文学創作 小説 詩 ポエム エセーのためのカフェ
その頃好きだった女の子に
もう二度と会えなくなったので
空一杯にその子の顔が広がって
シクラメンの香りを聞きながら
ゲーテやハイネの幾つかの
抒情詩を読んでため息をついては
その失われた世界にこそぼくは
確かに住んでいてしかも
二度とそれが現実には甦らないのだと
はっきりとわかってしまって
はじめて徹底的に
あきらめるということを知って
この世はそのようなところだと
自ら思い知ったのであった
そしてその時
シクラメンの香りのバイオリンの音に
胸ふたぐ毎日に
楔が打ち込まれようとしていた
今ではぼくは科学的態度を持って
比喩ではなく
ランボーが本当に
母音の音を視覚野で聞いたのだと考える
おそらく目から聴覚野に行かず
耳から視覚野に行かず
味も触感も匂いも皆交互に入り乱れ
あるべき関係がすべてずれて
別のもの同士が新たな感覚を作り
そこにヒトでない受容体を作り上げた
あるいは
人間を超えるモノだったかもしれない
無限の光波の中から七色しかつかめないように
無限の世界のうち感覚でつかめるものは
ごくわずかであり
それをくくって
世界としている人間の中にあって
感覚の混線は神々しさを生んだのだ
ランボーはぼくに
感覚の水平線や地平線の向こうに
何かが確実にあると囁いた
十四歳のぼくは
翻訳の奥底にかすかに彼の地声を聞いた
かすかさゆえに神託めいた真実をさえ
まとってそれらの詩は
ぼくの
緩やかだった血の流れを大河に変え
それはあらゆるものを押し流し運んだ
止まっていたリズムを
大きく鼓動させ
あちこちで眠っていたものたちを
一斉に目覚めさせた
でもそれで終わったのだった
ぼくはランボーだけでは当たり前だが
生きていくことが出来ず
しかしそれでも当時はこの詩集があれば
他に何もいらないと確かに思ったのである
それは命というものに対する絶対の信用を
ぼくに植え付け
それだけは未だに微動だにしないのである
この感覚乱舞と常に現れる地平
そしてかなたへと向かう爽快感・・・・・・
そのスタートは
シクラメンの香りに胸ふたぐ日々であった