【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

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文芸誌 草囁 合評会批評文② 2020年5月 H.F

前提①
アンネフランクが書いたアンネの日記を、文学作品として批評する人はいない。
文章が下手だとかここの描写がおかしいと言う人はいない。

アンネの日記が文学的価値を持つかといえばそれはない、あれはあくまでナチスに虐殺されたユダヤ人の少女が綴った文章だから価値があるのである。文学的な感動ではなく事実のもつ力に感動するのです。

つまり批評対象にならない文章というものがこの世にはある。沖縄戦満州残留孤児の話はどう表現されても涙が流れるし、今ならコロナウィルスで人工呼吸器をつけた後、復帰した人の手記が出たとして、それを読んでここがまずい、ここは読みてに伝わらない、そんなことをいう人はいないだろう。
さて
この松村さんの文章はこれはいったいなんだろうか?
文学作品なのか?
それとも自殺未遂という大きな体験をした人の手記なのか?
後者ならがんばってくださいと言って終わりである。
以上です


前提②
しかし前者=文学的作品なら、アンネの日記とは違います。

自殺未遂と言う極限状況の体験であろうと、文学作品として出したなら文学的価値としてどうか?と言う観点で批評のメスを入れられるのである。体験したことの内容ではなくてあくまで文学としてどうか?になる。そこでは作中に松村さん個人は消え、作者という人物に普遍化されます。だから作者の姿勢などへの批評が松村さんへの個人攻撃ではないということをまず理解してほしい。あくまで作品とその作者という一般名詞への批評なのです。
読み手にはこれが実際の体験であろうと、想像上の物語であろうと同じことです。想像してそれを普遍化してかけば物語に感動するように、事実をもとにした文学作品も普遍化することで読者の共感を呼びます。そのことにおいて昼寝の体験も自殺の体験も同じです。私たちは人の死ぬ場面を映画でも小説でもよく目にします。そこで涙するのはその死という現象にではなくて普遍化するように表現されていることによってです。


以上を踏まえて批評していきます。ということは長いですね。すみません(笑)
批評本番 前半

これは何か死にたくなることがあった私が、いよいよ自殺を敢行したが死にきれず病院に搬送され息を吹き返し、治療やリハビリが苦しいがこれからは生きて行くのだと決意し、10年以上のリハビリを経て驚異的回復をしてその体験をもとにこれからの決意を伝えようとする内容です。


全体を通して優れた文章で著されていて、描写も的確で読んでいても面白い。
しかし肝心なところで作者の生の声が入ってきてそれらの効果が台無しになります。
一切作者の生の声がなければそれなりに完成度の高いものになっていた。しかしこれだけばんばん生の声をいれると興ざめになる。
想像してみてください。
映画をみていて感動しかけるたびに映画館で監督が立ち上がり、管内の照明をつけて、私が作ったこの映画はここのところで私はこう思ったんですよと、解説がなされたらどんな気分になるかを?

この話は大きな体験の話であり、しかも死を決めた心が生きる覚悟をもつに至る大変化の展開だから、そこがきちんと書けるかどうかですべてが決まる構造になっています。

しかし驚くべきことに全くなにも自殺理由がなく、それを推察させるものすら一切書いていない。理由はなくてもいいという人もいるが理由を書いてたらそれを伏線として後半は楽勝で話を展開できます。
そして、やっぱり生きて行こうと決めた理由も単に死んだつもりが目覚めたから!
になっており、せいぜい直前にみた自分が自分のさいころを転がす人生ゲームの夢のせいになっている。
そのあたり、あの夢は挿入するならうまく書かないと連結点が失われ糸の切れた凧になるのですがぎりぎり持ちこたえたというところが前半です。文章の勝負は後半次第ということですね

④批評後半
一番リアルに書かれているのは未遂後の治療シーンであり、写実的な描写はうまくてよかった。これだけを書いていたらいい作品だったことは間違いない。
生の声がなぜか全体の流れに不釣り合いに前向きなので、バランスをくずしてしまい、せっかくのリハビリ描写に影を落とすことになります。

生の声を入れた反作用のせいで、この作品の最大の見せ場のリハビリ治療シーンだがよく読んでいると次のことが明らかになります

A:自殺未遂で病院に運ばれ治療してもらってるのに、湯船への入れ方がうまい人と荷物扱いの人がいるなどと不満をもつ。
B:自分が何をされるかわからない不安と恐怖があると病院を信用していない。
C:自身をひどい飼い主におびえる犬のようだと表現して結果として医師や看護師を酷い飼い主と言って批難している。
D:家族が見舞いに来たとは書いてるが、意識を無くした作者に叫んで声掛けをして心配する家族に対しての気持ちは全く書いていない。

自殺を図り救急搬送で病院に運んでもらっているのに周囲への不満ばかり言ってるのだ、これはないだろうと単純に思ってしまうのは私だけだろうか?救急治療中で頭がぼんやりしていたときは別にしても今は前向きに生きると宣言している作者が自殺にまつわる一切を被害者としてしか認識していないのは驚くばかりである

批評締め

様々な体験の重なりで人間不信だというようなことがあれば、それを書くべきでありそれを克復せずに前向きに生きるとかいても薄っぺらいのである。なのでちぐはぐ感がどうしょうもないレベルに達している。


さらに自己宣言の最初である。
ただ生きるのでない/私でなければできないことをやる/こだわりの人生をゆくのだ/という宣言をするのだが、ここでは自分の意志だけで乗り越えたようなニュアンスがある。

10年以上にわたってリハビリしたことを自分一人の努力とほのめかしている、この間家族の協力や病院側の尽力はなかったのか?そういうことへ感謝や申し訳ないという気持ちとかないのだろうか。やっぱり生きることにすると高らかに宣言しても、勝手なことを言ってると思ってしまう。死ぬのも勝手、生きるのも勝手、すべては自分の内面でしかないのだ、この人物の人生の出来事は。

そもそも「私」は追突事故の被害者でもなく大地震の被災者でもなく、自らの意思で鉄橋から飛び降りているのだ。それなのに避けられない運命の被害者として明らかに書いている。
被害者意識も極まれりという感じです。

蛇足としての追伸

私はわたしの生き様を皆に伝えたいのだ

それを生かしたいのだ
だから、こうして書いているのだ

これを書くために文章全体があるわけです。
この最後の宣言にリアリティをもたせ最後の宣言の土台となる文章を書けたら見事な激励文、普遍的な人生の応援歌になったでしょう。
しかしながらこの宣言文にリアリティを与えるような展開にはなっておらず、宣言は完全に浮いてしまっています。

そもそもこの「作者」の生き様ってなんでしょうか?
この文章から作者の生き様を取り出すと、それはリハビリをがんばったことしかありません。自死の現場から劣悪な運営をする地獄のリハビリを経て社会復帰した私というものを作者は評価しているとしか思えませんが、読む側からはそこには共感できるものがあまりありません。自分で自殺して大勢の人に助けられて運命にも助けられてこうやって命がある、だからお返しをしたいというならまだしも、この「私」はますます自己主張をしていくのだという形で終わるのです。


このような宣言文を入れずにひたすら人間不信と被害者意識を究めて書けばかなり迫力があったと思いますがこの作者は、そういう文章は書きたくないようです。
それは敗北の記録でしかないからです。
やはり格好つけておきたいという自我の強烈な自己主張を感じます。なので構成が空中分解を起こして、結局リアリティのない宣言がむなしく宙に浮くことになります


ひとことで言えばこれまでの2作品のように、筆力不足ではなくて十分な筆力がある。文学的意図が自我の主張なのである。つまり普遍的なドラマではなく作者の作者による作者のためのドラマなのである。

 追伸の追伸  肝心なことをあまりにも書かないことからこんな風な受取になっていると思ってください。こんな巨大なテーマは包み隠さず書かないと誤解しか生みません。こんなテーマを前に格好つけてたらまともな作品になりません。
まだ書きたくないならこんなテーマはまだ扱うべきではない。こんな体験はなかなか対象化できるしろものではないです。これを内面に秘めていろいろなことを書くというのが正しいやりかたでしょうね
五木寛之満州からの帰路で体験した家族の悲劇を書いたのはそれから50年も経過したころでした。