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文旅文学學校の批評 「生きるという随筆の批評」 Oさん HF


この母の倒れてから亡くなるまでの物語は、実体験だからこれを書けばたいへんな経験に読者は経緯を評するのだが、あくまで文学という観点で考えて行く。


これは、母との娘のドラマである。

この母の死に至る2週間を通して、これまでの母と私の諸々の葛藤や愛情の深さ、そんなことが凝縮して示される。

それは普遍的な娘としての在り方、母としての在り方、そしてこのような気性な母に支配され教育され反抗し大人になっていく娘の気持ち、母の気持ち、そんなことがこの2週間にすべて押し込められて、「わたし」は母とのすべてを再体験したのかもしれない。

この随筆の文学的意図は素晴らしいと思う。

だが普遍化してないところが随所にある。

そこはつまり共感できない部分ということだ。いやちょっとニュアンスが違う。共感できなくてもそれもありだなと思うこともある。あまりにも自分の枠の中でだけ考えることで、よくわからなくなるところがあるのである。

冒頭には母と娘のドラマの再現であると書いたがそれは想像してきっとそうなのだろうという意味で書いたのである。

この話では母がどんな人かあまりわからない。私がどんな娘だったか、父や妹との関係も類推の域をでない。しかも父と妹は医師からの容体の説明を聞かないというあり得ない態度を取る人たちである。この家庭は崩壊しすぎていて、心臓マッサージをやめる判断も夫である父ではなくてこのわたしとなり、それについて父と妹の感情にはまるで触れていない。

母の死を、筆者個人だけの体験談として書いており、母の人生も、父や妹のことも筆者は関心がないように見える。

それゆえ、母が天国へ向かったというシーンもどうも清々しさのないエピソードになる。

このわたしの目線はあまりにも私目線なのである。対象化できていないと思うのである。母の死というか鏡で、果てしなく自分だけをみようとする点では自我しか書いていないとも言えるのである。






以下おかしな表現の箇所。


課題随筆「生きる」

わたしは、長い二週間を経験した。

 一九八八年六月二十三日、母がくも膜下出血倒れたのだ。仕事先の松阪でのことだった。たまたま母と同席していた人が、すぐに病院へ救急車で連れて行ってくれた。大阪に勤めていたわたしに連絡が来たのは、夕方五時頃のはずである。


ぶつ切りの羅列になっているので文章に入りづらい。



 取るものも取りあえず、夫とともに母が運ばれた松阪の病院に向かった。松阪は実家から電車で二十分程度、大阪からは一時間四〇分程度である。当時の医学は技術的に劣っていたので、ドクターは頭蓋骨のまんなかが血で「黒く」染まったCT写真(当時はMRIはなかった)を示した。ドクターは病状の説明をした。

「処置が早かったので、左半分にマヒが残りますが、生存率は八割ですね」
 ドクターの言葉に、わたしたちは安堵した。
身体障害者になっても、生きていてくれるならそれでいい。

 母は、わたしに暴言を吐いたけれど、愛してくれていることは実感できた。わたしも母を、愛していた。大好きだったのだ。

 ICU待合室には、家族とみられるさまざまな人々が、治療の結果を待っていた。黒地の薄着を着た老人、子ども連れの主婦、頼りなさそうな若者。わたしたちも、待合室で寝泊まりして治療の結果を待つ。きっとよくなる。そう信じて。ICU待合室は、そのとき希望で輝いているように思えた。

 しかし三日後、病状は悪化した。生存率は五割になった。父も妹も打ちひしがれ、わたしと夫だけが、ドクターから病状の説明を聞いていたので、ドクターは夫を「長男さん」と呼ぶ始末だった。

 母は夫との結婚を大反対したが、結婚三ヶ月しか経っていないのに、夫はわたしを支え、つねにリードしていた。

 病気で倒れた一週間目、母は昏睡状態に陥った。生存率は三割を切り、植物人間になる、と宣言された。このままチューブにつながれて生きていくのか、看病はどうする。いろいろな思いがわたしの中を駆け抜けていった。母の姉である大阪の伯母は、「わたしはアテにしないでね」と言って、それっきり見舞いにも来なくなった。

 それからまた、約一週間経った。くも膜下出血でこんなにも長く闘病するのは、珍しいとドクターに言われた。

 ある夜、病棟でわたしは看護師に呼ばれた。母の浴衣を洗え、というのだ。それにはべったりと、大便がついていた。「思い出になるよ」看護師は言った。わたしは洗い場でそれを洗ってふと天井を見あげた。

 細長い蛍光灯に、小さな蛾がとまっている。蛾は茶色い羽根を持っていた。どこから紛れ込んできたのだろうか、大きさは、親指ぐらいだろう。暗闇に輝く電灯に貼り付いて、動きそうにもなかったが、いつしか蛾は鱗粉をまき散らして飛び始めた。浴衣を持つ手が震えてきた。赤ん坊のころには、母もわたしの不始末を洗っていたのだ。熱いものがこみ上げてくる。

 その翌日、ICU待合室で待機していたわたしたちの所に、連絡が入った。ぜったい意識は回復しない、と言われていた母が、意識を取り戻したというのだ。この奇跡に一条の光を感じ、わたしたちは母の病室に駆けていった。

 健康自慢だった母は、電極につながれた肉の塊だった。わたしが母に近づくと、母はわたしをじっと見つめ、

「ごめんね、ごめんね」

 と謝った。
 石にかじりついても、とか、根性、とかふた言目には口にしていた母の、初めての謝罪に、わたしはショックを受けた。母は夫にも、なにごとか言っていたようだったが、わたしは思わずその場を
逃げ出してしまった

 わたしは今でも後悔している。なぜ、あのとき
「そんなのどうでもいいわよ。石にかじりついても、でしょ?」
 って言ってやらなかったのか。そしたら、負けん気の強い母のことだ、もしかしたら、今も生きていたのではなかったのか。

 モニターが、ピーッと鳴った。母は目を閉じた。ドクターは、汗だくになって心臓マッサージをした。「もう、いいです」わたしはドクターに言った。解放してあげよう。母をこれ以上、苦しませたくはなかった。

 ドクターは、その後、母の左目が角膜移植に向いていると告げた。わたしはドクターに、臓器提供を申し出た。しかしドクターは、母の臓器は薬のためにダメになっていると告げた。わたしは角膜提供を申し出た。

 一九八八年の七夕に母は死んだ。梅雨空が切れて、銀河が見える夜だった。享年五二歳だった。八日の昼には教会の人々の歌う美しい賛美歌とともに、天国へと旅立っていった。だが母の思い出は、わたしの中で生きている。