【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

YouTubeチャンネル『世界の名作文学を5分で語る』のブログ版です。世界と日本の名作紹介と様々な文学批評 そして自作の詩と小説の発表の場です

詩の批評文

A
言葉が有機的とは言葉が肉体化しているということですね。
言葉が肉体化しているというのは
その言葉が作者によって十分に咀嚼されているということです

それとともにどの地平に作者が立っているかというのも大事で
この詩では
作者はだいぶ余裕のある立ち位置にいます
なので
迫力がでない
というか
調味料なしでうまく調理された料理であり
上手にやったとはわかるけど
味がない


 詩の場合は言葉で作者の立ち位置がそのまんまわかります

この手の表現を使うときは、よほど壮大にバックグラウンドを用意してないと、うわべを流れます。
からからの湖

から枯渇した音を連想することはわたしにはできません。あまりにも安易にあまりにも背景もなくいきなり単純な言葉が来るとき、それは読者への挑戦です。
このあとよほどのことがなければがっかりして終わります


枯渇した音
という表現が素晴らしいだけに
後の言葉たちが追い付いていないのです。
結局枯渇した音というすばらしい発想を
詩の言葉たちがかばーしきれないまま終わっています


F
枯渇した音、というテーマの着想は素晴らしいが、そのテーマをどう表現するかがまるでなっておらず、一歩踏み出して終わっているように見える。格闘もしていない。自分も出していない。羅列でイメージできるだろうということだがその羅列した言葉のチョイスも実に安直です。
足りないものは自分が納得するまで言葉と格闘しょうという覚悟。
それがないなら、音のない世界とタイトルつけて

歌詞のようなものを書けばよいのです



F
オデュッセイアはわたしも今年の春前後に通読しましてこれは面白すぎですね。神々が日常生活にどれほど深く絡み合っていたかが良くわかります。あの神々はみな、無意識から出て来た幻想であるという説を書いたのが、「神々の沈黙」
意識の気づきは、2000年前には、神々の言葉となって脳内に響いていたというとてつもない発想の本でした


A
ユリシーズオデュッセイアの英語読み)だけは1/4を読んでそこまでは真剣に読んだがどうしても先にいけない。かわりにホメロスオデュッセイアを読んだらアラビアンナイトのように面白かった。ジョイスはすごい

近代日本最大の詩人は夏目漱石だと古井由吉が言った

近代日本の詩人と言えば萩原朔太郎三好達治島崎藤村北原白秋などが思い浮かびますが・・・・
夏目漱石は実は近代日本の最大の詩人であった。そしてその漢詩の素晴らしさは日本文学史全体の中で最高峰と言われる室町五山文学の面々に、たった一人で比肩しうるほどの力量であった、そんなことを古井由吉さんが書いてます。漱石漢詩の理解には古井由吉の本がベストだと思っています。
 

漱石漢詩を読むと近代的自我を漢詩にしているのがよくわかります。漢詩ということで、「大意」で意味を羅列しても感じるところは少ないが漢文のままで味わうためには膨大な勉強が必要です。そこで、外国語からのような真剣な翻訳があればいいのですが、漢文自体が日本語ということもあって、それがされないのは日本文学の悲劇です。

 

そうなると実は夏目漱石という文人の小説しか知らないことになってしまう、つまり漱石の半分しか知らないことになってしまう。詩人漱石という日本文学屈指の漢詩の作者を知らないですましてしまう。

 

そんな現象が起こるのです。

 

 
 

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万葉集の中の随筆を知ってますか? |山上憶良の随筆は日本最古の随筆ではないか?

万葉集は歌集ですが、中には随筆もありますね。
山上憶良が病に伏したわが身を顧みて書いたもの。
現代文にて
沈痾自哀(ちんあじあい)の文①
「  ひとり考えてみると、朝夕に山野で狩猟をして生活の糧を得る者ですら、殺生の罪をうけることなく生活することが出来、昼夜に河や海に魚を釣る者すら、なお幸せに世を暮らしている。
まして、私は生れてから今日にいたるまで、進んで善を修める志を持ち、未だ一度も罪を犯すような心を持っていない。そこで、仏の三宝である仏・法・僧を尊び、一日も欠かさず勤行を行ひ、多くの神を尊重して、一夜として礼拝を欠いたことはない。
なんと、恥ずかしいことでしょう。私が何の罪を犯して、このような重い疾病になったのでしょうか
初めて重病にかかってから、もう年月も久しい。今年七十四歳で、頭髪はすでに白きをまじえ、体力は衰えている。この老齢に加えて、この病がある。諺に「痛い傷の上にさらに塩をつける。短い木の端をまた切る」というが、このことである。
手足は動かず関節はすべて痛み、身体は大変重くて鈞石の重さを背負っているようである。
布を頼って起き立とうとすると翼の折れた鳥のように倒れ、杖にすがって歩こうとすると足なえの驢馬のようである。私は、身は十分に世俗に染み、心もまた俗塵に汚れているので、過ちの原因、祟りの潜んでいる所を知ろうと思って、亀卜の占い師や神意を聞くものの門を叩いてまわった。
彼らのいうところは、時として本当であり、時として虚妄だったけれども、その教えのままに神に幣帛をささげ、祈りをささげつくした。しかし、いよいよ苦しみを増すことはあっても、一向に癒えることはなかった 」

万葉集第五巻の896首と897種の間に
山上憶良の随筆!が文庫本にして13ページ分(漢文と読み下し分が交互にあるから実質は7ページ分)もあります。
歌以外にもこういう珠玉の随筆があるところがすごい。もっと脚光を浴びてもいいのではないだろうか。
なにせ日本最初の随筆だろうから。

志賀直哉雑感 FF

芥川龍之介が日本人作家としてもっとも尊敬していたのは志賀直哉でしたね。その文章力と言う点での尊敬です。
志賀直哉は、流れで一切書かない、調子がでてきたらその勢いで書く作家がほぼ全部ですが芥川によると志賀直哉は、調子がでてきて流れに乗ってきたら立ち上がってそういう雰囲気を自分の中から消して、またゼロから書き出すのだそうです。
例で取り上げられた文章などもぼくなどもこれをもう数えきれないほど読みましたが、やはり志賀直哉の典型的な文体であり、勢いのすべてを消した文体というのはこういうものだなあと感じます。

この簡潔さ、この的確さ、それがぱさぱさして来ず詩情を生む、さすがに芥川をうならせた短編の名手です

文学日記 日本の随筆はなぜか短い 

日本の随筆はなぜ短いのか?

不思議に思うことがある。
モンテーニュのエセーというのは、何冊分もの文章だけど、日本の随筆を代表する 方丈記徒然草枕草子も、とても短い。現代語訳なら一晩で読んでしまうだろう。
短いのが不思議ということではない。
あれだけ鋭い洞察をするあの人たちが、たったあれだけしか書かないで満足したのだろうか。
紙が手に入らなかっただけなのだろうか。
源氏物語を書いた紫式部は手に入って 清少納言には入手困難というのはありそうにない。
吉田兼好鴨長明も、今でいえばフェイスブックの記事程度の長さをわずかしか書いていない。
もし彼らが、モンテーニュくらいの量を書いたら、わたしたちはとてもとても楽しめただろうと思う。

小説家ランキング
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雨の文学作品 名作の紹介 辻冬馬

雨の文学作品
辻邦生の「雨季の終わり」。作られた構築物だ。辻邦生の作品はうまいと思うけど自然の感じがなかなかしない。
志賀直哉の「城崎にて」。雨が蜂の死骸を流す話があった。
欧米の文学はあまり雨が降らないような気がするのは気のせいか。「武器よさらば」の最後は雨だし、スイスへの逃避行も雨の中ボートを漕いでいた。
「テレーズデスケールー」も雨が降るが、降っているとだけ書かれていて、何かこう重い。
ボードレールの詩には、雨を題材にしたものもあるし、ヘッセの詩にもある。詩なら雨を歌うが小説には登場しないのか?
トルストイツルゲーネフの場合は、ロシアだけあって雪のシーンがたくさん出てくる。
シャーロックホームズには雨の場面があったが、それも雨の中で何かをするという感じではない。モーパッサンは雨が降らない。スタンダールも雨が降らない。
ような気がする。
日本の小説でも雨の降る小説は少ない。
雨はやはり詩を喚起するものなのかもしれない。

文学日記 詩と小説の違いとは? 2019年以前


詩と小説の違いとは?

詩と小説の違いを一言でいうと、どうなるだろう?みなさんのご意見を伺いたいと思います


ぼくは、詩はソロの演奏で、小説はオーケストラとか四重奏だというとらえ方もしています

詩=無に命や魂を吹き込むこと。小説=無から創造した、ものの「影」を語ること。影=真実

詩は、心の奥にあるものを取り出し、カタチにする。
小説は、虚構と戯れる。

詩は言葉で世界を想像させること。

小説は言葉で世界を創造すること。

 詩は画像。小説は動画

詩はキリギリス。小説はアリ


 
小説は冬。詩は夏
詩は素材の味を活かした一品料理で小説は趣向を凝らしたフルコースだろうか。
連続と不連続。詩は行間という距離をとって活かす。言葉の配置の仕方が鍵になる。→不連続。対して小説は…言葉で空間を繋いで再現性を高めている。→連続 でしょうか?
宇宙と海

だと思います
音の波長と律動の違い

詩は凝縮された点。
小説は、広げられた面。
どちらも、虚構を使った真実。



詩」は小説よりも抽象的な表現が多様される。
 
 


文学を意識したのは中一から

若いころから文学好きでした。中学1年の時に読んだ武者小路実篤の「若き日の思い出
というのがぼくの人生を劇的に変えました。
それまではニュートンの伝記を読んで自分もニュートンのような科学者になって宇宙の秘密を解明するんだと思ってました。

でも中一の冬に武者小路実篤を読んで、そのまま中二もの1年間も没頭して「友情」や「愛と死」や「馬鹿一」「その妹」「詩集」「おめでたき人」などなど読んで、人生観が固まったように思います。
そして武者小路実篤トルストイに没頭したという話を読んでトルストイも読んだのだけど当時トルストイのすばらしさを理解する能力はありませんでした。

文学
と言っても文学というものはありません。
小説
書簡
日記

随筆
戯曲
評論
雑記
などの総体を文学と呼んでいるわけですね。
寺というものは存在せず、延暦寺金剛峯寺東大寺や日本に散らばる無数の寺を総称して、寺と呼んでるのと同じですね。
人間という人はいない。車という車はない、そんな感じです。

詩歌療法

最近、「詩歌療法」という本を読みまして、文学について思わぬ観点から再考する機会がありました。
「自由論」を書いたイギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルが若いころうつ病だったことは割と有名です。
しかしどうやって治ったかを知る人は少ない。
なんとワーズワースの詩集を読んで治ったのです。
バイロン詩集を読んだがなんの感動もなく、しかしワーズワースを読んで共感というか感応というか治った。
それはワーズワースが自然を歌うときに入り込むワーズワースにとっての自然観が、ミルの中の自然観と同じであり、ゆえにミルはワーズワースによって自分の中のある大きな広がりに気づき目覚め癒されたのだというのです。


一冊の小説と一冊の自己啓発本

自己啓発本には30代からはまりました。有名なナポレオンヒルから始まりジグジグラーやデニスウェイトリー、7つの習慣、などなど無数に読んできました。仕事のプレッシャーに耐えて克服するためですね。

でも今考えると、たぶんですけど、スタンダールの「パルムの僧院」とかゲーテの「ウィルヘルムマイスターの遍歴時代」とか、辻邦生の「時の扉」、チャンドラーの「長いお別れ」ホーガンというSF作家の「星を継ぐもの」シリーズ。清岡卓行の詩集などなど、の方が、はるかに記憶に残り、その世界に入り込むことで出てきたときには最新再生されましたね。

ただナポレオンヒルについては二時間話してくださいと言われてもそのまま話せるほど精通したので、それをうまく生かしきれてないということでもあるのだけど、ぼくは文學というものをもっと人生に生かすようにすればよかったと思っています。

でどうするのか

本を読んでそれをどう実人生に落とし込むのか
それについては文學も哲学も自己啓発も関係ないですね。
現実があったらそれを本に照らして考える
本を読んだらそれを現実に照らして考える

それがベストでしょうね。