【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

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文芸誌 草囁 合評会批評文① 2020年5月 H.F

 ①幼年期や少年期の環境は、人間にとってはそこから逃げる手段も改善する手段もなくどうしょうもない与件ですです。でも人は成長し生きて行かなければならない。望まれない誕生であっても疎まれながら育てられても結果を引き受けるのは結局本人になる。
ここで終わればカフカ
不条理だがこれが世界の在り方だ。と結論づければカミユ。

同じ環境でもそれを克復してこそ人間だというのがアメリカ型自己啓発

この作品はカフカ的な、実存的あきらめの、そんな世界を描いたものに映りました。

坪内さんは基本文章うまいけどこの作品では割りとぼろぼろ。それは意見をたくさん書いたのとたぶんバーっと書いたのが原因でしょう。あちこちバラバラ感がありつめが甘かったりします。
紙に掲載される作品は普段がうまいひとでもその作品がだめならだめ、あとでリライトしますとのんきなことも言えない。
さて
そもそもテーマが大きすぎてこの長さには収まり切れないですね。
こんな大きなテーマを生で描こうとしているが、それをやったら30枚は書かないといけない。
いろんな人がもっとプロットを充実させて心情の描写なごも書くべきと指摘してましたが、それをこれでやったら最低30枚、60枚は必要でしょうね。

なので、これは小窓を使って大きな世界を垣間見る、そんな書き方が望ましい。
ゲーテフランス革命という大舞台を、「ヘルマンとドロテーア」という小窓を使って示したというあのやりかたです。(意味わからないときはググってください)
こんな大きなテーマそのものを500字程度では書けるわけがありません。小窓として書かないと破たんするんです、
で、見事に破たんしています


②この作品は淡々と武蔵との出来事とその後の武蔵の消息を写実的に書く以外におさめどころはないでしょう。文章というものは心に浮かんだ言葉を濾過したものだから、なんでも思ったことをそのまま書いたらボロボロになります。
講評の中には、武蔵についての作者の心情を述べるべきという意見もありましたが、それをやったら完全に空中分解したでしょうし、もしやるなら30枚くらいの短編小説としてでないとおさまりません。
多くの人が誤解してますが、作者が強く感情的に思ってることを表現するにはたくさんの心情を述べる言葉を並べないといけないというのは完ぺきに間違いです。そうやると自我だらけの文章に堕します。
逆に淡々と書いてしまうと驚くほどくっきりと武蔵の心やその生活が浮かびでて、作者の心情が浮かび出ます。そして作者の武蔵のような子どもへの同情や社会のしくみへの意見も浮かび上がります。淡々と書くというのは写実的に正鵠を得た部分をシンボルとして描写するということなのでこれには腕がいるんですよね。
前半は結構淡々と書いてますが母親の登場の時に幼い作者の心情が出てきてしらけますし、さらに30歳のときの新聞のくだりもしらけます。
このあたり、
「母に言われた。それから自分は一切武蔵と遊ばなくなった」の一行だけで十分効果を発揮します。さらに新聞記事の下りもその事実だけを書けば読者は自動的にいろいろ考えますよ。
「恐喝で逮捕されたという記事を見た。私は一瞬言葉を失った。
大きくため息をついて、私は窓辺に行き空を見つめた。あの時と変わらずに深い青色に染まる空に、今も変わらずに猫に餌を与える武蔵の無邪気な優しい笑顔が浮かんで、やがて消えていった」

これだけで読者には十分伝わります。
しいて意見を入れるなら
「武蔵を取り巻くみんなが武蔵を受け入れてあげたらこうはならなかったのだと思う、私のあとにもたくさんの人が武蔵と遊んではある日突然武蔵から消えたに違いない、幼い武蔵は数えきれない裏切りのためにその心は萎えてしまい、やがて社会の裏でしか行ていけなくなったに違いない」
これくらいにとどめないと。流れの中で言うべきことを語りつくすのが文学です。

③蛇足ですが
私的には冒頭部分のどこにも青空のくだりをいれる必然がありませんでした。作者は冒頭とラストに青空を入れたがっていますが冒頭は
幼いころに近所に武蔵という少年がいた。
これが冒頭でなくては!おかしいなあと思いますね。冒頭に青空の入る余地も必然もないんですよね。というか冒頭が二回ある構造になってます。

こんな書き出しだとまとまります



幼いころに近所に武蔵という少年がいた。
武蔵は私の家の真後ろにある、広大な空き地の隅に追いやられた小さなみすぼらしいアパートに、母親と二人で住んでいた。違う小学校に通っていたが、道すがらに顔を合わすうちに仲良くなっていった。
何度か家に遊びに行ったことがある。色褪せたカーテンを半ば閉めた侘しい室で、ものは散乱し、絨毯は埃にまみれていた。掛け時計だけがむなしい時を刻んでいた。母親はいつも奥間の部屋で眠っていた。「夜の仕事をしているんだ」と武蔵は言っていた。
武蔵は毎日、空き地に住みついた野良猫に餌を与えていた。その小さな痩せた体に着古した服を着て、給食の残りを猫に与えて、優しい目で食べる姿をじっと見つめていた。
その同じ空き地で私たちはよくキャッチボールをしたり、駆けっこをしたりして遊んだ。
毎日夕暮れ時まで遊び、疲れたころに「さよなら」を言って別れるのだった。

蛇足の蛇足ですが、この文章だけで幼年時代のこの時点での武蔵という子供がどんな心根をしているか、とてもよくわかります。
順番を正しく書くとわかるのですね。たいていの人はここで内面描写をしたくなるしすべきだと考える、ここで内面描写をしたらすべてが台無しになります。この流れで100を語っているのに内面描写をしたら10程度になってしまう。その辺の呼吸がわかってほしいと思うのですね。


この順番に並べたときにはすさんだ母親との生活の中でも武蔵は野良猫に餌を与えてそれを優しく見守る優しい少年です。私なる自分は、きっとそれを見て声をかけたのでしょう。その流れでその空き地で一緒に遊ぶことが増えたのだと、完全にわかるではありませんか?


みなさんからは今回もわからない、という意見がでるのですが、「わかるように書いてない」が正解で、ほんとにわからなかったらそれは大問題です。
 最後に一言。

淡々と書くというのはこう考えると意味がわかると思います。


ある人の部屋を書く。そうするとその部屋に住む人の性格や生活や人生観までわかる。これはもう部屋の視覚的情報を淡々と書くだけで充分に読者に伝わるし奥行もでるんですね。
たとえば
傾いた安っぽい絵画が埃をかぶっている
でとても多くのことを読者は感じます
なのにそのあとに、なのでこの人は几帳面じゃなくていい加減だとか作者の意見を書くとおまえの意見なんか聞きたくないと思います。

この随筆は最後まで森鴎外のような簡潔と淡々とした姿勢で書いていけば「作品」のレベルでしたが、現状は日記ですね。
坪内さんの日記としてはとても良いものだったと思います。