文学創作 小説 詩 ポエム エセーのためのカフェ
一週間ほどして。ぼくは兄の部屋に呼ばれた。野口五郎が野口五郎岳に上る写真のポスターが貼られていた。ステレオはフル稼働で、その頃はいつもデビューしたての荒井由美か、吉田卓郎か井上陽水の歌がかかっていてぼくは自然に覚えていた。
「見つかった?」
「隣の村とか、先生とかはもらってもいいって言ってくれるんだけど、最後は頼めるけどね」
「いざとなったらね。でもミルはこの村の王様の奥さんみたいな猫だからこの村で暮らした方が幸せってもんだよ。隣の村とか川向こうの町とかにもらわれるんなら、うちが別府に連れて行くほうがいいもんね」
「そうだね」
兄は当時まだマイナーだった荒井由美の歌を聞きながらぼくに言った。
「好きな子とかいたの?」
唐突に聞かれたので少し言葉につまり、考えてしまった。
「うん。学校の近くに住んでる亜季ちゃん」
「ああ、音楽一家のね」
「うん」
兄は黙った。そして厳かに言った。
「おまえが引っ越すって言ってさ、その子がものすごく驚いたら、向こうも気があるってことだよ」
ぼくはそういうものかと小さく何度も頷いた。それから何気に兄に聞いた。
「兄さん、彼女がいるの」
「これからはペンフレンドになるね」
「転校いやじゃないの」
「いや、楽しみだよ」
「彼女は?」
「つきあってていつも楽しくて、いつも盛り上がってるわけじゃないからね。いい時期だったよ、引っ越すというのがね」
よくわからなくてちょっと返す言葉のなくなったぼくに兄は諭すように言った。
「男と女の仲もね。始めのころのウキウキしてる時期からはじまって、最高に盛り上がる時を向かえ、そしてゆっくり落ち着いた愛情と倦怠の時期に入り、やがてどうでもよくなって別れる理由がないから別れないだけで、そして最後に別れる理由ができて、たいていは別に好きな人ができたりつまらないことで喧嘩したりして謝る気がしなくなって、本当に別れてしまう、おれは倦怠の時期なんだ」
「わかんないな。ややこしいんだね」
「言葉にするとどうしてもややこしくなるけど、気持ちとしてはとても自然で簡単なことなんだよ。それよりさ、ミルはどうするかな、友達のところがだめなら、村の人で頼めそうな人に手当たり次第に頼んでいってみるかな」
「そんなこと、ぼくしたくないな」
兄は言葉を返さず、お前は内気なやつだったなという目でぼくを見て、音量を大きくした。
これはたいていの場合、出て行ってくれという合図だった。
ぼくは兄には黙っていたが、亜季に頼んでみようと思った。彼女は隣村に住んでいたが、家は広くて庭もあって、家族は皆やさしいのでミルも喜ぶと思ったのだ。それにぼくらの村でないと別府に連れて行くのと同じだと兄は言ったが、ミルほどの猫世界の有力者ならきっとボス猫たちを介して、隣村のボス猫に嫁入りし、隣村でもお姫様のように暮らし、かつまたぼくらの村との行き来も行われ、二つの村にまたがる女王になるのではないかと思えたのだ。
それは三月の、春の気配が木の枝先や道端の草や花のみならず、そろそろ町全体を覆い始めた日だった。ミル用に改造した手提げと籠を合体させたような入れ物にミルを入れて、亜季の家に向かう坂道を歩くぼくは、後ろから肩を叩かれた。
振り向いた時、一瞬のうちに多くのものが目に飛び込んで来た。
坂の随分と上の方から眺める亜季の村は海に向かって家々の屋根が、眼下に動物や昆虫の巣のように、そこに存在することが自然に感じられた。そして、その構築物は海岸線で途切れその向こうは真っ青な海が午後のけだるい光線の中に宝石のように輝いていた。波もほとんどなく、時折沖合いに波頭の白いささくれが沸き起こるが、海全体はこの世の営みを越えて、地球そのもののように青く、濃く、存在するものはこのようにこそ在れと言わんばかりにそこに在った。
その海の向こうは河口の向こう岸が視界の半分に移る。岸の間際まで山がせり出していて、それはそのまま九州山地へ連なっていく。山の稜線は晩秋から冬にかけての日の出の場所であり、夜明け前にはやがて来る太陽の気配がくっきりと稜線を浮き立たせ、空はばら色にかがやき、山は平面のシルエットのように逆に輝いてくる。
春から夏にかけては視界のもう半分、水平線まで広がる海と、おにぎりのような形の小さな島がある。そして水平線と思っている海のかなたにはよくみると四国の長い島影が海と空を区切る薄い膜のように張り付いている。