文学創作 小説 詩 ポエム エセーのためのカフェ
引っ越しの日が間近に迫っていた。
その午後、ぼくらは堤防で寝転がっていた。
亜季は起き上がって「気持ちいいね」とぼくに語りかけてくれる。
「うん、いろんなことがたくさん想像できるんだ。こうやって雲の流れるの見ると」
肩にようやくつくくらいの亜季の髪が、海風になびいていた。
亜季はまたぼくの隣に寝転がった。
「雲が大きく見えるね。こうやってると」
それからぼくは雲や空に亜季のことを映して喜びに浸った。
雲は大きかった。そしてその巨大か雲の端が、ゆっくりとちぎれるように分かれていく。まるで船に乗った恋人に手を伸ばす物語の英雄が、離れていく船を戻すことはできず悲しんでいるシーンのようだとぼくは思った。
「雲ってこんなに形を変えていくのね。一日中見てたら、神話とか出来上がってしまうね、きっと」
「よくわかんないけど、美原くんのそういうところ、わたし好きよ」
ぼくは驚いた。今好きよと言った。
でも、性格の一部が好みだって言っただけだなと気持ちはトーンダウンした。
でも言葉の意味とは別に、その言い方は確かにぼくのことを好きなんだと言ったようにも感じた。
白い雲の背景の、その日の空の青は深かった。
この景色を目に焼きつけて、見たいと思ったら呪文でも唱えて、写真のように頭の中に
再現できればいいなとぼくは思った。
今度はぼくが半分起き上がった。
亜季を見ると目をつぶって気持ちよさそうに日の光を顔に受けていた。
「ミル、幸せになるといいね」
亜季の唇が動いて言葉を発する。ぼくは映画のラストシーンのようなことをしたかった。現実の世界ではそのシーンの後でも何度も何度も日が昇るが、心の中では時間には確かな境界がある。
「時間には境界があるんだよ、亜季」とぼくは心の中で叫んだ。
そしてぼくはゆっくりと亜季の顔を覗き込むようにかがんでいった。
するとどこかで「みゃー」という鳴き声がして亜季が目を開けた。ぼくらは至近距離で見詰め合うことになった。
二人ともきまずくなって声のした方を見た。ミルが微笑んでいた。間違いなく微笑んで頷いていた。
「知らない間にしないでよ、ファーストキスなんだから・・・・・・」
それからぼくにとってもそれはファーストキスとして生涯の思い出になったのだった。
ミルはきっと人間の純な心根について、猫族の中でおしゃべりするのだろう。また箔がつく。野良猫だろうとなんだろうとぼくの村では生まれつき猫に上下の区別はなく、猫はみなその人生で積み上げた経験と行いによって箔がついていくのだ。
すべての猫は村そのものが飼っていたのだ。ある家がある猫を飼っているのはそれは村からの授かりものだったのだ。
人々は先祖の霊を供養するように、路地や屋根の上や押入れの中などにいつのまにか住み込んでいる猫たちを知らず知らずのうちに拝んでいたのだろうと思う。ミルとは永遠の別れになる。でもミルの霊はまた別の猫に入り込み、村がある限りミルはあり続ける。
「ぼくたち、せっかくここまで仲良くなれたのにね」
「未来のどこかでまた会えると素敵じゃない?」
その日はあとは手をつないで堤防から帰った。いろんなものの気配を感じてぼくは言葉を無くしていた。
次回最終回