文学創作 小説 詩 ポエム エセーのためのカフェ
学校では亜季のおかげでホームルームの時間にミルをどうするかを話し合ってもらえた。そのこと自体は嬉しかった。みんなユニークな意見をどんどん言った。しかしユニークなだけで現実的に決定的な方法は何もなかった。それでも皆がぼくのために何かしてくれているというのは嬉しかったし、つくづくぼくは恵まれていると思った。但し、敵対するあの連中は相変わらずイチャモンをつけるような意見を言った。
「動物より人間の方が大事です」
ぼくは小学校一年の時には、六年生を見て彼らがものすごく大人に見えた。六年生にもなれば、いろんな好き嫌いや、意地悪や、わがままは消えて、誰もがやさしく、きちんと努力できるものなのかと思っていた。
「あの猫はぼくは知ってますが、野良猫として立派に食べていける猫です。美原くんに飼われているより幸せになるんじゃないかと思います」
ぼくはこのグループと四年生の時からずっと冷たい戦争をしていた。もとはといえばその中の一人と、くだらない理由で帰り道に決闘をすることになり、圧勝したぼくにいろんな陰口が起こったのが原因だった。あそこまで殴る必要はないじゃないかと。おまけにそいつが自分が勝ったといわんばかりの言い草でみんなにいいふらしていたので、教室でまたぼこぼこにしてやった。それ以来そいつのグループ四、五人が腕力ではかなわないのでいつも影でぼくのことをぐちょぐちょ言うようになった。
「うちに飼われてなかったら・・・・・・」
ぼくが激しい口調で立ち上がった時、亜季が穏やかに言った。
「それだけ立派な猫が選んだ家が美原くんとこだってことを、私達は忘れません」
それは不思議な雰囲気を持つ言葉で皆がぼくに拍手してくれた。ぼくは・・・・・・飼われてなかったらおまえに殺されていたかもしれない、という言葉を飲み込んだ。それは教室の空気を振るわせることはなく、ぼくの頭の中だけで出来上がりそのまま流れたのであった。
兄はぼくを再び呼んだ。
野口五郎のポスターがなくなっていた。
「最近ミルは晩御飯をうちで食べてないんだよ。でもおなかがすいてないみたいだからどこかで食べてるみたいんだ」
井上陽水の静かな声が部屋の中を満たしていた。
「ポスターがないのは今日彼女と話をして来たの?」
兄は静かに頷いた。陽水の声の伴奏のような動作だった。
「その人は悲しんだんだろうね」
「泣いたね。涙が、ほっぺたを流れるのがはっきりと見えた」
「嫌いだって言ったの」
「そんな野暮なことを言うわけないだろう」
それ以上は聞いてはいけないのだとわかった。
「最後にミルを引き取らせて欲しいって言われたけど、断ったよ。川向こうだからね。遠すぎるよ。おまえは好きな子に何か言ったのか」
そんなことを聞かれるとは思わなかった。
「ううん、言うことってないもん」
「そうだな、もう遠くに引っ越すから言ってもしょうがないけど、思い出に好きだって言ってもいいんじゃないか」
「そりゃ悲しいよ」
「でもここにいたときこんな気持ちだったって伝えるのは、大事なことだと思うぞ」
ぼくははじめてゆっくりとピアノを聴いた。切ないほどこころに響き渡った。
祖母の病室に入るたびにぼくは「おばあちゃん」と元気に呼びかけた。
そして、祖母の、元気はないが明るい声が応えてくれた。それは不思議な雰囲気を持つ声だった。あの世に移る時に、霊が発する言葉のように感じた。この世に属するならば、消え入りそうな声にしかならないはずだったから。
祖母はその頃入退院を繰り返していた。そしてその頃はもう、子供たちのうわさ話の翌年の死者のリストに入っていた。五年前に祖父が亡くなってからめっきりと元気がなくなって今や祖父と同じ不治の病にかかっていて、後はどれだけからだが持つか、という状態だったのだ。
「もうすぐ別府に引越しだね」
「うん、でもお見舞いにはしょっちゅう来るよ」
「ありがとうね」
病室は灰色の壁と床と天井の空間に、灰色のパイプベッドが二つあって、祖母の他にもう一人おばあさんが入院していた。
「うちの孫は大分にいるからめったにこれないけど、来た時はあんたみたいに元気に話しかけてくれるんだ」
そして、自分の孫用に用意しているお菓子をぼくにいつもわけてくれるのだった。
「今日はおばあちゃんが会いたいって言ったからミルを連れてきたよ」
ミルは籠から顔を出してミューと啼いた。
「よく来たねえ」
祖母は頭を撫でて顎をさすってやった。ミルは薄目を開けて気持ちよさそうに息を吐いた。
「うちの村の猫にはね、ご先祖様の魂が乗り移ってるんだよ。いつも一緒にいてくれて村を守ってるんだよ」
ミルの霊はそうすると随分と気高い人だったんだろうなとぼくは思ってしまう。
祖母はミルを抱きかかえて籠から出した。そしてミルは祖母の足の上に丸くなって寝た。ぼくは控え室から本を取って来ようと廊下に出た。隣のベッドのおばあさんもたいそう喜んでミルの頭を撫でていた。
祖父が亡くなるころ、この病院にいつも来て退屈な思いをした。
この廊下でたくさん本を読んだ。だから、悲しい思い出と共にいろんな物語の記憶が病院の風景と一緒くたになっていた。病室や控え室から見える火葬場の煙突は、この病院を死神病院という渾名にして、事実、直らなくなると、郊外のこの国立病院に皆入院するのだった。火葬場は、しかしきれいな山並みの一角にあった。春には新緑がまぶしく夏は入道雲が窓一杯に広がり、秋の紅葉も見事で冬は雪景色に二、三度巡り合えた。それは静かで美しく、生と死の境界に降り積み、何ものもこの世界の邪魔はできないのだと感じ入るのだった。この病院と火葬場とその二つの施設を取り巻く空間は、まさにこの世とあの世の境界であった。
ミルは祖母のベッドで熟睡したようだった。また箔がついたとこころの中で舌をだしていることだろう。集会で人間の死に際について、他の猫に演説している夢でも見ているかもしれない。ふとぼくはミル達はどのような境目を通ってあの世に行くのだろうと思った。猫はいつの間にか人目につかなくなり、いつの間にか忘れ去られる。
「別府の家じゃ、おばあちゃんの部屋はぼくの隣だからね」
ぼくは帰り際に必ずこう言った。
祖母は頷いた。お地蔵さんが頷いているみたいだといつも思った。兄はもっと悲しそうな顔をしていたように思うが、病室での兄の記憶はない。兄はいつもぼくの脇でぼくの未来の体験をしていたのだ。