【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

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自作の詩 ロシアのトルストイ伯爵を中心とした物思い

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ロシアのトルストイ伯爵を中心とした物思い

 

若いころは19世紀のヨーロッパの長編小説を読まないとけないと、単純に考えていました。昔は、戦争と平和とかアンナ・カレーニナとか読むと、立派な人間になるものだという空気がまだかすかにありました。

 

 

 

トルストイを愛読する人たちが、トルストイについて語るのを読むのも好きでした。武者小路実篤の単純な賛美から始まって、ロマン・ロランがもっとも強く影響されたのは美的なものだったいう意味がよくわからないまま彼のトルストイの生涯を読み、彼のジャンクリストフにも手を出しましたが、8割がた読んでやめました。魅せられたる魂は最初の5ページと最後のあとがきのような文章で終わっています。

 

 

マルタン・デュ・ガールも戦争と平和を読んで決定的影響を受けたといいます。彼のチボー家の人々もまた4割がた読んでやめました。私がこの人たちについて一番読んだのは彼らの年表でした。いつごろからどんな本を読み出し、学生時代はどんな文学に興味があり、デビューは何歳だったのか、などです。

 

 

さて、やがてトーマスマンという人が、トルストイについて徹底的に語るのを読みました。

 

トルストイゲーテホメロスと同じ息吹を世界内面空間に示すのだそうです。ちなみにドストエフスキーはシラーや黙示録やニーチェと同種です。叙事詩的なものと黙示録的なもの。このカテゴリーで果断に詩人の傾向を分けます。黙示録的な人は日本にもいるような気がしますが、近代以降、叙事詩的な人はいないと思っています。国民性の問題だと思っています。

 

マンの批評群。ドンキホーテとともに海を渡る、ゲーテトルストイゲーテファンタジー、市民時代の代表者としてのゲーテ、作家としてのゲーテの経歴、ゲーテファウスト、アンナカレーニナ、チェーホフ、シラー試論、シュトルム。亡命先のマンはゲーテを鏡にして生きていたのです。若いころはトルストイに熱中して、長編を書いていたといいます。

 

 

 

散々回りをかためてトルストイを読んでみましたが、確かに戦争と平和はすばらしい作品です。あれは短編集です。短編連合です。ナポレオン戦争当時のロシアを舞台にした人間喜劇です。長編小説ではないと思います。その証拠に私は通しで読めません。知り合いにあれを読んでよかったと言ってる人はいません。トーマスマンが亡命中にヘッセから借りて戦争と平和を二週間くらいで読む話がヘッセへの手紙の中にありますが、そして読んでいる間、それは自分を支え続けたというくだりがありますが、北方のヨーロッパ人はやはりずいぶん違うものだと、今は素直に関心します。

 

 

 

マンが、戦争と平和を楽しめない人は才能がないと言ったので無理して読もうとしたものです。炎に包まれるモスクワを逃げながら眺めて泣く老人。上の階のテラスで夜中に話すナターシャの声を聞くアンドレイ。ボロジノの戦場でそのアンドレイが砲弾に打たれて倒れた後眺める青い空と流れる雲。ナターシャの裏切りを許さないと断言するアンドレイと別れたピエールが夜中の馬車で眺めるほうき星。帰還したニコライを迎える貴族屋敷の人々。死にいくマリア。戦場の露と消えるペーチャ。捕虜の小屋から星空を眺め突如悟りを開くピエール。エレナと初めて会ったとき、ピエールが眺めるエレナの胸元。なんと私は相当あの小説の中味を覚えています。今あげた例はそれぞれ立派な短編小説、だからあれはやはり短篇群、バルザック的な人間喜劇です。そうやって出版するとあらたな読者がつくと思います。あれを一機に読む人は21世紀にはいません。老後のわたしくらいでしょう。

 

老後の私は叙事詩として、ギリシャ人がホメロスの六脚韻を夕べのたびに楽しんだように、

 

 

戦争と平和のロシアの人々の物語を、あらゆるものが詰まった、そして海のように広がり戻り、蒸発しては雨となって戻る出来事として、その大きな流れをそのものを楽しめるでしょう。

 

 私はウィルヘルムマイスターや緑のハインリヒや画家ノルテンや、戦争と平和、アンナカレーニナ、ジャンクリストフ、魅せられたる魂、チボー家の人々、晩夏、ヨセフなどを晩年読むことを楽しみにしているのです。人生の忘れ物を拾う気分です。

 

 さて、アンナカレーニナのコンスタンティン・レーヴィンの話に、本題に入りましょう。アンナカレーニナの最後のシーンはアンナの自殺ではなくレーヴィンの物思いです。ここがあの小説の真髄、マンがこれを書いたのはレーヴィンその人であるといいました。あれは、レーヴィンとキティの結婚生活、という俗っぽいタイトルがぴったりの夫婦の倦怠期話です、。

 

 

 これ以上はロシアの小説みたいに方図もなく長くなるのでやめます。でもキティに振られて自宅の大邸宅に戻るシーンから最後のシーンまで、人生もロシアの小説も本当に長い。そして、何一つ進歩しない人物がトルストイの登場人物です。わたしは、ああはなりたくないと思っていたけど、結局、レーヴィンのように見初めた自分のキティと結婚して出産を眺めて、子供が育つのを眺めて、そして、20歳の精神のまま四十代も後半です。農場で星を眺めるレーヴィンと何も代わりがありません。トルストイのように最後は家出して自殺でしょうか。それともゲーテのように80歳で20歳の娘に振られて詩でも書きますか。ヘミングウェイ芥川龍之介太宰治三島由紀夫川端康成も自殺でした。モーパッサンカフカやカミユやニーチェなどは不慮の事故や結核や梅毒なんかで死にました。

 

 ヘッセなんかはモーツァルトを聞いた夜、脳溢血で死んだんです。最高の死に方です。

 

 

 

わたしはでもトルストイゲーテのようになり勝ちです。ゲーテは死ぬときはおだやかでした。シュティフターはがんの痛みに耐え切れずかみそりでのどを切って死にました。

 

 死に方というのは研究しとかないといざというとき間違いますね。ヘミンングウェイは朝鮮戦争で死ねばよかったんです。それからトルストイロシア皇帝に直談判に行って絞首刑になるべき聖者だったかもしれません。

 

 私は座って息をして、太陽の光を集めて食べて、月を見ながら最後の痛み止めを打って死ぬ。

 

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秋の日のクラシック音楽の詩 2編

 秋の日のクラシック音楽の詩 2編

 

巨人マーラー交響曲が始まる

1.
マーラーの演奏が決まると
指揮者も演奏者も日常生活が破綻するという
交響曲はただでさえ長いのに
ブラームスやベートーベンの倍近くあったりするのがマーラー
2.
しかも
頻繁に訪れるソロパートには
バイオリンやチェロ フルートやクラリネット
そしてラッパの類
そのどれもが緊張に満ち満ちた旋律を完璧にこなさなければ
演奏全体を壊してしまいかねない
ソロパートを担当する奏者は講演終了まで緊張とストレスの渦にいるのだ
3.
そしてソロをもたない奏者たちも
流れにのったメロディーを奏でながら万一の多少のミスはカバーできると思いきや
緊迫と切迫の巨大な効果音の連なりに
かけらのミスも許されないのだ
4.
そしてそうした全体を指揮数る指揮者にいたっては
もう朝のコーヒーも夕方の散歩も愛犬のかわいい瞳も家族の存在も友人とのおしゃべりも
マーラーの呪縛から守ってくれない
もう終わるまで耐えるしかないのだ
唯一の慰めは 自分は今マーラーの暗澹とした人生そのもののようなトンネルを歩いていて
マーラーの曲のようにやがて光の世界へと抜け出すことが決まっているということだ
5.
そのようにしてマーラーは奏でられ
そのようにしてマーラーは聴かれる
6.
だからこそユダヤ人指揮者インバルは言った
「こんなおおげさな 狂ったような音楽は避けられていた。
マーラーが本当に理解され必要とされるようになったのは
二つの大戦とホロコーストの衝撃を人類が知ってからだ」
7.
今 私がこれを書きながら聴いているのは
マーラー交響曲第二番 復活 
聴きはじめたら 最後まで聴くしかないのだ
生まれたら 最後まで生きるしかないように
 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 

【秋の日のブラームスの霧】

ブラームスの霧:ブラームスに特有の霧のかかったような雰囲気を醸しだす 高音のオーケストレーション
***********
部屋の中に満ちてくる
あの 見知ったクラリネットの静かな音色が
秋の色どりを連れてくる
そしていずれの瞬間にもとどまることなく
時間の上に 確実に乗ったまま
旋律が
自然界には存在しないメロディーという人工物が
今 この時の上を
あまりにも自然に流れていくのだ
そして霧が深まり
心が覆われていく
 
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『宇宙船から地球を見つめるようには 地平線に目をやれない』

『宇宙船から地球を見つめるようには 地平線に目をやれない』



宇宙船から地球を見つめるようには
地平線に目をやれない
はじめて人が馬を乗りこなした時
すでに未来に向かって戦死する馬の数は決まってしまったのだ
始原の交通革命によって人は地平線のかなたにまで平気で移動するようになった(*馬によって日に300KMの移動が可能に。それまでは30KWだった)
土埃を立てながら見たこともない動物に乗って信じられないスピードで統率の取れた集団がオアシスの周りをねぐらにして以来
馬に乗らない人々は地平線を禍々しいものとして恐れるようになったが
馬に乗る者たちは未来と希望を告げるものとして地平線を夢見るようになった
この時から 宇宙船から地球を見つめるようには
地平線に目をやれなくなったのだ
虐げられた平和主義者の狼たちが群れを追われてやってきた最初の日はいつだったか?
平和な肉を取り 仲間内でそれを分け合うことなく
早い者勝ちで貪り食うことへの反発から
宥和を愛する狼の逸脱者たちは人の群れへとやってきた
そして夜 自分たちが捨てた狼の群れが来ることを・・・
その闇の中の危険を・・・
人に伝える代わりに争いなく餌をもらうようになった
その始原の取引以来
それらの狼たちは犬と呼ばれるようになった
宇宙船から地球を見つめるようには
地平線に目をやれない
地平線から 馬に乗った人の集団が土埃を上げて襲来し
闇の広がりに潜む敵意に対して目を配る夜が重なっていき
あまりにも多くの物語があとからあとから続いていった
ゆえに
宇宙船から地球を見つめるようには
地平線に目をやれない

詩:<祭り|地球上のどこであろうと人がいる限りそれはあり続ける>

 <祭り|地球上のどこであろうと人がいる限りそれはあり続ける>



地球上のどこであろうと
どんな宗教を信じていても どんな言葉を話していようと
山であろうと海であろうと そこに人間がいさえすれば
そこには祭りがある
神々が海のかなたからこの浜辺に上陸した
神々が山から降りてきた
神々が天から降って来た
それを記念に踊り歌い 酒を浴び 太陽を浴びる
森!
そこにあるのは森という<共生のシステム>だと
21世紀の科学が見つけた
1本の木は自分を犠牲に他の木々へ昆虫が押しかけぬよう
自分に引き付けるための粉末を気体にして噴霧するという
また
高い木々は生まれたての木々に地下の菌ネットワークを通じて
光の栄養を分け与える
他者である菌が森中の木々を地下で結びつけているというのは
メタファーに満ち満ちた生命本来のありかたではないか!
そんな森に入るとそのシステムの荘厳さに人は厳粛な気持ちになり
それを神さびた森として崇め敬う
そこにはきっと人をおとなしくさせる化学物質の噴霧さえ
行われているのだときっとやがて発見される
神々は不死だが 地上の生命は死ぬ
子供なのに死ぬ
若者なのに死ぬ
子供を産むときに死ぬ
子供を育てているときにも
成長したわが子の顔を知ることなく死ぬ
いったい いつから人は年をとって病院や家のベッドの上で
安らかに死ぬものだと思い込んでいったのだろう
死の縁は無量なりと 親鸞の時代にはすでに喝破されていたのだ
だからこそ
すべてを忘れあきらめ 受け入れ
再び 明日へ向かうために
祭りが行われる
始原の祭りはいつだったことか
その日 誰が どんな気持ちで
祭りをしようと言い出したことか!
火山が夜陰を引き裂き 神が怒ったかのような
音響と熱量を地上にもたらしたあとか?
大洪水が築いたものと結ばれたもののすべてを押し流していったあとか?
冬の日の雲が 溶けて舞ってくる白い華が
美しくやさしく大地を覆い続け
残酷に食料のすべてを閉ざしたあとに訪れた春の とある一日だったか?
祭りとは
生き残ったものたちの
安堵と感謝と悲しみと
死者への記憶との結婚の場だったのかもしれない
だからこそ
歌い
踊り
酒を浴び 太陽を浴びる
地球上のどこであろうと
どんな宗教を信じていても どんな言葉を話していようと
山であろうと海であろうと そこに人間がいさえすれば
そこには祭りがある

『わたしに寄せ来る海と夢』

 『わたしに寄せ来る海と夢』


わたしの前にある海は

遠くに島影を見せながら

夕暮れになると海岸を

覆う優しい 布団のようでありました


わたしの前にある海は

若い希望の残骸を クラゲのように打ち上げながら

まだ生きていても いいのだよ と 

荒い中にも優しい潮風の 歌声のようでありました


わたしの前にある海は

水平線まで広がって

雄大にも平和と未来につながった

若々しく 躍動する 魂のようでありました


わたしの前にある海は

連れ去られた悲しみと

取り戻せない悲しみに

鎮痛に鈍く輝く お日様色の午後でした


わたしのあとに残る夢は

20歳の頃の恋心

彼女の白いブラウスが 夏の太陽に

きらめく梅雨の あとでありました


わたしのあとに残る夢は

すべてが終わった人生の

出来事すべてを飲み込んで

日ごと おし寄せる 波のようでありました


わたしの前にある夢は

海のごとくに変わりゆき

やがては時のはしっこで

最後の夢さえ 消えていくのでありました




様々な雨の回想

 【様々な雨の回想】初稿
この雨の音を初めて聞いたとき
言葉を知らぬ私の横には
前足で顔を洗う猫がいて
二人はそろって背伸びをしていた

やがて ランドセルに黄色いカバーをかけて
黄色い傘を片手に水たまりを飛び越えて
猫たちに手をふって
私は最初の学び舎へ 向かっていた

やがて 雨が降ろうが灼熱の太陽だろうが
時計と手帳のリズムとテンポで
ひたすら外を歩き回るわたしがいた
物陰の猫たちに目もくれず

もう 何回雨が降っただろうか?
行先も帰る場所も様々に変わったが
雨の音だけは変わらない そして
猫たちの人知れぬ営みも私にずっと寄り添っていた

堤防|詩

 堤防

その堤防は海への道であった
そしてまた風の通る道であった
それは外海と
港の守る内海の領域との間に
見事なほどの一線を引いていた
しかしそれは物理的には違いはなく
魂に立ち込める雲の作る境界であった
堤防の上の空間に光が
時によるとオーロラのように
たゆたいながら現れては消える像を見た
だが在り方としてはそれは海への道であり
それはすなわち物理的な海への道であった
子供たちはその当時
夕暮れ時に堤防の突端に行き
何をするでもなく海風に吹かれながら
語り合ったものだ
次の葬式の予定について
その頃はすべての死者は村民総出で見送った
その年の死者の名を誰もが言えた時代だった