「作品」と「作者」と「批評」についての思い出 長いエッセー
らむぷ はセカチューの片山恭一さんや高樹のぶ子さんも所属していましたが、
さてらむぷは半年に一度発刊され、合評会が年に二回ありました。それ以外の月は勉強会です(笑)
合評会は修羅場でしたねえ( ´∀` )(大笑)
議論は白熱して、しかも酒を飲みながらやるという悪習のために、そのまま席を立って帰ったり、そのまま退会などということもありました。
ただ、いつも短編を真剣に読んでると、小説は技術的な基礎がないと特に読めたものではありませんし、内容に広さ、深さも結構くっきりします。文学作品は書き始めのときは、作者の自我ばかり浮き出るようになりがちなのですが、小説においてはいかに自我を消すかは重要なポイントです。
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ぼろくそに言われて二度とあいつらの顔など見るもんかい!!
と思ったことがぼくも何度もありました。(笑)
ところが面白いものでそういう作品に限って新聞で高評価で紹介されたり、雑誌の新人賞の予選を通過したりしましたね。(ささやかな思い出です)
するとあいつらの批評はなんだ?ということで次に会ったときに「新聞紹介されることになりましよ」
とちょっと強気に言うと、ぼろくそに言った人たちは何事もなかったように
「いろんな読み方があるからねえ、おめでとう」
作家としてラジオにでたこともありました。(ちょこっとですが)そのきっかけとなった小説も、彼らにしたらぼろくそです。
「子供のセリフとして整合性にかける、、大人のあなたが子供の口を借りて大人の意見を言わせているからリアリティがない。でもいろんな読み方がある、おめでとう」(笑)
こういう肩透かしのようなことを何度も経験してわかったのは、彼らはぼくのことなどどうでもよく作品を自分のために切り刻んでいただけということですね。
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そうは言ってもこちらがかれらの作品をぼろくそに言うと、「なにをいうか!これはだなあ・・」とはじまるのでした(笑)
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今振り返ると。
終わってみれば腹のたった部分は忘れ、アドバイスとして習得した技術だけが残りましたね。それはもうそれだけ真剣に言い合ったので、ものすごい質量のアドバイスを受けますから、次作を書くときには無意識レベルでもうそれを咀嚼している自分がいました!!
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そして一番の古参の人たちはつまりプロになっていないということですから(笑)
彼らはつまり片山恭一さんや高樹のぶ子さんにもぼろくそに言ってたらしいです、(大笑)
まあ批評というのはそういうものですね。そこから使えるものを自家薬籠中の物にしたもん勝ちですね。他人は自分ではないから自分のように読むわけがありません。でも技術的なアドバイスと内容の批評をわけてとらえることも大事かなあというのが実感です( ´∀` )