート、引きこもりに見立てて読む。違います、数学的断定で違います
また もろもろの見解を名言的に読むというのも 作者の本位ではない
帝政ロシアとももはや関係ない 土壌は19世紀のペレルブルクかもしれないが
キリスト教は普遍化したのと同じ!かな?
ではこの作品は何なのか?
フランス革命の頃生まれたルソー的自我が近代化して
産業革命によって近代的自我を対象化して観る自意識の悲劇だ
夏目漱石は一面鏡で近代的自我を悩んだ
個として自我が社会、共同体精神が消えたことで宙に浮く話
ところがさらに
地下室はテーゼ、アンチテーゼ、その両方を発している自分というもの
という3面鏡の悩みなんだ
この手の自我はルソーのようにずるい自我ではなく丸裸だ、
丸裸の自我になってしまったから地下室という囲い込む場所がないと精神は存在できない
そんな自我は共同体に出ていけないことは間違いないからだ
なぜわかるかと言えば私自身がまったくもってこの地下室の自意識そのものを持った人間だからです
この主人公の気持ちと思考の展開は手に取るようにわかり 意外なことは何もない
というのが本音
ただしこれほど苛烈に熾烈に丸裸の自我に語らせるのはすごい しんどいことだっただろう
でも 物事を対象化して言語化をしていくと行きつく果てはこれなのである
で 実はたぶん
トルストイの主人公もまったくもって地下室の住人だ
そっくるだ!!
違いはトルストイの人物は無意味なほどに金持ちで
ドストエフスキーの人物は無意味はほど貧乏だ
この地下室の住人に巨万の富を持たせるとどうなるか?
コサックの主人公、ピエール、復活のネフリュードフ、ピエール、レーヴィン、少年時代や青年時代の主人公になるでしょう
そして逆にトルストイの人物たちは
もしお金がなければ地下室でしょう
でお金があるからとりあえずそこにそうしていられる
最後に
罪と罰のラスコーリニコフは地下室の住人がその丸裸の思考が純粋に行動してしまった果ての物語
リーザとしてソーニャが登場
地下室的精神の完結版なのではないだろうか?