【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

YouTubeチャンネル『世界の名作文学を5分で語る』のブログ版です。世界と日本の名作紹介と様々な文学批評 そして自作の詩と小説の発表の場です

文芸誌 草囁 合評会批評文③ 2020年5月 H.F

この作品は根本において「生きる」のタイトルでいいのか?ほかの人の生きるは正面から生きるを捉えたものですがこれは生きることをおばさんを鏡に示そうとしたもの、もしくは、おばさんを鏡に見えたものは、生きることそのものだ、という展開を狙ったものです。でも、生きる、をタイトルにするようには展開していませんから、生きる、としての随筆としてはいまひとつ、でもある老婆とか、おば、とか私と兄の遺品争い、などのタイトルにしたらがぜん完成品になりますね。

個人は叔母伯母叔父伯父はまったくきになりません。ああ、間違えたのだなと思っただけですがこれが気になったり、これで読みがとまるなら、ほぼすべての人の文章や文体は止まることだらけ、気になることだらけで読めません
さて、では私と兄の遺品争い、というタイトルで読んだときはどうか?つまり生きる、というタイトルのものとでは弱いわけですが、おばさんという人の生き様から派生してユーモラな遺品争いの様子を描いたという点では愁眉の作品です。アラジンが伏線として貼られ最後はそれで締める展開も見事です。
このような田舎における老人たちの生き死にの在り方は、かつての村落共同体では当たり前のようにありました。そこに豊さとか貧困とかあまり関係ありません。そもそも生きてる間に死後のための用意は誰でもできるから気持ちの問題だけです。村落
共同体においては死は、あの世への引っ越しであり、残されたものもそれはただの順番の引っ越しであると割り切り本人も次は私だと割り切る、そうやって共同体の人員は変わり時はたちまたあらたな生命が訪れる、

そういう村落共同体の中のおばであり父であり、死の捉え方です

なので古き良き村落共同体の残光、としてのおばを書いているとも言えます
いえ、テーマは実はそうしたかつてあった故郷の日の名残りそのものでしょうね。
岩間さんの文体。というものがあります。確立した文体であり、詩においても随筆においても同質な文体で岩間さんは作品を書きます。この文体へ至る道が文学修行だったことでしょう。そしてこの文体は堀辰雄が軽井沢的世界ならなんでも書けるように、古き村落共同体的なことなら驚くほどうまく描写できます。
思い起こせば岩間さんの文章のテーマは故郷がらみのものがとても多いですね。そういうものを深堀することが作者の創造の基盤に無意識になってるわけですね。それはすでに村落共同体ではなくなったことも大きいでしょう、きっと。その点
私と非常に似ています。

岩間さんの「故郷シリーズ」として読むと、また新たな小窓を使ってかつての村落共同体の雰囲気を見事に伝えていると思いますね。
バルザックの人間喜劇のように故郷の登場人物は同じ人がたくさんの物語に出て来るようにすれば、おじとおばの出会いの物語とか、父の癌闘病の話とか、兄と自分の幼年時代とかいくらでも無限の宝庫のように描けるでしょう
でも岩間さんの文体では都市にでて精神的にぼろぼろになりながらどうにかこうにか生きている人物を書くには相当苦労すると思います。文章のすべてに自然と父祖の霊への尊崇の念と、太陽と雨と草花と人々への信頼とやさしさが満ちているからです。
詩にしても散文にしてもより高次の段階にいくときそれは岩間さんの大きなテーマとして待ち構えていることでしょう
いずれにしても完成した文体をもち、文章で世界観を示すレベルの岩間さんだから大きなテーマがあるわけです。
この作品はこの長さで短編小説のように語りつくせはしないからこれで良いと思いますが、癌の手術をしたお父さんが今生きてるかどうかは、いくら何でも自分の父親のことだから生きてるか死んでるかは最後に書くべきではないか。あるいは父が亡くなっているならちょっと重くなるから敢えてはずしたのかもしれませんが。