随筆エッセー
文学創作 小説 詩 ポエム エセーのためのカフェ
旅の終わりの『書物』たち
古荘英雄
人生の最後をホスピスの個室で過ごした父の周りには愛読書というものはなかった。
意識が朦朧とする時期は別にして、体調が良好だった二週間にも本を読むことはなかった。若い頃は『アンナカレーニナ』を三回読んだこともあるそうだが、臨終を前に書物を友とする人ではなかった。
だが私は本なしではいられないだろう。読めなくてもそこにその本があるということが、私を支える。愛書家というのは誰でも実際に読む本は、蔵書全体との割合で行けば微々たるものだと思う。本というのはそこにあっていつでも読める状態にあることそのものが大きいのだ。
だが病室に数百冊というわけにはいかない。持ち込めるのはせいぜい五十冊程度だろう。弱った体で長く読むこともないだろうから、一回につき一行読むだけかもしれない。背表紙を見ながら、その本の内容を思い出すだけかもしれない。破れたカバーを触って、その本の物としての思い出にふけるだけかもしれない。
骨肉となった書物を選ぶことになるとしたらそれは何かを考えてみたい。
死へ向かうとき、共に在るべきものたち。
①辻邦生のパリの手記のシリーズ
これは修行中の辻邦生が小説についての思考を書きめぐらしたものだ。
この最初の巻は1980年の福岡の天神コアビルで買った。それから第二次のパリの手記。今度は作家となった辻邦生が霊感を得るためにパリに滞在したときのフランスと日本と文学のエセー。これは東京の西武新宿線の野方駅の本屋で買った。
②トーマスマンの評論集
③トーマスマンの評伝
これはマンの生涯と作品を解説した本で大学の本屋で買って繰り返し繰り返し何度も読んだ。若き日のマンと六十代で亡命するマン、ゲーテを師と仰ぐマンはぼくの手本だった。
④『二〇年代パリ』
ジョイスやヘミングウェイやフィッツジェラルドのパリ時代を書いたもの。ヘミングウェイの『移動祝祭日』からの引用が多く、最初の妻ハドリーと別れパリを離れるヘミングウェイに、やがて東京から去らねばならなくなる自分を映したものだ。
⑤『書いた、恋した、生きた』
⑥『世界近代詩十人集』
ランボーとボードレール、ハイネ、エリオット、ホイットマン、リルケ、ヴェルレーヌ、イエーツ。この十人が一冊になっていた。買った日の天気や、本屋の前の交通安全週間で出動していたパトカーのことも覚えている。文字通りぼろぼろになった本で、エリオットなどは評伝まで買って熱中した。
⑦モーパッサンの『ベラミ』
⑧シュティフターの『晩夏』『石さまざま』
これらの本の中には大事なものが全部あるから聖典です。
⑨ケラーの『緑のハインリヒ』
中でも第一巻は一九八〇年に出会って以来の付き合いだ。
⑩『ゲーテの生涯』
中学のとき長崎で買った。また『評伝ゲーテ』を初任給で買った。
これが私の文学の出発点で、武者小路実篤はすべて読んだ。この作品の月夜のイメージは人生最後の瞬間に身を置きたい空間のひとつである。
10冊ではおさまらず、12の本になってしまった。
そしてまだまだ書き切れるものではない。とりわけヘッセやカロッサや、村上春樹や清岡卓行についてまるで触れていないのは片手落ちだが、とりあえずこれだけあればほぼ私だ。私はこれらの書物の範囲内で自らの魂を調律し、これを基盤にどこにでも行くことができた。
不思議なことにみなすべて中学から大学のときに出会った本だ。結局私は学生時代に得た糧を生涯にわたって消費し続けたのだ。そしてそのエネルギー源は、消費すればするほどなくなるどころかますます光を増す類のものであった。
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最後の病室で辻邦生とパリのカフェでトーマスマンについて語り合う夢をみたい。
隣の席ではヘミングウェイが『移動祝祭日』を書いている。
すぐそばをモーパッサンが散歩する。
やがて舞台は変わり、母校の古い図書館でドイツの長い物語を読む。
生涯の終わりにその図書館の閉館を告げに来る人は誰だろうか?
そっと耳元で囁くのか、それとも入り口からぼくに呼びかけるのか?
秋の夕暮れ、紅葉は頭上で夕焼けと混ざり合う。
ぼくは残った空の青の奥に目を凝らす。
隣にいるその人はぼくの手を握る。
ぼくは満たされる。
何と言う歓喜に包まれることだろう。
そしてぼくらは世界に溶ける。