ドストエフスキーが彼自身のような、自意識過剰な人物を描写するとき、いつもそれは私にそっくりな心だと思ってきた。
地下室の手記 などあまりにも私すぎて途中から読む必要もないほどだ。
カラマーゾフの兄弟ですら、私がフョードルやアリョーシャに自分を見ることに変わりはない
ああいう自意識過剰ないつも鏡の前にいていつも人の目を意識するような自我にしてはじめて黙示録的な作品や叙事詩的作品を生み出せるのだ。
まあ普通の人はそもそも文学創作をしない。
でもフランス人の洒落気やドイツ人のロマンもなく、ひたすろ自分の傾向を刻み続けるロシア文学は異質にして普遍の中の普遍になるか。